大学卒業後、僕は義兄の経営する芸能プロダクションに就職。給料は安くて、普通の大卒の給料の半額以下、税金を引かれて月1万8千円くらいだった。音楽が周りにあるし、勉強になったから苦にはならなかったですよ。お金がないから、結婚したいのになかなかできないのには困ったけど(笑)。

 そのプロダクションにはスタジオがあったから、家に帰らずにそこで作曲して。プロダクションの新人をトレーニングしたり、彼らに曲を書く、みたいな仕事もした。演歌歌手やグループサウンズのためにいろんなジャンルの曲を作ってました。そのうちにオリジナルもどんどん増えてね。阿木もほかの仕事をしながら、詞を書いてくれました。

 でもしばらくしてプロダクションが倒産しちゃった。それで、義兄に「弾き語りの仕事があるけど」と言われて。横浜市の本牧の店でした。そのうちにオーナーが「君、店長やらないか」と言ってくれたんです。やっと結婚できる!って。25歳のときでした。

 でも、その店を半年でつぶしちゃって、銀座でも弾き語りの仕事をして、そのうち音楽出版社の人が「レコーディングをしないか」と言ってきたんです。最初は「僕は裏方だしなあ」と乗り気ではなかったんだけど、どんな方向性にしようかと、洋楽邦楽問わず尊敬するアーティストのレコードを引っ張り出してみたんです。そのとき泉谷しげるのレコードが「ポン」と床に落ちた。

 ファーストアルバムで、まあファンだったから持ってたんだけど、改めてジャケットを見たら「うわ、このルックスでイイんだ!」(笑)。曲はギターに鼻歌。これでいけるなら、自分もと。流れに乗ってみることにしました。

 72年、26歳でソロシングルを発表。翌年に「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成し、デビューする。リーゼントにつなぎのスタイルは、偶然、生まれた。

 最初は、ルックスも音楽性も全然違ったんです。どちらかというとブルースロックで、みんな長髪に近くて、ロンドンブーツを履いてた。

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