第3局の開催地は栃木県大田原市。両対局者は昼食に地元産A5ランク黒毛和牛が使われた「与一和牛のビーフカレー」を注文していた(写真は藤井のカレー)(写真:日本将棋連盟提供)
第3局の開催地は栃木県大田原市。両対局者は昼食に地元産A5ランク黒毛和牛が使われた「与一和牛のビーフカレー」を注文していた(写真は藤井のカレー)(写真:日本将棋連盟提供)

「封じ手のあたりは失敗したのかなと思っていて」(藤井)

 2日目。中盤の難所で渡辺は自陣に桂を打って、藤井の動きを催促した。

「なんかもう、殺してみなさい、で」(渡辺)

 藤井の猛攻を誘発するのは目に見えている。しかしそれで大丈夫と踏んだ渡辺の形勢判断は正しかった。

「攻めていったんですけど、進んでみるとちょっと足りないのかなという感触ではありました」(藤井)

 渡辺陣を一気に攻略することはできず、藤井は中段に桂を跳ね、力をためて開き直った。手番は渡辺に渡る。このときコンピューター将棋ソフト(AI)が示す評価値は、渡辺よしを示していた。

「ここは負けってことはないと思うんだけどなあ」

 局後の検討で、渡辺はそうつぶやいた。形勢はいい。しかし渡辺は難しい選択を突きつけられていた。主な候補手としては攻防に角を打つか。それとも攻め合いで桂を打つか。

 本譜、渡辺は角を打った。局後に藤井は桂を指摘する。

「ああー。桂でしたか」(渡辺)

 渡辺が正着を逃し、形勢は藤井よしに変わった。しかし渡辺が選んだ順で負けになったかというと、必ずしもそうではない。両者とも時間切迫の中、見る者をうならせるギリギリの攻防が続いていく。藤井に大きなミスがあれば、一気にひっくり返る可能性も秘められていた。

 盤面右側にいた渡辺玉は、いつしか遠く逆サイド、左隅にまで追い込まれる。藤井は歩を打って王手で追撃した。持ち時間8時間のうち、残りは藤井3分、渡辺18分。

 渡辺は王手を見て観念してしまった。しかしそこが最後の勝負所だった。渡辺は13分考えて、玉をかわす。代わりに藤井の指し手を正面からとがめるべく同玉と応じ、以後も手段を尽くせば勝敗は不明だった。

■2人ともエアポケット

「どういう錯覚なんだ」

「説明不能」

「理解に苦しむね」

 渡辺からはそんな嘆きが聞かれた。両者はともに錯覚をしていた。罪が重いのは、とがめられなかった渡辺のほうだ。

「ここで13分考えているのに両者、気が付かないというのも不思議なんですけど、エアポケットとしか言いようがなく、過去にも何度かそういう経験はあります。相手を信用してしまっているのもダメなところなんですが」

 動かなかった藤井の地下鉄飛車。藤井は飛車を相手に取らせ、手を稼ぐはたらきをさせた。

 渡辺玉の詰みは決して簡単ではなかった。途中、手順を間違えれば「打ち歩詰め」の禁じ手で逃れる罠(わな)まである。しかし藤井は残り時間がほとんどない中、その詰みを正確に読み切った。最後まで進めれば、歩が1枚も余らない23手詰めだ。

 渡辺は最後、身をよじるようなしぐさを見せた。そして心を落ち着け、自分に負けを言い聞かせたあと、居住まいを正し、静かに投了を告げた。(ライター・松本博文)

AERA 2022年2月14日号より抜粋

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松本博文

松本博文

フリーの将棋ライター。東京大学将棋部OB。主な著書に『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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