新人時代から「オレ流」を貫いた落合博満氏(C)朝日新聞社
新人時代から「オレ流」を貫いた落合博満氏(C)朝日新聞社
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 落合博満といえば、即座に“オレ流”と返ってくるほど野球ファンにはおなじみの代名詞だが、そのルーツは「8回退部した」という伝説のある高校(秋田工)時代まで遡ることができる。そして、ロッテのルーキー時代も当然オレ流だった。

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 社会人の東芝府中で頭角を現した落合は、1978年に全日本の3番として世界選手権に出場するなど、24歳の遅咲きながら、アマ球界屈指の強打者として注目され、同年のドラフトでロッテに3位指名された。担当の城之内邦雄スカウトは、巨人時代に“エースのジョー”と呼ばれた名投手で、変化球に強く、外角球を右中間に飛ばす落合が「投手にとって嫌なバッター」だったことが決め手になったという。

 落合も無口で朴訥な城之内に好感を抱き、「ワシもロッテも賭けに乗ったんだね。だから、ダメでもともとと気軽に思って入ったんだよね。野球がダメでもこの世の中、いろんな職業があるんだもの。何やってもメシくらいは食べていけるからね」(岡邦行著『プロ野球これがドラフトだ!』 三一書房)と、これまたオレ流らしい動機のプロ入りだった。 

 そして、結果的に自由度の高い球団・ロッテに入ったことが幸いする。実は、落合は77年のドラフトで阪神が獲得を約束しながら指名漏れ。翌78年も巨人が指名するはずだったのに、江川卓の“空白の一日”事件により、ドラフトをボイコットした結果、指名できなくなったエピソードも知られている。もし、阪神や巨人に入団していたら、アッパースイングのフォームを無理矢理矯正され、おそらく、その後の落合はなかっただろう。

 ロッテでも入団早々、山内一弘監督から「お前のフォームじゃ、インコースが打てないから、プロは無理だなあ」と矯正を命じられたが、「やってもみないうちから、そんなことわかるものか。どうせダメなら、自分の好きなようにやっていこう。生まれつきの打法が、急に直るもんじゃないから、あくまで自分流でいこう」(自著『なんと言われようとオレ流さ』 講談社)と、あくまでオレ流を貫く。

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落合でもぶち当たった“プロの壁”