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うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は、いつものコラムとはちょっと違う、野上さんが忘れられない思い出のエピソードをお届けします。
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今回のコラムのテーマは、個人的な別れの思い出について。普段とはいっぷう異なるスタイルながら、ずっと「載せたい」と温めてきました。よければお読みください。
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福島の雲と空が好きだった。その福島を一昨年2月、自宅のある東京で治療を受けるために離れた。最後に目いっぱい眺めておこうと、自分で車を運転してきた。助手席には前日までの1年11カ月間に福島で関わった全国版と地方版の紙面のコピー。自宅までの3時間超、車もバイクも1台も追い抜くまい、と決めて走った。もう自分を待っている仕事はない。急ぐ必要はないのだ。
途中でスマートフォンが鳴り、サービスエリアで着信相手を確かめると、政治部の同僚だった。かけ直して病状を説明すると、朗らかな声が沈み、少し黙ったあと、声をうわずらせた。「僕がなんとかします!」
ふっ、と笑いが鼻から漏れた。そんなこと言ったって、なんともしようがないだろう? でも、思ったままを口にするのが彼らしい。「ありがとう」。礼を言い、電話を切った。
振り返れば彼と私との付き合いは10年になる。明るくあか抜けた彼と、そうではない私。正反対なところが逆によかったのか、不思議とうまがあった。
前回の安倍政権では、ともに自民党を担当した。少々的外れな先輩記者が出してきた原稿案に対し、「いま書かなければいけない原稿は、これとは違う。もっとこうした話ではないか」と彼がかみつき、もう1人の後輩と私がそれに続いたことがある。そのとき立ったさざ波は、彼の名前とセットで「一揆」と仲間内ではよばれている。