大迫は日本男子マラソン界の救世主ともいえる存在だ。16年リオ五輪は5千メートルと1万メートルに出場した。初マラソンは17年4月のボストン。2時間10分28秒で3位に入った。同大会では1987年に瀬古利彦が優勝して以来、日本選手としては30年ぶりの表彰台だった。2度目が福岡国際、3度目が日本記録を出したシカゴ。右肩上がりに記録を伸ばし、順位は3レースとも3位で表彰台に上がっている。


 
 そして迎えた今年3月の東京マラソン。2時間4分台のベスト記録を持つアフリカ勢と相まみえて高速レースを体験すること、その後のMGC、五輪に向けて東京でのマラソンの雰囲気を経験しておくことがテーマだった。
 
 スタート時の気温は5.7度。冷たい雨が降り始め、号砲前から大迫は腕をさするなどして寒さを気にしている様子があった。レースは1キロ2分57~58秒の設定より少し速く進んだ。大迫は先頭集団の後方につき、中間点を1時間2分4秒というハイペースで通過。しかし、直後に集団から遅れはじめ、20~25 キロのスプリットタイムを15 分36秒と大きく落とし、29キロ付近でコースをはずれた。4度目のマラソンで初めての棄権となった。
 
 レース後は報道陣の前に現れなかった大迫だったが、4日後、シカゴでの日本記録樹立に伴う褒賞金1億円の贈呈式に姿を見せ、東京マラソンを振り返った。

「棄権には皆さんが思っているほど深い理由があるわけではなく、走り続けることに意味がなかっただけです。結果は残念でしたが、じゃあ、打ちひしがれているとか、挫折があったかといえばそうではない」

 いつもの負けん気をのぞかせた。

■負けん気の強さは随一 朝練で先輩に勝ちにいく

 時に他人を寄せ付けない雰囲気を醸し出す。その原点はどこにあるのか。大迫は東京都町田市出身。中学時代から本格的に陸上を始め、3年のときの全国選手権では3千メートルで3位に入っている。高校は上野裕一郎(現・立教大学監督)、佐藤悠基(日清食品グループ)らを輩出した長距離の名門佐久長聖高校(長野)へ進んだ。冬はマイナス15度にもなる気候、寮生活、携帯電話も禁止。大迫は「厳しい環境のほうが、陸上に集中できると思った」と語る。
 

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