徳川恒孝(とくがわ・つねなり)徳川宗家18代当主1940年生まれ。学習院大学卒。日本郵船に入社し、副社長などを歴任。徳川記念財団理事長、WWF(世界自然保護基金)ジャパン会長(撮影/写真部・長谷川唯)
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徳川恒孝(とくがわ・つねなり)
徳川宗家18代当主
1940年生まれ。学習院大学卒。日本郵船に入社し、副社長などを歴任。徳川記念財団理事長、WWF(世界自然保護基金)ジャパン会長(撮影/写真部・長谷川唯)
石田秀雄(いしだ・ひでお)石田三成15代目子孫1950年生まれ。慶応義塾大学卒。三陽商会に入社、定年まで勤める。滋賀県長浜市と岐阜県関ケ原町での法要には毎年参加している(撮影/写真部・長谷川唯)
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石田秀雄(いしだ・ひでお)
石田三成15代目子孫
1950年生まれ。慶応義塾大学卒。三陽商会に入社、定年まで勤める。滋賀県長浜市と岐阜県関ケ原町での法要には毎年参加している(撮影/写真部・長谷川唯)
真田幸俊(さなだ・ゆきとし)真田家14代当主1969年生まれ。慶応義塾大学卒、カナダ・ビクトリア大学大学院修了。工学博士。現在、慶応義塾大学で教授を務める(撮影/写真部・長谷川唯)
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真田幸俊(さなだ・ゆきとし)
真田家14代当主
1969年生まれ。慶応義塾大学卒、カナダ・ビクトリア大学大学院修了。工学博士。現在、慶応義塾大学で教授を務める(撮影/写真部・長谷川唯)
長宗我部友親(ちょうそかべ・ともちか)長宗我部家17代当主1942年生まれ。早稲田大学卒、共同通信社経済部長などを経て、2002年常務監事、04年に退任。著書に『長宗我部』(文春文庫)など(撮影/写真部・長谷川唯)
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長宗我部友親(ちょうそかべ・ともちか)
長宗我部家17代当主
1942年生まれ。早稲田大学卒、共同通信社経済部長などを経て、2002年常務監事、04年に退任。著書に『長宗我部』(文春文庫)など(撮影/写真部・長谷川唯)

 大河ドラマ「真田丸」が好調な今、戦国時代が熱い。天下分け目となった関ケ原の戦い、大坂の陣から400年余。週刊朝日ムック「武将の末裔 平成の陣」の出版記念として開かれた座談会にて、東西両軍の御大将、徳川宗家18代当主の徳川恒孝(とくがわ・つねなり)と石田三成15代目子孫の石田秀雄(いしだ・ひでお)さん。そして真田家14代当主の真田幸俊(さなだ・ゆきとし)、長宗我部家17代当主の長宗我部友親(ちょうそがべ・ともちか)さんが時を超えて集結し、再び火花を散らした!

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司会・岡愛子アナウンサー(以下岡):大坂の陣についてお聞きしたいと思います。長宗我部さんにお話を伺います。

長宗我部友親氏(同長宗我部):関ケ原で負けた後、徳川家から御堪忍分が長宗我部家に与えられることが書状に残っています。御堪忍分というのはおそらく、減封にしても所領は与えるということです。ということは、当初は家康公に長宗我部家をすべて潰そうというつもりはなかったのではないかと思います。ところが結局、改易されて15年も浪人することになった盛親は、大名家の夢をもう一度見たくて大坂の陣に加わったのでしょう。非常に残念な結果に終わりましたが、盛親にはその選択肢しかなかったのかなと。歴史にifはないですが、長宗我部家内をもう少しうまく盛親が抑えていれば、別の展開はあったと思います。

岡:もしご自身が同じ立場でも、盛親と同じような選択をなさいましたか。

長宗我部:もしと言われれば、盛親が隠居して、兄の親忠に家を渡すというのが一番スムーズな形だったかなと。ただ、それだけの余裕が若い盛親にはなかったのではないでしょうか。

岡:大坂の陣では真田家も難しい面がありました。

真田幸俊氏(同真田):大坂の陣の時に真田信繁はさほど有名ではなかったんです。それほど戦績が残っているわけではないですし。有名ではなかった証拠として、京都所司代の板倉勝重の手紙に、源次郎ではなく源三郎が大坂に加わったと間違えて書いてあるくらいです。

竹内誠・江戸東京博物館館長:少し前までは、信繁と言われても、誰だ?でした。真田幸村という物語の主人公としては有名でしたが、真田さんがおっしゃったように、大坂の陣で真田信繁というのは全国に名を轟かせた武将ではなかったのではないかと。最近の研究で、真田丸での戦い方や、あと一歩のところまで家康を追い詰めたということなどから、改めて戦国武将としての信繁が評価された。それから判官びいきですね。日本人は悲劇的に終わる人に対してすごく同情する。信繁の人生を見ていくと、関ケ原の戦いから始まり、長い間九度山に蟄居(ちっきょ)させられていて、大坂の陣で討ち死に、という人生ですから。

真田:今振り返りますと、信繁が武名をあげて、信幸が家名を残して、ということで大変ありがたいんです。でも当時は、信繁が参戦することで、徳川様についている信幸は相当困ったのではないかと思います。信繁は「ごめんなさい。でも参戦してしまいました」みたいな手紙を書いている。十何年も蟄居生活でしたから、最後に武士として一花咲かせたいという信繁の気持ちもよくわかります。

岡:家康公の働きについてはいかがでしょうか。

徳川恒孝氏(同徳川):若い時は気が短かった家康公ですが、だんだん年を取るにしたがって重みがついて、いろいろなことが見えるようになっていく。そして最後に関ケ原があって大坂の陣がある。もっと早い段階でぶつかっていたら、とても歯が立たなかったかもしれない。もともと三河の松平郷から出た小さな殿様ですから。気の短い戦争をして、負ける時は惨敗して。お城に逃げ帰ったこともある。そういう危機一髪の戦を繰り返して、最後の大きな賭けでいいカードを引いた。ポーカーのように。本当にぎりぎりで紙一重だったのだろうというのが私の感想です。

岡:NHK大河ドラマ「真田丸」が現在、放送されていますけれども、テレビなどでご先祖が紹介されるのを末裔の皆さまはどういうお気持ちで見ていらっしゃるのでしょうか。

真田:「真田太平記」の時の描き方とまったく違いますね。これまでは昌幸や信幸が非常に能力があって、素晴らしい決断を次から次へとしていく。ところが「真田丸」ではまさに「先が見えない中を必死にもがいている」という感じで、おそらく当時もそんな感じだったんだろうと思います。

岡:徳川さんはお忙しく「真田丸」をご覧になられていないとのことですが、ドラマなどでの描かれ方についてどうお感じですか。

徳川:ある時は神のごとく、ある時はこんなひどい奴はこの世にいないだろうと、互い違いにぶれますから、その真ん中あたりにおられたのだろうなという感じですね。よく描かれている時は笑顔で、悪く描かれている時に憤慨するということはございません(笑)。

岡:石田さんは石田三成役の山本耕史さんにお会いになられたそうですね。

石田秀雄氏:去年11月の法要にぜひ参加したいと、山本さんから連絡をいただきまして、来ていただいたんです。今までいろんな俳優さんが三成を演じていますが、やっぱり悪役なんですね。だから「いい三成を演じてくれ」と言いました(笑)。地元の滋賀県でも相当力を入れてキャンペーンをやっています。「真田丸」もきっかけにして“世界の三成”にしていきたい(笑)。(構成 本誌・秦 正理)

週刊朝日  2016年5月20日号より抜粋