1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は「都電のクリニック」ともいえる東京都交通局電車両工場を紹介しよう。
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港区芝浦の旧海岸通り南端の埋め立て地に、東京都交通局電車両工場(正式名称が「でんしゃりょうこうじょう」/以下、芝浦工場)が所在した。四方を海と運河で囲まれた「長崎の出島」のような立地だ。中学生の頃、正門のあった船路橋を渡って工場の中を覗くと、入り口から数歩入ったところに解体寸前の乙100型が鎮座していた。強面の守衛のおじさんに撮影の許可を求めたが、見事に門前払いされた思い出がある。
交通局の資料によると、芝浦工場が設置されたのは1920年10月で、当初は浜松町本工場の支場として開設した。1923年9月の関東大震災では被災を免れ、震災後に焼失した本工場などの機能に自動車修繕業務を併設した本工場に昇格した。
第二次大戦中に海軍専管工場として施設を供用されるなどの混乱期を経て、1960年代には約1200両の都電の修繕を受け持つ全盛時代を迎えている。
■「都電のクリニック」を訪ねて
芝浦工場に初めて入場できたのは、高校に進学した1963年の初夏だった。旧在籍車両の図面を閲覧するのが訪問目的だった。学校帰りの土曜日の午後のこと、カメラを持たない「丸腰」で入場したのは迂闊だった。現場で多少ネゴれば、数枚のスナップは可能だったはずだ。
翌年1月、試作の弾性車輪を見学する名目で芝浦工場の撮影許可が下りた。冒頭の写真が、訪問時に撮影した車両検査棟で台車入れを待つ都電群だ。オーバーホールを受けて灰色に塗られたD10台車が画面右隅に写っている。
次のカットが見学目的の試作弾性車輪。都電は5500、6500型の8両と7020号1両に弾性車輪を使用していたが、撮影した車輪がどの形式に用いられるのかは未定だった。大阪市電や京都市電では、防振防音対策としてかなりの両数に弾性車輪が使用されていたが、都電では上記の9両の他には普及しなかった。
1960年代に入ると、1947・1948年度に製造された6000型の車体陳腐化がはなはだしくなり、大規模な更新修繕が実施されることになった。