毎年ノーベル賞の待ち会が行われる三宮のレストラン・ピノッキオ。村上は学生の時からこの店に通い、震災後も2度訪れている(撮影/楠本涼)
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毎年ノーベル賞の待ち会が行われる三宮のレストラン・ピノッキオ。村上は学生の時からこの店に通い、震災後も2度訪れている(撮影/楠本涼)
『風の歌を聴け』の表紙に描かれた神戸港の埠頭。現在は倉庫群がなくなり突堤は公園に。明治の開国以降、世界有数の貿易港として日本の成長を支えた(撮影/楠本涼)
『風の歌を聴け』の表紙に描かれた神戸港の埠頭。現在は倉庫群がなくなり突堤は公園に。明治の開国以降、世界有数の貿易港として日本の成長を支えた(撮影/楠本涼)
『ランゲルハンス島の午後』に出てくる夙川の葭原橋。海岸にほど近く、小中学校時代の村上は登下校中、この橋の上に立って海を眺めたと思われる(撮影/楠本涼)
『ランゲルハンス島の午後』に出てくる夙川の葭原橋。海岸にほど近く、小中学校時代の村上は登下校中、この橋の上に立って海を眺めたと思われる(撮影/楠本涼)
『辺境・近境 写真篇』の中で村上が「モノリスの群れ」と表現した芦屋浜シーサイドタウン。1970年代に日本の住宅産業の技術を結集して建設された(撮影/楠本涼)
『辺境・近境 写真篇』の中で村上が「モノリスの群れ」と表現した芦屋浜シーサイドタウン。1970年代に日本の住宅産業の技術を結集して建設された(撮影/楠本涼)
埋め立て後の現在の芦屋浜。村上はかつてここにあった「本物の海」を愛した(撮影/楠本涼)
埋め立て後の現在の芦屋浜。村上はかつてここにあった「本物の海」を愛した(撮影/楠本涼)
一枚ずつ通し番号のシートが添えられるピノッキオのピザ。村上が食べたのは95万8816枚目だった(撮影/楠本涼)
一枚ずつ通し番号のシートが添えられるピノッキオのピザ。村上が食べたのは95万8816枚目だった(撮影/楠本涼)
ピノッキオでの待ち会の様子(撮影/楠本涼)
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ピノッキオでの待ち会の様子(撮影/楠本涼)

 今年もまた、ノーベル文学賞が通過していった。狂騒もさめ、今は静かにその作品と作家の軌跡をたどり直してみたい。きっかけは「風景」だ。村上春樹を歩く小さな旅に出かけよう。

 村上春樹は1949年1月、京都に生まれた。その後すぐ兵庫県の西宮市に引っ越し、18歳まで芦屋~神戸の阪神間で過ごした。79年発表のデビュー作『風の歌を聴け』も、70年8月の港町・神戸が舞台だ。21歳の大学生「僕」が東京から帰省し故郷で過ごす19日間を描いたこの作品で、村上は作家としての人生を歩み始めた。

 表紙を装画したのは神戸市長田区出身の漫画家・絵本作家の佐々木マキ。村上が10代の頃、「ガロ」掲載の佐々木の漫画を愛読していたことから、初めて書き上げた小説の装画を依頼したという。現在、神戸港の突堤から装画に描かれた方向を眺めてみても、レンガ造りの倉庫はどこにも見えない。95年の阪神・淡路大震災は、神戸港にも甚大な被害をもたらした。青年が座っていた船舶を係留するボラードと六甲山の山並みが、わずかに今も『風の歌を聴け』の時代と変わらぬ姿を留める。

 震災から8カ月後の95年9月、自作の朗読会のために久しぶりに芦屋と神戸を訪れた村上は、街の至るところに残る震災の傷痕の深さに愕然とする。その2年後、再び故郷に戻り、西宮から神戸・三宮までを2日間かけて歩いた。かつて住んでいた古い家はなくなり、通った小学校、中学校のそばを歩いても、通りに見覚えはない。時の経過と震災の復興が、街の様子をすっかり変えてしまっていた。そんな中で今でも村上の少年時代と変わらぬ姿を保っていると思われるのが、夙川の河口近くにかかる「葭原橋」だ。

<僕の家と学校のあいだには、川が一本流れている。それほど深くない、水の綺麗な川で、そこに趣きのある古い石の橋がかかっている。バイクも通れないような狭い橋である。まわりは公園になっていて、キョウチクトウが目かくしのように並んで茂っている。橋のまん中に立ち、手すりにもたれて南の方に目をこらすと、海がきらきらと光を反射させているのが見える。>
(『ランゲルハンス島の午後』新潮文庫、106~107ページ)

●失われた風景と変わらぬ街

 だがその海の景色もすっかり失われた。堤防の向こう側にあった香櫨園の海水浴場は埋め立てられ、その西側の芦屋の浜には村上が「モノリスの群れ」と記す高層アパートが建ち並ぶ。 震災後の神戸の街にも、変わらず残っているものはある。村上が通った山の手にある神戸高校に足を運ぶと、広いグラウンドでラグビーの大会が行われていた。眼下には神戸港、天気が良いため大阪湾の向こう側のビルの影まで見通せる。ここで過ごした高校時代、村上は外国船の船員たちが古本屋に売った洋書のペーパーバックを読みふけっていたという。現在、世界数十カ国語に翻訳される村上の世界性の基礎は、異国の香り濃い神戸だからこそ育まれたと言っても間違いではないだろう。

<でも神戸で僕が昔よく行ったいくつかの店は、嬉しいことにまだ健在だった。海岸近くの「キングズ・アームズ」もしっかりと残っていたし(両隣のビルはみごとになくなっていたけれど)、ピザを食べた中山手通りの「ピノッキオ」も残っていた。>
(『うずまきのみつけかた』新潮文庫、246ページ)

 ピノッキオは、村上も学生時代にデートで利用したことがあるという、ピザが自慢のイタリア料理店だ。創業は62年。村上が高校生の頃は神戸市内にもピザを出す店は珍しく、コーヒーが一杯60円ほどの時代。コーラとピザで千円ほどかかったピノッキオは、学生にとって贅沢なデートコースで、彼女をここに連れてくるのが念願だった若者も多かったという。最近では、中国、韓国など世界の村上ファンが訪れる「聖地」となっている。

●来年もまたここで待とう

 そのピノッキオで4年前から毎年10月になると行われるのが、ノーベル文学賞受賞の「吉報を待ちわびる夜」の会だ。今年も関西近郊から20人ほどのハルキストと、その倍以上の報道陣が店に集まった。午後8時の発表を、スマホやパソコンの画面を眺め、固唾をのんで見守る。発表者が登場し、フランス語で「ボブ・ディラン」と発表すると、店中から「あ~残念」と落胆の声が上がった。

「楽しみは長いほうがいい」
「来年また集まりましょう」

 と互いに顔を見合わせ、「やけ酒だ!」とあらためて明るく乾杯する。

 昨年からこの会に参加する田口ゆかりさんは、神戸市内の高校で生物を教える教師だ。高校生のときに『羊をめぐる冒険』を読んでからの村上ファンで、以後20年以上、エッセイも含めすべての作品を愛読する。「登場人物の心情のゆらぎと、クールで乾いた理性的な文章。その二重の視点が村上作品の魅力だと感じています」と語る。

 村上が震災直後の朗読会で読んだのは「めくらやなぎと、眠る女」という短編だった。「蛍」とともに『ノルウェイの森』の母体となったことで知られるこの作品の中には、久しぶりに故郷に帰省した「僕」が、いとこからこの地で就職することを勧められるくだりがある。すると「僕」は「東京に戻ってやらなくちゃならないことがある」と述べたあとで、<やらなくちゃいけないことなんて、どこにもひとつもない。でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ>(『レキシントンの幽霊』文春文庫、193ページ)と独白する。なぜ故郷にいられないのか、その理由は描かれない。村上の小説は常に「一番大切なこと」を沢山のメタファーの中に隠す。その謎は、容易に解けない。しかしだからこそ、世界中の人々が彼の小説に惹きつけられ続けるのかもしれない。(ライター・大越裕)

AERA 2016年11月7日号