その小川監督が畠山との「一番の思い出」として挙げたのが2010年。高田繁監督の途中休養に伴い、ヘッドコーチから監督代行となってチームを巻き返しに導いたシーズンに思いを馳せ、愛弟子に対する“感謝”の念を口にした。

「高田監督から引き継いだ時に、(畠山を)レフトで使ったっていう……。これは賛否じゃなくて『否』しかなかったんだけど(苦笑)、それも後に監督っていう立場でやれた1つの大きな要因だったと思います」

 借金19を抱えた状態でチームを預かった小川監督代行が、低迷する打線のテコ入れとして打ち出した策の1つが、それまで一軍では外野を守ったことのない畠山のレフト起用だった。これがズバリ当たり、畠山は打率.300、14本塁打の好成績をマーク。ヤクルトは最終的に4つの貯金をつくり、その手腕を評価された小川監督代行は翌年から監督に昇格するのだが、畠山の活躍がその「1つの大きな要因」だったというわけだ。

 畠山は翌2011年には4番・一塁に定着してリーグ2位タイの23本塁打を放つが、ただ振り回すだけのバッターではなかった。引退会見で「自分を誇りに思えることは?」と聞かれて「取れる点を絶対取るというのを、高い確率で遂行できたっていうこと」と話したように、チームに得点をもたらすのが上手い“点取り屋"だった。ヤクルトがリーグ優勝した2015年は、4番・畠山の後を打っていた雄平がいう。

「内野ゴロで1点を取れる時はわざと初球から内野ゴロを打つとか、貪欲に打点を稼いでいくっていうのはすごく感じてました。分かっててもそれができないっていうこともたくさんあるから、それも1つの技術だと思います。得点圏打率に表れなくても、犠牲フライや内野ゴロでランナーを返すこともできるんで、そういうのを意識的にやってましたね」

 畠山は2015年に自己最多の105打点を叩き出し、ヤクルトの日本人選手では広沢克己(現・広澤克実、1991、93年)に次いで2人目の打点王を獲得。まさに“点取り屋”の面目躍如といったところだが、何も「打点」にこだわっていたわけではない。

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