「お茶の水橋」工事で突如現れた85年以上前の都電軌道 歴史的な遺構は撤去されるのか
連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

林順信氏から譲り受けた明治末期の絵はがき。1891年に架橋された初代「お茶の水橋」と外濠線の電車が写る。右側に甲武鉄道御茶ノ水駅と背景にニコライ堂が位置する
1905年に発行された「外濠電車唱歌」には、お茶の水橋からの眺望がこう唄われていた。
數丈(すじょう)も高き橋の上(へ)に
立ちて東し(ひがし)を眺むれば
神田、浅草、日本橋
下谷、本所も唯(ただ)一目
■第二次大戦中に廃止に
外濠線を経営した東京電気鉄道は東京鉄道会社を経て、1911年に東京市電となり、1943年以降東京都電となった。
錦町線は外濠線の本線だったが、1923年の関東大震災でお茶の水橋が罹災して神田川を渡れなくなった。これに代わって錦町河岸~神保町~水道橋を結ぶ水道橋線が利便性で勝るようになり、錦町河岸~御茶ノ水で折り返し運転する閑散線区に凋落していった。1929年に「臨」22系統、1936年では「特」13系統として同区間で運転されていた。
第二次大戦の戦局が悪化して、不要不急な閑散路線の整理が始まると、この線も俎上(そじょう)に上がり、1944年5月4日に廃止されてしまった。先人の記述を参考にすると、運行車両は三田車庫配置の小型四輪単車400型が充当され、日中は二両でこの短区間を交互運転していたそうだ。
工事の進捗により、補修の妨げとなる軌道遺構は撤去されることになるだろう。だが、昭和初期の貴重な鉄道遺構として、軌道の一部分でも展示保存されることを希望してやまない。
■撮影:2020年1月29日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。
諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数
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