これらの動きに対し、下田武三コミッショナーは「20歳以下の若者が“どこそこでなければ働かない”と発言するのは口はばったい。一般社会ではそんなわがままは通用しませんよ」と不快感をあらわにし、「逆指名するような選手は大成しませんよ」と切り捨てた。

 だが、同年のドラフトで、水野をはじめ上位候補の多くが希望球団の指名を受けたことから、以後、逆指名は半ば“お約束”となる。

 翌84年には、三田学園の大型遊撃手・藤岡寛生が「巨人以外に指名されたら、(実家の寺を継いで)坊さんになる」と宣言。カチンときた他球団のスカウトが「お前みたいな奴は巨人に入れ。ウチの投手はみんなお前の頭を狙うよ」と啖呵を切ったそうだが、結果は1位・上田和明(慶大)に次ぐ2位指名で巨人入りの夢を叶えている。

 90年代に入ると、希望球団に加えて、「あそこは絶対にイヤ!」という名指しのNGも目立つようになる。

 90年、東都のドクターK左腕・小池秀郎(亜大)は「3球団(巨人、西武ヤクルト)以外なら社会人」と表明。地元(愛知県出身)の中日も大学側から「絶対に行きたくない球団のひとつ」と通告されたという。

 だが、即戦力のドラ1候補が少ないという事情から、前年の野茂英雄と並ぶ史上最多タイ8球団の競合1位指名となり、当たりくじを引いたのは、皮肉にも「最も避けたい球団」(矢野祐弘総監督)とされたロッテだった。

 老朽化し、閑古鳥が鳴く川崎球場を本拠としていた当時のロッテは、小池の外れ1位で阪神入りした湯舟敏郎(本田技研鈴鹿)も「ロッテだけは勘弁してもらいたい」と難色を示すなど、12球団一の不人気球団だった。ロッテを入団拒否した小池は「今のドラフト制度を見直すべきですよね」と要望したが、3年後の逆指名制導入を待たずして社会人経由で近鉄入りした。

 翌91年のドラフトでは、阪神がやり玉に挙げられる。

 甲子園のラッキーゾーン撤去を前に、センターライン強化を図る阪神は、アマナンバーワン遊撃手・田口壮(関学大)の獲得に動く。だが、田口は子供のころから憧れていたオリックスを逆指名した。

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田口に“フラれた”阪神は…