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話題の角川ホラー映画『バイロケーション』プレイベントを東京で開催
話題の角川ホラー映画『バイロケーション』プレイベントを東京で開催 来年1月公開の角川ホラー文庫20周年作品、映画「バイロケーション」の予告編が公開されました。「バイロケーション」とは、自分と同じ姿形、個性をもった人物が出現し、同時に複数の場所で目撃されるという謎の現象。世界各地で目撃例が報告されています。映画では、女優の水川あさみが1人2役で主演を務めるほか、人気アイドルグループ「Kis-My-Ft2」の千賀健永と、ジャニーズJr.の高田翔が出演しています。原作となったのは、第17回日本ホラー小説大賞長編賞を受賞した、若手ホラー作家・法条遥氏の同名小説。>画家を志す忍は、ある日スーパーで偽札の使用を疑われる。10分前に「自分」が同じ番号のお札を使い、買物をしたというのだ。混乱する忍は、現れた警察官・加納に連行されてしまう。だが、連れられた場所には「自分」と同じ容姿・同じ行動をとる奇怪な存在に苦悩する人々が集っていた。彼らはその存在を「バイロケーション」と呼んでいた...。12月1日には、東京・下北沢の書店B&Bでは公開を記念したイベントを開催。本作の監督で、『ケータイ刑事 銭形零』『呪怨 黒い少女』『リアル鬼ごっこ5』などの作品でも知られる安里麻里監督をお迎えし、映画『バイロケーション』の魅力を紐解きます。日本のホラー小説・映画好きにとっては、たまらないイベントとなりそうです。【関連リンク】映画『バイロケーション』公開記念『バイロケーション』×安里麻里監督×下北沢http://bookandbeer.com/blog/event/20131201_bt-2/
タムロン鉄道風景コンテスト入賞作品写真展が開催。オープニングセレモニーでは表彰式が行なわれた
タムロン鉄道風景コンテスト入賞作品写真展が開催。オープニングセレモニーでは表彰式が行なわれた 小・中・高校生の部大賞に輝いた作品「水鏡」(撮影:中野俊輔君) 一般の部大賞(さいたま市長賞)を受賞した千葉満弘さん(44歳、神奈川県川崎市)と受賞作品「夏の終わりに」 小・中・高校生の部大賞(さいたま市教育委員会教育長賞)を受賞した中野俊輔君(9歳、静岡県沼津市)と受賞作品「水鏡」 上:審査員をつとめた鉄道写真家広田尚敬氏とフォトライターの矢野直美氏。 下:写真中央が、さいたま市の清水勇人市長、右端がタムロンの小野守男社長  タムロンは、2013年10月に結果を発表した、「第6回 タムロン鉄道風景コンテスト 私の好きな鉄道風景ベストショット」の入賞作品展をスタートさせた。同展では全88点の受賞作品が展示されている。  場所は、そごう大宮店3階特設会場(さいたま市大宮区桜木町1-6-2 最寄り駅:JR大宮駅西口)。11月21日まで開催される。開催時間は午前10時~午後8時。  同展では、各部門の大賞作品をはじめ、入選作品を展示。開催初日には、オープンニングセレモニーが開かれた。同コンテストと作品展を後援している、さいたま市の清水勇人市長はじめ、さいたま商工会議所の会頭も出席し、各受賞者の表彰式が行なわれた。 一般の部大賞の千葉満弘さん(44歳、神奈川県川崎市)には賞金30万円と副賞のタムロンレンズ、小・中・高校生の部大賞の中野俊輔君(9歳、静岡県沼津市)には賞金10万円とタムロンレンズがそれぞれ贈られた。審査員は第1回目から鉄道写真家の広田尚敬氏とフォトライターの矢野直美氏がつとめている。  「一般の部 大賞」を受賞した千葉満弘さんは、これまでブランクをはさみながら、10年ほどの写真歴を重ねてきた。勤めが休みの日、電車に乗って好きな路線を訪ねるという。  「風景の中に鉄道が入り込んだ撮り方がよくて。特に新幹線が好きですね」  列車の形状、一瞬の表情に惹かれるそうだ。撮るだけでなく、ホームページ「新幹線を撮ろう」も立ち上げ、管理人を務めている。  受賞作「夏の終わりに」では、沿線で野焼きの煙が上がるなか、走り抜ける列車をとらえた。日没まで3時間ほど撮り続けた写真から選んだという。  「ほぼイメージ通りの仕上がりでした。手応えがあったので、コンテストに初めて応募してみました」  「小・中・高校生の部 大賞」に輝いた中野俊輔君は、父親の鉄道撮影に同行するうちに、写真を撮りはじめた。父親の中野俊之さんは、昨年のこのコンテストで、一般の部大賞を受賞している実力者だ。俊輔君は、2年前からお父さんのお下がりのデジタル一眼レフカメラを使いはじめた。  「いろいろな電車が見られて楽しい。僕は流して撮るのが好きです」と俊輔君。お父さんと一緒の場所で撮ることが多いそうだ。  「このシーンは息子の方がうまく撮れていたので応募しました」(中野俊之さん)  もちろん俊之さんも入賞を目指し応募したが、惜しくも落選。息子の快挙は嬉しくもあるが、少し複雑な気持ちかもしれない(?)。 * * * 第6回 タムロン鉄道風景コンテスト 私の好きな鉄道風景ベストショット 「鉄道風景」を撮影対象とすることで、鉄道ファンのみならず、幅広い層から応募があるところにも特徴がある。「一般の部」および「小・中・高校生の部」のほか、「ユーモアフォト賞」「タムロン賞」、また「車輌写真賞」がある。6回目の開催となる今回は、応募作品集6584点、応募のべ人数1768名のなかから選出された。 【関連リンク】 第6回 タムロン鉄道風景コンテスト 私の好きな鉄道風景ベストショット審査結果発表 鉄道風景写真講座 講師:米屋こうじ
『ハゲタカ』最新作はリーマン・ショックのアメリカが舞台 書店で著者・真山仁さんを招いた質問型イベントを開催
『ハゲタカ』最新作はリーマン・ショックのアメリカが舞台 書店で著者・真山仁さんを招いた質問型イベントを開催 NHKの連続ドラマ、映画にもなった大人気金融小説シリーズ『ハゲタカ』。同シリーズ第四弾で最新刊となる『グリード』の発売を記念し、著者の真山仁さんを招いたトークイベントが、11月4日(月)に下北沢の書店・B&Bで開催される。『グリード』の舞台は、リーマン・ショック前夜のアメリカ。巨大破綻(メガクライシス)の到来を察知したファンド・マネジャーの鷲津政彦が、リーマンショックの巨大な謎と立ち向かう、今まで以上に壮大でスリリングなストーリーとなっている。買収劇は、戦国時代の国盗りゲームと一緒。権謀術数と裏切り、謀略が渦巻き、結果的には強者が生き残る。だまし騙され、誰が味方で、誰が敵か。『グリード』は、今までのシリーズの中で最も色濃い人間模様が描かれる。10月30日の『グリード』発売直後に開催されるイベントでは、「ここでしか聞けない『ハゲタカ』の話」と題し、真山仁さんご自身が作品の制作秘話を語る。通常の講演ではなく、参加者からの質問を交えた、ざっくばらんなイベントとなる予定だ。【著者・真山仁さんからのメッセージ】「リーマンショックは、まだ終わっていません。それどころか、再びアメリカを金融恐慌が襲おうという気配すらあります。そして、国家存亡の危機が続くヨーロッパの停滞も、リーマンショックから立ち直れていないからです。さらに、好景気と言われているニッポンも、アベノミクスは、投資家の"強欲"を煽るリーマンショックを招いた米国政府の政策と酷似しています。過去の物語ではなく、今を知るためのディープな午後を、みなさんと一緒に過ごせれば幸いです」【関連リンク】ハゲタカ第四弾『グリード』発売記念 小説家・真山仁トークイベント~ここでしか聴けない『ハゲタカ』の話~http://bookandbeer.com/blog/event/20131104_bt-2/
本屋で朝から英会話 下北沢B&Bが「早朝英会話スクール」を開講
本屋で朝から英会話 下北沢B&Bが「早朝英会話スクール」を開講 (写真:WEB本の雑誌) 下北沢の本屋B&Bが、営業開始前の早朝時間帯に「英会話スクール」を開講する。 各コースは、週に一度、全10回の開講で受講料は30,000円。平日の早朝の6時台(ビジネスコース)、8時台(初心者コース)の2コマに分かれている。いずれのコースも会社や学校に間に合うように、また英会話を集中的に学習できるように設計されている。 A 月曜 ビジネスコース AM6:25〜7:55(90分) B 月曜 日常会話コース AM8:00〜9:30(90分) C 水曜 ビジネスコース AM6:25〜7:55(90分) D 水曜 日常会話コース AM8:00〜9:30(90分) 講師には、新宿都庁選任英語講師で、2020年東京オリンピックの誘致スピーチを共同制作したEST(ENGLISH STUDIO TOKYO)の講師陣を迎える。 今回の取り組みについて、B&Bの担当者は、 「忙しいビジネスパーソンが、英語学習を行うために最も苦労するのが時間の確保。早朝の時間を自己学習に充てる、欧米エリートの習慣をヒントに開講しました。下北沢の書店で本に囲まれながら、多くの方々に本当の英会話に触れて頂きたいと思います」 と開講の経緯を語っている。 【関連リンク】 ・本屋で朝から、英語を学ぼう~突然ですが、B&Bは早朝英会話スクールを始めます~ http://bookandbeer.com/blog/seminar/english01/
第31回 『ライヴ・イン・トーキョー~完全版』ジム・ホール
第31回 『ライヴ・イン・トーキョー~完全版』ジム・ホール ライブ・イン・トーキョー 完全版 無言歌&ライブ・イン・トーキョー  いまやジャズ・ギター界の頂点に君臨するジム・ホールは1970年代前半まで趣味のよい名脇役という評価に甘んじていた。チコ・ハミルトン(ドラムス)、ジミー・ジュフリー(マルチリード)、ソニー・ロリンズ(テナー)、アート・ファーマー(フリューゲル・ホーン)と続く傑作でふれて「上手いことは上手いが」と感じた方も少なくないのでは。当時の希少なリーダー作『イン・ベルリン』(1969年6月/Ge-MPS)や『ホエア・ウッド・アイ・ビー?』(1971年7月/Milestone)にしてもリスナーを圧倒するものではなかった。誰しも文句なしはビル・エヴァンス(ピアノ)と組んだ『アンダーカレント』(1962年4・5月/United Artists)くらいではなかったか。そんなホールが巨匠への道を歩みはじめるきっかけとなったのは傑作『アランフェス協奏曲』(1975年4月/CTI)の大ヒットだった。フュージョン・レーベルとして色眼鏡で見る方もいたが、どうして立派なジャズ名盤だ。  1976年10月、この大ヒットが呼び水となりホールは三度目の来日を果たす。1967年は同業のバーニー・ケッセルともどもハービー・マン(フルート)のグループのゲストで、1970年はケニー・バレル、アッティラ・ゾラーともども「ギター・フェスティヴァル」の三枚看板だった。レギュラー・トリオを率いたこの度がリーダーとしては初来日になる。推薦盤は東京公演の記録だ。1977年に発売されたLP(ジャケットは下段の二枚目と同じ)に目玉の《アランフェス協奏曲》はない。CTIと5年間は他に収録しない約束になっていた。1980年に再発されたLP(ジャケットは上段と同じ)で陽の目を見たが、《シークレット・ラヴ》は除かれた。本作はこれら2曲を収録、よって完全版というわけだ。直後に東京で録音したスタジオ作『無言歌』(11月/Jp-Horizon)と組み合せた一枚ものの『無言歌&ライヴ・イン・トーキョー』では再発LPと同じく《シークレット・ラヴ》は省かれている。  幕開けはパーカーの《ビリーズ・バウンス》、テーマに続いてアドリブに移ると絶妙な息継ぎでバウンス、コード・ソロを挟んでよく歌うベース・ソロにつなぎテーマで結ぶ。ウォームアップを超えた快演になった。屈折したテーマを持つ自作の《ツイスター》ではドラムスのみ従えコード・ソロで攻める。ドライヴ感溢れるカッティングがスリリング、終盤でフォービート・カッティングに切り込むや震えがきた。ギター好きにはたまらん!  スタンダードの《シークレット・ラヴ》ではエイトビートでテーマを優美に綴り、フォービートでアドリブに入ると秘めた情熱を迸らせる。揺れる乙女心を表した素敵な解釈だ。《アランフェス協奏曲》では頭の三音が響くやいなや拍手がわく。そのまま独りで続け、やがてテンポインすると哀調を帯びつつも乗りのよいプレイに終始、ベース・ソロを経てテーマで閉じる。上々だが本家が宮殿の広間なら三畳一間だ。もちろん高級住宅街だが。  《チェルシー・ブリッジ》ではテーマはスロウ、アドリブは倍テンポでしっとり綴り、ベース・ソロのあとスロウに戻り後半コーラスで締めくくる。ホールにしては想定内で、ビリー・ストレイホーンの怪しくも美しい曲想を活かしきれていないように思うのだが。ロリンズの《セント・トーマス》は速めのカリプソ、アドリブでは「汽笛一声新橋を」を引用して茶目っ気を見せる。このあとが凄い! 4分近くにわたって必殺コード・ソロを繰り広げる。想像を絶する運指だ。ドラム・ソロも凄い。持てる技を総動員した大熱演にしばしばやんやの喝采がわく。テーマを終え拍手喝采が続くなかホールのメンバー紹介と「どうもありがとうございました」をもって珍しく?華やいだコンサートは幕を降ろす。  実は四度も買った。かったるく思えて処分するのだが無いと気になってまた手を出す。もうそれはない。快ライヴなのにキチンと聴いてこなかったのだな。軽んじないように。[次回9/17(火)更新予定] 【収録曲一覧】 1. Billie's Bounce 2. Twister 3. Secret Love 4. Concierto de Aranjuez 5. Chealsea Bridge 6. St. Thomas Jim Hall (g), Don Thompson (b), Terry Clarke (ds). Jim Hall Live in Tokyo - Complete Version (Jp-Paddle Wheel [Jp-Horizon]) Recorded at Nakano Sun Plaza Hall, Tokyo, October 28, 1976. ※このコンテンツはjazz streetからの継続になります。
よしもとばなな  下北沢限定のリトルプレス「下北沢について」を刊行
よしもとばなな 下北沢限定のリトルプレス「下北沢について」を刊行 『下北沢について』  下北沢在住の作家・よしもとばなな氏が、東京・下北沢限定のリトルプレス『下北沢について』を刊行する。  『キッチン』『TUGUMI』などの作品で知られるよしもと氏は、下北沢近辺に暮らして10年以上。2010年には、下北沢を舞台とした小説『もしもし下北沢』を発表している。  『下北沢について』は、昨年7月に開店した下北沢の書店「B&B」による初の出版プロジェクト。B&Bとよしもと氏の関係は深く、昨年9月には同じく下北沢在住の作家・藤谷治氏とともに、同店開催のイベント「下北沢、もしもし」に出演している。  本プロジェクトは、「みんなが下北沢にもまだまだいいところがあるよと思ってくれるような、小さな空間ごと創りたい」というよしもと氏の発案によって実現したもの。「下北沢の人による、下北沢のための小冊子」を合言葉に、下北沢在住の大野舞(装画)、大西隆介(装幀:direction Q)、内沼晋太郎(編集:numabooks/B&B)、大西寿男(校正)と、全員が下北沢在住・在勤のチームによって制作された。  多くの人に下北沢の街を訪れ、その魅力に触れてもらうことを目的としているため、下北沢のみの販売となり、通信販売等も一切行わない。年4回、全12回の刊行予定で、第1巻目となる『下北沢について1』は 8 月 31 日の発売。初刷は 500 部の予定。本屋 B&B を主に、下北沢の他の店舗でも販売する。 【関連リンク】 ・B&B http://bookandbeer.com/
「希望をくれる人」に会いに行く 俊英写真家による初のフォトエッセイ集
「希望をくれる人」に会いに行く 俊英写真家による初のフォトエッセイ集  9月末に開店1周年を迎えるレストラン 「eatrip(イートリップ)」。原宿の裏通りにひっそりと佇む同店のオーナーは、フードディレクターの野村友里さんです。ケータリングフードの演出や料理教室を軸に活躍している野村さんは、自らメディアに出演しては「食の大切さ」を精力的に伝えています。 同店のコンセプトは、「食は万国共通。身体の中に入り体と心を作る。言葉が通じなくても、時にどんな言葉より説得力をもち、そして五感を刺激し人の生き方に、記憶に、たくさん影響する。食からつながり、伝わっていき、人生を文化を作る」。 「『地元』のモノを使う」ことを心がけており、野菜は鎌倉・高知、魚は三重といった具合に各地から厳選した「地元」の食材が集結。「eatrip」のスタッフは、その日に入った食材の一番美味しい料理法を考えたうえで、提供しています。 そんな「eatrip」を訪れたのは、写真家・映画監督の若木信吾さん。昨年、故郷の静岡県浜松市に書店「BOOKS AND PRINTS」の2店舗目をオープンしました。その様子が、若木さんのエッセイ&インタビュー集『希望をくれる人に僕は会いたい』に収録されています。 若木さんに振舞われたのは、野村さんお手製によるボルシチ。そのボルシチの味に対し、若木さんは「衝撃的だった」と感想を残しています。「ボルシチ特有のスープの素となるビーツの赤い色がとても妖艶で綺麗だと伝える友里さんは絵の先生ようだ」「色は重要なパートなのだと知らされる。料理を作る人が、その食材の美しさを感じながら作れるように書かれているのが印象的だ」 食事の際に、まずは「味」のことを考えるという若木さんは、食材の色の鮮やかさに驚きを隠せなかったそうです。 『希望をくれる人に僕は会いたい』には、若木さんが松浦弥太郎さん、野村訓市さん、西川美和さんをはじめとする世界各国の30人にインタビューする模様が収録されています。本作のテーマは「希望」。文筆業を本業としていない若木さんならではの、気負わない素直な文章が魅力です。 8月11日(日)には、下北沢の書店「B&B」で若木さんとブックコーディネーターの内沼晋太郎さんによる同書の発売記念イベントが開催されます。インタビュー時の映像を楽しみながら、仕事や書店で生まれる人と人の関わりについて語り合うトークイベント。イベント終了後には、若木さんによるサイン会も開催される予定です。お二人の話に関心のある方は、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。【関連リンク】若木信吾×内沼晋太郎  ひとと出会うこと、本屋をすること。http://bookandbeer.com/blog/event/20130811_bookandprints/
8月号 対談旅行作家 下川裕治 Shimokawa Yuji 辺境作家 高野秀行 Takano Hideyuki
8月号 対談旅行作家 下川裕治 Shimokawa Yuji 辺境作家 高野秀行 Takano Hideyuki だから旅はやめられない 『週末台湾でちょっと一息』朝日文庫より8月7日発売予定 高野 下川さんが『週末バンコクでちょっと脱力』(朝日文庫)で「バンコクは意外と酒が飲みにくい」と言ってくれたのはうれしかったですね。これを指摘してくれる人はなかなかいなかったので。 下川 高野さんの『イスラム飲酒紀行』(扶桑社)みたいに、イスラム圏なら覚悟できる。でも、アジアで酒が飲めないのはつらい。『週末台湾でちょっと一息』にも書いたんだけど、台湾の夜市って日本の夜店感覚でビールを探しても全然置いてない。「ビールありませんか?」と聞くと、コンビニを紹介されたりする。 高野 僕も酒なしでの会食がつらくてたまらない。なんでメシがあるのに酒がないんだと。いっそお茶とかのほうが割り切れる。 下川 実は日本のように夕食と酒がセットになってるのは、アジアでは中国と韓国くらい。台湾で地元の人と一緒に食事に行くと、酒そっちのけで一所懸命食事のメニューを選んでくれる。僕は「そんなことより早くビールを……」と思っちゃうんだけど。  それから、海外ではたまにとんでもない酒に出合うことがある。字が読めないから、それがラムなのかジンなのかもよくわからないし……。 高野 下川さんの本を読んでいて共感するのは、いまだに旅慣れてない感じがすること。僕も旅慣れないので(笑)。妻と旅行したとき、「ヘッドライトが重要だ!」とか散々力説したのに、ヘッドライトを忘れたりして、よく呆れられます。 下川 うちもそう。カミさんは最初の頃こそ僕のことを「旅慣れた人」と思って任せてくれていたけれど、三回目くらいから「ホテルは私に決めさせてね」といわれるようになった。僕、ホテル予約するのがいやなんですよ。予約したら行かなくちゃならないっていうのがプレッシャーで。現地の空港で適当に電話して決めていたのがダメだったみたいで、以来、家族旅行での存在感は薄くなる一方。カミさんはホテルとか食べ物とか、どんどん詳しくなっていく。 高野 そういう情報については、女性にかなわないですね。酒飲み始めると、味なんかわかんなくなってくるし(笑)。 下川 最初の一口がおいしければいいんですよね。 ◆◆危険地帯における純度の高さ 高野 僕、旅や生活にドラマやシチュエーションを求めるんですよ。だから観光が苦手で、あるべきものがあるべき場所にあるのを確かめて、なにがおもしろいのかと。 下川 僕も観光は苦手ですね。ところで高野さんは危険地帯に行くときには、「行きたくないなー」って思うの? それとも血が騒ぐ? 高野 両方ですね。僕は開高健の『輝ける闇』『夏の闇』が大好きなんですが、二冊とも危険地帯に行ったあとに安全地帯に帰ってくると落ち着かないという、ほぼ同じ構成なんですね。僕もその感覚があるんです。 下川 紛争地帯って、意外に静かだったりするんだけど、それでも東京の街を歩くのとは違う緊張感がある。 高野 自分の能力をかなり限界まで出しているという感覚はありますね。そういう時間は、ある意味悩みがない。今日一日無事であってくれればそれでいいとだけ思っているから、日々の雑事に思い煩わされることがない。東京だと細かいことから離れられないじゃないですか。amazonで自分の本の順位チェックしたりとか(笑)。あの純度の高さみたいなことを思い出すと、またやりたくなる。 下川 そういえば、パキスタンの紛争地帯でカミさんから携帯に電話がかかってきたことがあった。「あそこのマンションの部屋、空いたらしいよ!」って。ちょうどその頃、子供が大きくなってきて、少し広いところに移りたいって話してたんですよね。でも、こっちには隣に安全装置をはずした銃を持った兵士がいる。カミさんの話に「うん、うん」ってうなずきながらも、「今じゃなくていいだろう!」って(笑)。 高野 僕もソマリランドでまったく同じ状況になったことあります(笑)。砂漠って妙に電波が入るところがあるんですよ。で、すごく緊迫した状況なのに妻から「○○さんがマンション買うらしいよ」って電話が。日本だったら僕も興味を持って聞くんですけど、かたや砂漠の危険地帯、かたや日本。本当に引き裂かれる思いというか、この現実感のなさってなんだろうって思いました。 下川 取材中、メモは取りますか。 高野 取ります。忘れやすいので、かたっぱしからメモを取っていく。それから、毎朝日記をつけています。夜は酔っ払って寝ちゃうっていうのもあるんですが(笑)、その日のうちにつけるとロクなことがない。一晩寝ると細かい感情がとれていいんですよ。  最初の著書(『幻獣ムベンベを追え』集英社文庫)でコンゴに行ったときには仲間が十人くらいいて、プライバシーなんかない。読まれて困るようなことは書けないので、物語的に書くようにしたんです。そうしたら、客観的に物事を見られるようになったんですね。「あいつにムカついていたけど、俺も無理言ってたよな」とか。  それから、「この街は貧しい」と書いたとしても、実はその根拠が書けなかったりする。じゃあ今日はそれを具体的に考えようと思って、その日のテーマが決まったりするんです。 下川 僕もメモは取りますが、そのときの匂いや状況を思い出すためのキーワードみたいなものが多いですね。メモを見ているうちは原稿が書けない。 高野 僕もそうです。日記に書いたことは、一回忘れます。 ◆◆ボーッとしてるのを悟られないために… 高野 書くことでフラストレーションを解消できる部分ってありませんか。最初の幻獣探しから帰ってきたときに、いろんな人から「で、いた?」と聞かれたんですけど、いたとかいないとか、一言で伝えられるような体験ではない。僕は口下手なので、うまく説明できなかったんですが、それが、本を書いたことで理解してもらえるようになった。 下川 過程を説明するのは、難しいですよね。 高野 下川さんのエッセイを読んですごいと思うのは、なんの変哲もないことを描いていることです。 下川 自分のなかでは、いろいろ変哲があるんだけど……。 高野 でも、大きなことはほとんど起きないのに、乗せられて読んでしまう。それがすごい。 下川 自分のなかではいろいろ起きているんだけど……。 高野 書くときは苦労してますか? 下川 してますよ(笑)。 高野 たとえば、書き始めるときに構成とか考えますか? 下川 一応、考えますけど。たとえば三日くらい列車に乗ると、乗りながら構成を考えられるのがいいですね。僕、長く乗り物に乗るのがまったく苦にならないんです。  高野さんは、テーマについてはかなり考えますか? 高野 僕はなにか大きいことをやりたい、という思いが常にあるんです。でも、僕の考えているテーマって、原稿にするまではまず理解してもらえない。ソマリランドの企画も、何度言ってもわかってもらえなかった。本当にやりたいことがあれば、まず行ってみますね。大発見があるかもしれないと思っているので。 下川 おもしろい話って、見つけようと思ってもなかなか見つからなかったりしませんか。向こうからやってくるのを待つしかない。でも、じっとしているだけでおかしな話が飛び込んでくる国がある。僕にとってはタイがそういう国で、現地に長くいればいるほどおもしろいものに出合うような気がする。高野さんはどのくらい現地にいるとか決めてますか? 高野 それはないですね。僕は目標を設定しているので。 下川 でも、大目標って実はどうってことなくて、途中で起きる出来事がおもしろかったりしない? 高野 大目標を設定すると、途中がピュアになるんですよ。「書けるものないかな?」って考えると不自然になるし、どこかセコくなる。本を二冊出した後に壁にぶつかって、職業としてやっていくためにはおもしろいネタを探さなくちゃいけないんじゃないかって思ったんです。でも、探すとダメですね。中途半端で面白くない。 下川 中国の故事に釣り竿に針をつけないで池に落とす……っていう話があったと思うんだけど、僕の場合はそんな感じというか。ただボーッとしていると変な奴だって思われるんで、不審者と思われないために目標を設定しているようなところがある。僕は全然行動派ではなくて、頭の中でグチャグチャと考えていることを悟られないために旅をしているのかもしれない。 高野 本読んでると伝わってきますよ、下川さん、活発じゃないんだろうなって(笑)。釣りのたとえでいうと、僕はフェイクの釣りはおもしろくない。本気で巨大魚を釣ってやろうって思ってるんです。で、待っている間暇だからいろんな人と話をする。 下川 僕にとっては、勤めていた会社をやめて一年近くフラフラと続けた旅がすべてで、それ以上の旅はいまだにできていない。いろんなところに行ってはいるけれど、自分にとって旅といえるものはあの一回だったなと。あのときのことが忘れられなくて、また出かけていくんだと思う。 高野 だから下川さんの文章には、哀愁が漂ってるんですね。 下川 漂ってますか。 高野 それはもう(笑)。 下川 旅をしているんだけど、本当にやりたいことなのか、いつも自分のなかでぐるぐるしている。若い人に会って、「旅って達成感ですよね」なんて言われると、どうしていいのかわからない。自己嫌悪は相当あります。 高野 そんな思い、とっくにふっきれていてもいいと思うんですが(笑)。そのふっきれなさが、下川節ですね。
第22回 夏フェスを楽しもう編~その2 札幌便りつき
第22回 夏フェスを楽しもう編~その2 札幌便りつき ※4万人以上が入れるGRASS STAGEの各日のトリのアーティストをご紹介sakanaction BUMP OF CHICKEN Perfume  この夏は、札幌で過ごしている。暑い夏を過ごしている皆さん、北海道は、涼しいですよ。半袖では寒いかもしれない。そんな感じです。  札幌には、過去に何度か来たことがあるが、だいたいが一泊か二泊だった。それがゆえあって、今年は3月と7月に1週間ほど滞在するチャンスが訪れた。  3月にはまだ、雪がたくさん残っていて、歩くのにも苦労するくらいだった。  札幌出身の知り合いからは、 「札幌は雪なんて降りませんよ、雪まつりだって、雪持ってくるんですから」 と聞いていたので、その違いに驚いた。しかし、札幌の街を歩いていると、雪かきをしている人たちが、 「こんなに雪降るのは、何年ぶりかしらね。いくら雪かきしてもまた降ってくるんだもの」 と話しているのを聞いて、今年は、いつもの年とはだいぶ違うのだなと知ったしだいだ。  もちろん、今回、7月の札幌は、雪などないが、雨が続いている。日本各地で大雨の被害が出ている状況だから、多少の雨は仕方がないとあきらめているが、地元の人は、せっかく来たのだから、抜けるような青空を見せたいといってくれている。  とはいっても、雨上がりの晴れ間をみつけては、円山公園のリスを見に行ったりしている。札幌といえば、ポプラの木を思いうかべる方も多いと思うが、ポプラの木は、風が吹くととりわけ大きな音を立てる。たくさんの木々や葉がふれあう音を聴きながら、森の中を散歩するのは最高だ。  この文章を読んでくれている方々は、音楽がお好きな方が多いと思うのだが、自然の音も素晴らしいですよね。夏の間に、自然とふれあう機会、自然の音を味わうことをおススメします。  さて、そういえば、第16回で紹介したピンク・フロイドのコピー・バンド、ピンク・フロイド・トリップのライヴを見た。  会場は、すすきの駅から5分のベッシーホール。札幌の老舗のライヴ・ハウスだ。  当日は、満席で、立ち見も出るほどの盛況だった。  入場までの並んでいるときに、となりのお兄さんが、 「レッド・ウォーリアーズが、なんでピンク・フロイドなの?」 と言っている声が聞こえたが、演奏が始まると、そのお兄さん、とても、盛り上がっていたようだ。  演奏は、『原子心母』や『おせっかい』の時期を中心に、デビューから『ウォール』まで、幅広く取り上げていた。特に、『モア』の曲なども演奏していて、彼らの音楽人生の背景を彷彿とさせるような選曲だった。  普段生活をしている東京から遠く離れて、好きな音楽を聴くのって、いいなと思ってしまった。  好きなアーティストが来ると、日本中を追いかけたり、あるいは、海外のツアーを聴きに行ったりする方がいるが、わたしは、そこまでしなくてもいいかなと思っていた。  たぶん、ライヴより、CDやDVDで楽しむほうが中心になっていたからだろう。自分の好きなタイミングに、自分の好きな音楽を選んで聴く、という聴き方だ。  しかし、いつもの生活空間から離れて、音楽を聴くという体験もよいものだ。  そういえば、まだ、マジソン・スクエア・ガーデンに行ったこともない。カーネギー・ホールもない。ヨーロッパの歌劇場でオペラを見たこともない。  こんなことを考えていると、まだまだ楽しいことがこの世にはいっぱいあって、とても死ぬわけにはいかないな、と思ってしまう。  さて、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2013、野外フェスだ。  コンサートやライヴに行くってことは、どこからがはじまりなんだろう。  誰と行くかも重要問題の人もいるだろう。  どちらにしても、コンサートに行こうと決めた時から始まることにしよう。  野外フェスは、この計画を立てる要素が、普通のライヴに比べると多い。  交通の下調べから、宿泊の手配、駐車場の予約も早くしないとなくなってしまうこともある。雨具の準備も必要だ。  そんなことを、いっしょに行く仲間と考える。そんな過程も、楽しんでほしい。  さて、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2013、会場は、茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園。関東圏でもあり、東京近郊からでかけるにも、出かけやすく、かつ、旅行気分も味わえる。  ここの出演者は、国内のアーティストによって構成されているのが特徴だ。  出演者も多いので、公演情報を見ていただき、計画していただきたい。  そういえば、ここで執筆していただいている原田和典さんがテーマにしているアップアップガールズ(仮)も参加するとのこと、原田さん、行くのでしょうか?  それから、各種野外フェスのテレビ放送もやっているようだ。出かけることができない人、インドア派には、テレビもおススメだ。[次回8/7(水)更新予定] ■公演情報は、こちら ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2013 http://rijfes.jp/ ■参考 8月10日(土)~11日(日) SUMMER SONIC 2013 http://www.summersonic.com/2013/ 8月16日(金)~17日(土) RISING SUN ROCK FESTIVAL2013 http://rsr.wess.co.jp/2013/index.html
『海×本×ビール✕花火』 豪華ゲストを招いた夢の対談が茅ヶ崎で開催
『海×本×ビール✕花火』 豪華ゲストを招いた夢の対談が茅ヶ崎で開催 (写真:WEB本の雑誌)  海、本、ビール、そして花火。きっと多くの人にとって、「たまらない!」であろう組み合わせを実現したイベントが、8月3日に神奈川県・茅ヶ崎市で開催される。 イベントの名前は、「『海×本×ビール』in 茅ヶ崎 長谷川理恵&幅允孝トークイベント supported by booklista」。「これからの街の本屋」を目指し、昨年7月に下北沢で開店した書店B&Bが、茅ヶ崎へ出張してトークイベントを開催する。「B&B」の名前は、「本(ブック)」と「ビール」に由来。実際に、本だけでなく、ビールの販売も行っている。本イベントでも、臨時出店して、書籍の販売を行う。 ゲストのお二人は、今回が初顔合わせ。読書、そして茅ヶ崎に縁の深いモデルの長谷川理恵さんを招き、ブックディレクターの幅允孝さんとともに長谷川理恵さんの読書スタイルや、愛読書、そして読書と美の関係について語りつくすイベントとなっている。 同イベントには、話題の移動式本屋「BOOK TRUCK」の出店も決定している。公園や駅前、野外イベントなどの行く先々に合わせて、その都度品揃えや形態が変わるフレキシブルな「BOOK TRUCK」1日限定で、茅ヶ崎に出店。当日限りの品揃えで、書籍を販売する。 また、書店員になりきって、オススメPOPを自由に描くことができる参加型イベントの開催も決定。「海」をテーマに描かれたオススメPOPは、電子書籍ストアReader Store・ブックパスで実際に掲載される。オススメPOPを描いた参加者の中から抽選で、素敵な賞品がプレゼントされる。 イベント当日は、8月3日当日は、「サザンビーチちがさき花火大会」が開催される。"本"にまつわる3つのイベントに参加した後は、会場前の海を彩る約3000発の花火を楽しむことが出来る。 トークイベントのチケットは、B&Bのサイトからの購入が可能。それ以外の催し物は、誰でも参加出来る。【関連リンク】B&Bが茅ヶ崎で出張開店!『海×本×ビール』in 茅ヶ崎長谷川理恵&幅允孝トークイベント supported by booklistahttp://bookandbeer.com/blog/event/20130803_bt/
酷暑は"イヤミス"で涼をとる? 真梨幸子最新作『鸚鵡楼の惨劇』
酷暑は"イヤミス"で涼をとる? 真梨幸子最新作『鸚鵡楼の惨劇』  暑い日には、怪談で涼をとるというのも乙なもの。実際に江戸の人たちは落語などで怖い話を聞いて、涼しさを感じることを好んでいたそうです。「身の毛もよだつ」「血の気が引く」「背筋が凍る」という言葉からも、納得できるもの。昔も今もこの感覚は変わらないのです。 冒頭から、「古い洋館」「殺人」「置屋」「不憫な少女」「大人の女に興味がない男」「美少年」と不吉な未来を予感させる、舞台装置や登場人物の出てくる物語は、それだけで読者の興味をそそると言ってもいいかもしれません。書名は『鸚鵡楼の惨劇』。その作者が「イヤミス」の旗手として名高い真梨幸子氏だと聞けば、さらに期待は高まるでしょう。 イヤミスとは、イヤな後味が残るミステリーのこと。心の奥底にある人間の感情をえぐり出して暴き、読者は「見たくない」と思っているのに先を読み進めたくなってしまう、ある種中毒性のある推理小説です。真梨氏は、大ベストセラー『殺人鬼フジコの衝動』で大きな話題となった女流作家。先述したように、"エグい"事柄を材料にしているのですが、それぞれの登場人物の心理がしっかりと書かれており、物語のさまざまなシーンで読者に"真理"を提示してくれます。 今回注目すべきは、ストーリーの核にある「テレゴニー」というテーマ。日本では「先夫遺伝」「感応遺伝」とも言われますが、未亡人や再婚女性が"今の夫"との間に子どもができた場合、前の夫の性質が遺伝するという理論。現在では、遺伝学的にありえないことが証明されていますが、ギリシャ神話などでも描かれ、20世紀になるまでは一般的に信じられていました。同著の主人公である人気エッセイスト・蜂塚沙保里は、テレゴニーの呪縛から逃れられず、人生唯一の"汚点"を消すことができずにいるのです。 華やかさの背後にある、恐ろしく巨大な"昔の男"の存在。しかもそれは、幼女強姦の罪で刑に服した男...。あなたもこの謎の結末を見届けてみませんか?【関連リンク】「鸚鵡楼の惨劇」特設サイトhttp://www.shogakukan.co.jp/pr/ohmuro
スウェーデンを代表する陶芸家 リサ・ラーソンの絵本を角田光代が翻訳
スウェーデンを代表する陶芸家 リサ・ラーソンの絵本を角田光代が翻訳  4月、安倍晋三首相は少子化対策として子どもが1歳半になるまで認められていた育児休業を3年まで延ばすことを決定しました。日本をはじめ少子化問題に頭を悩ませる先進諸国ですが、そんな中スウェーデンは少子化対策に成功し、「子育て先進国」と言われるようになりました。それには、高額の育児給付金や父親専用の育児休暇を設けるなど政府の支援が大きく関係していると考えられます。 また、女性の労働力が高いのもスウェーデンの特徴。2011年の男女共同参画白書によると、約8割の女性が働いています。驚くことに、同国では専業主婦は稀少なんだとか。 スウェーデンを代表する陶芸家のリサ・ラーソンも働く主婦のひとり。ネコやライオンなどの動物をモチーフにした作品が日本でも人気な彼女は、1952年の結婚後、3人の子どもを出産するも仕事のペースを落とすことはなく82歳の今でも新作の発表や新製品のデザインなど、精力的に活動を続けています。 リサはライフスタイル誌『giorni』の別冊『Lisa Larson』の中で「家族みんながアーティストっていう、創造的な環境で暮らすことが元気の源なの。仕事を辞めようとはこれっぽっちも思ってないわ」と語っています。実は、娘のヨハンナはグラフィックデザイナーで息子もアーティストという芸術一家なのです。 これまでヨハンナは母・リサと一緒にテキスタイルのデザインなどを行ってきましたが、6月6日に家族で一緒に製作した絵本『ナイト キャット』を発売。おなじみのネコ「マイキー」が登場し、絵をリサとヨハンナが、文章をヨハンナの夫のジェームス・ブレークが担当しています。 そして、翻訳はなんと作家の角田光代さん。これまでいくつかの絵本の翻訳を手掛けてきた角田さんですが、ラーソン一家とのコラボレーションは必見です。 発売を記念して、東京・代官山蔦屋書店ではヨハンナのトークショーを開催。リサとの製作秘話やマイキーの描き方レクチャーなどが聞ける貴重な機会。本書を購入・予約した人先着70人限定です。【関連リンク】リサ・ラーソンのネコの絵本『Night Cat』発刊記念 ヨハンナ・ラーソン トークショー2013年7月6日(土)19:00〜20:30/蔦屋書店1号館 1階 総合インフォメーションhttp://tsite.jp/daikanyama/event/001878.htmlトークショーに合わせてフェアも開催!フェア期間:2013年6月5日(水)~7月6日(土)予定絵本はもちろん、リサ・ラーソンのムックなどもラインナップ予定です。
アジアの写真家たちの今を知る貴重な機会 東京の4会場で開催
アジアの写真家たちの今を知る貴重な機会 東京の4会場で開催 アミット・メーラ(インド)の作品 バ・ハン(ベトナム)の作品 ムネム・ワシフ(バングラデシュ)の作品  アジアの写真作家たちの現状を紹介する「輝けアジア、羽ばたけアジア “Shine&Fly、 Asia!”」展が東京の4カ所の会場で開催される。日本写真協会が主催する同展は写真を通じ日本とアジアの写真界と交流を行ってきた「アジアの写真家たち」シリーズの10周年記念展だ。  2004年のバングラデシュを皮切りに、ウズベキスタン、ベトナム、インド、シンガポールマレーシア、タイ、インドネシア、フィリピンの写真家たちの作品を毎年展示。これまで9カ国の写真家、約170名が参加し、30名が訪日してきた。  今回の10周年記念特別展では、比較的早い時期に紹介された4カ国から、それぞれ4~5名の写真家が選ばれている。  1983年生まれのムネム・ワシフは、バングラデシュで最も有望な若手と称されている写真家だ。その作品は「ル・モンド」「ザ・ガーディアン」「サンディ・タイムズ・マガジン」などに多数掲載されてきた。2007年には世界報道写真財団のマスターに選出。ヨーロッパでの受賞も多く、2010年のフォトシティさがみはら写真賞アジア賞も受賞している。  アミット・メーラは、1967年デリー生まれ。インドを代表する中堅写真家。2007年の「アジアの写真家たち インド」で「India A Times Celebration」の一部を展示し、好評を呼んだ。2009年には同テーマでフォトシティ・さがみはら写真賞アジア賞を受賞。今回は最近発刊した写真集『Kashimir』で参加している。また、ベトナム・フエ生れのバ・ハン (1957年生まれ)は、同地の写真協会のリーダーで、ホーチミンを本拠に写真展や写真の普及活動を行っている。作風はストリートスナップを中心に、子どもや女性、市中の人々のくらしを優しい視点からとらえている。  上記の写真家ほか、各国写真界のリーダーや気鋭の写真家など、実力者たちの作品が多数集められている。グループ展参加を含め、32名の写真作品が展示される貴重な機会になっている。 東京写真月間2013企画展「輝けアジア、羽ばたけアジア “Shine&Fly、 Asia!”」 開催期間:2013年5月17日(金)~6月13日(木) 会場名:オープンギャラリー 住所:東京都港区港南2-16-6 キヤノンSタワー2F TEL:03-6719-9021 時間:10時~17時30分(日・祝日休) 参加写真家:Swapan Nayak(インド)、Hoang Nhiem(ベトナム)、Alex Moh(マレーシア)、Shahidul Alam(バングラデシュ)、Mohammand Anisul Hoque (バングラデシュ) 開催期間:2013年5月22日(水)~6月4日(火) 会場:銀座ニコンサロン  住所:東京都中央区銀座7-10-1 STRATA GINZA1F TEL:03-5537-1469 時間:10時30分~18時30分(最終日15時まで) 出展写真家:Amit Mehera(インド)、Lim Thian Leong(マレーシア)、Sarker Protick(バングラデシュ)、Huynh Van Nam(ベトナム) 開催期間:2013年5月28日(火)~6月9日(日) 会場:ギャラリーコスモス  住所:東京都目黒区下目黒3-1-22 谷本ビル2F TEL:03-3495-4218 時間:11時~18時30分(最終日16時30分まで、月休) 出展写真家:Suvendu Chatterjee(インド)、Soumitra Datta(インド)、Munem Wasif(バングラデシュ)、Ba Han(ベトナム) (6月1日〈16時~〉ギャラリートーク含む交流会開催) 開催期間:2013年5月28日(火)~6月6日(木) 会場:日本アセアンセンター・アセアンホール 住所:東京都港区新橋6-17-19 新御成門ビル1F TEL:03-5402-8001 時間:9時30分~17時30分(土・日・祝日休) 出展写真家:Nguyen Phu Binh (ベトナム)、Ali Bin Shamsul Bahar (マレーシア)、Club: Hai Au (べトナム)、Jonathan Tai (マレーシア) 【関連リンク】  アジアの写真家たち10周年記念写真展  http://www.psj.or.jp/gekkan/schedule/kikaku2013-2.html  日本写真協会  http://www.psj.or.jp/
アルト・サックス その1
アルト・サックス その1 『1923-26』 『The Bix Beiderbecke Story』 『1929-33』 『Early Ellington: Complete Brunswick Recordings』 『Early Bird』 ●ジャズ・サックス前史 ジャズの伝統なき楽器  ジャズ創成期から10年代まで、ニューオリンズ・ジャズの全盛期に、サックスについて語るべきことはほとんどない。花形楽器のトランペットやクラリネットの華やかさに欠けたせいか、サックスは異端視されていた。スタイルを築きあげようという志をもつ者も出てこず、アルト・サックスはクラリネットの亜種の地位から、テナー・サックスはリズム楽器の地位から抜け出せないでいた。サックスがジャズ楽器として自立する温床は、洒落たサウンドを求められた、シカゴやニューヨークのジャズ風ポピュラー・バンドだった。  20年代になり、そんななかから開拓者が出てくる。アルト・サックスに限れば、黒人ではマルチ・リード奏者でビッグ・バンド・アレンジの基礎を築いたドン・レッドマン(1900‐1964)、白人ではジミー・ドーシー(1904‐1957)だ。とくにドーシーはレッドマンのスタイルを発展させた華麗なテクニックを誇り、その教則本は人種を問わず多くの奏者が手本にした。しかし、そのスタイルはホット・クラリネットの発展系だ。ここに、クールなトーンと流麗なラインをもった白人奏者が現れる。フランキー・トランバウアーだ。 ●フランキー・トランバウアー(1901‐1956)) 流麗なスタイルの創始者  厳密には、トランバウアーはCメロディー・サックス(C管テナー・サックス:注参照)奏者だった。音域もサウンドもアルト・サックスに近いので、ここでとりあげる。トランバウアーはクール・ジャズの創始者、ビックス・バイダーベック(コルネット)との共演や、レスター・ヤング(テナー・サックス)のアイドルだったことで知られる。というか、それらをのぞいて語られることはまずない。しかし、ノン・ヴィブラートによる流麗なラインは当時の最新モデルで、肌の色を問わず多くのサックス奏者が模倣にはげんだ。  ビックスとの初録音は24年10月のスー・シティ・シックスのセッションで、それ以前の演奏はベンソン・オーケストラ・オブ・シカゴ、マウンド・シティ・ブロウァーズなどの録音で聴くことができる。出来は別にして、出所不明の類を見ないスタイルだ。クールでメロー、リラックスしたスタイルはビックスとの相互影響によって完成を見た。同一人物が楽器を替えただけでは?と思えるほどの相似性は、27年2月に始まるトランバウアーのセッションにとどめられている。《シンギン・ザ・ブルース》は、両者の最高の名演だ。  テクニックは抜群だったが、ミュージシャンとしてはアマチュアに毛の生えたようなレベルだったので、ビックスと共演した録音をのぞいては甘ったるいトホホな演奏が少なくない。第二次大戦中はパイロットとして輸送任務に従事し、第一線での演奏活動に幕をおろす。およそ巨人とは呼びかねるが、サックスの最新モデルを創造した功績は記憶にとどめておきたいものだ。巨人だということと影響力があったということは必ずしも一致しないし、ジャズは黒人だけが発展させてきたわけでもない。その好例がトランバウアーだ。 ●ベニー・カーター(1907‐2003) マルチ・タレントの少年期  カーターの功績の第一はビッグ・バンド・アレンジ、とくにサックス・セクションのアレンジを方向づけたことにある。次に、11種の楽器を専従者なみにこなすマルチ器楽奏者で、なかでもアルト・サックスはジョニー・ホッジス、チャーリー・パーカーと並ぶ巨人だ。しかし、知名度に比べて認知度は高くない。影響力だけでも声高に語られれば、アーリー・ジャズだろうが、奏者としての露出度が相対的に低かろうが、もう少しは聴かれるのではないか。影響をうけたなかには、リー・コニッツやアート・ペッパーもいるのだ。  13才でトランペットを手にするが、二三日で修得できないと悟ると、Cメロディー・サックスに転じた。のちに「すぐにフランキー・トランバウアーがアイドルになった。レコードで流麗なスタイルを真似ようとした」と語っている。模倣が長く続かず、アルト・サックスに替えたのは、指導者だった従兄のセオドア・ベネット(トランペット)の感化によるのかもしれない。やがてカーター少年はハーレムに足繁く通うようになり、デューク・エリントンをはじめとする巨人たちとの交流を通じて、独自のスタイルを物していく。 エレガントなスタイリスト  27年1月にチャーリー・ジョンソン楽団で初録音、28年には同楽団とフレッチャー・ヘンダーソン楽団で録音を残す。これらに聴く20才前後のカーターはほぼ出来あがっている。輝かしいトーンによるリズミックなラインが個性的だ。29年9月のチョコレート・ダンディーズの《シックス・オア・セヴン・タイムス》は、ノン・ヴィブラート奏法とメローな感覚がトランバウアーを想わせて面白い。完成したエレガントなスタイルは30年12月のヘンダーソン楽団の《キープ・ア・ソング・イン・ユア・ソウル》にとらえられている。  34年にはしなやかさが加わり流麗の度を増していく。そのあとはヴィブラートやトーンが多少は変動するが、エレガントなスタイルは不変だった。45年に居を移した西海岸を中心に影響をうけた者は多い。白人ではコニッツとペッパーのほかに、ブーツ・ムッサリ、ハル・マクシック、バド・シャンクが、黒人ではバディ・コレット、キャノンボール・アダレイがいる。コールマン・ホーキンス(テナー・サックス)やロイ・エルドリッジ(トランペット)も、カーターの流麗なスタイルに触発されてスタイルを築きあげた巨人だ。 ●ジョニー・ホッジス(1907‐1970) ベシェ直系の野性派  ホッジスはパーカーですら一目をおいたスタイリスト中のスタイリストで、ジャズ界の至宝というべき存在だった。ドラムスとピアノを経て、14歳でソプラノ・サックスを手にしている。アイドルはニューオリンズ・クラリネットの巨匠でソプラノ・サックスの開祖、シドニー・ベシェだった。のちに教えもうけている。すぐにアルト・サックスをメーンの楽器にするが、宗旨替えか職探しの都合からか不明だ。20年代の半ばにプロ入りする。初録音は27年8月のチック・ウェッブ(ドラムス)のセッションだが、未発表のままだ。  28年5月、ホッジスはエリントン楽団に入団し、自分の楽団を率いた51年2月から55年8月までをのぞく37年半を、中心ソロイストとして過ごした。入団直後の6月に実質的な初録音にのぞみ、発売された2曲でソロをとっている。ソプラノ・サックスによる《イエロー・ドッグ・ブルース》は、ホット・ヴィブラートをともなう野性的なスタイルが鮮烈な印象を残す。アルト・サックスによる《ティショミンゴ・ブルース》は、ヴィブラートこそ小さめだがソプラノ・スタイルだ。どちらにも、ベシェの影響が容易に聴きとれる。 官能派のヴァーチュオーゾ  しばらくはスタッカート基調のソプラノ・スタイルが続くが、29年の半ばに流麗なスタイルを打ち出し始め、7月の《ジャングル・ジャンボリー》で最初のスタイルが完成を見る。変貌を触発したのは、同僚のハリー・カーネイ(バリトン・サックス)ではないか。28年までカーネイはアルト・サックスでもソロをとっているが、ホッジスよりも流麗なのだ。カーネイがソロをとらなくなったのは、ホッジスが成長したからだと見る。このあとホッジスは、同僚のバーニー・ビガード(クラリネット)流のしなやかさも加えていく。  30年になるとトーンはビロードの艶を帯び、ポルタメント奏法を多用した、官能美に溢れるスタイルが完成に向かう。円熟期に入ったホッジスの至芸は、40年10月の《ウォーム・ヴァレー》と11月の《デイ・ドリーム》で聴くことができる。この唯一無二のスタイルに挑んだ者がいた! 白人のチャーリー・バーネットとウディ・ハーマンがそうだ。黒人ではオリヴァー・ネルソンとローランド・カークに痕跡が窺える。成功者は、ホッジスに触発されて独自のバラード奏法を確立したベン・ウェブスター(テナー・サックス)だ。 ●チャーリー・パーカー(1920‐1955) 指導者バスター・スミス  全盛期のカンサス・シティ・ジャズに熱中したパーカー少年は33年の夏にバスター・スミス(アルト・サックス)のバンドに入り、スミスから多くを授けられる。スウィング期に残したわずかな録音に聴くスミスはカーター風で、パーカーの原形とはいえない。29年11月のブルー・デヴィルズの《スクァブリン》のトーンに近似性が感じられるが、これだけでは証拠不足だ。むしろ、パーカーがダブル・タイム奏法に執着していたというスミスの回想のほうが、パーカーが早くも8分音符基調を志向していたことが知れて興味深い。  レスターを別格とすれば、パーカーお気に入りのサックス奏者はドーシーとトランバウアーだった。レスターがトランバウアーに夢中になったきっかけはスミスとともに聴いたレコードで、パーカーがトランバウアーを熱愛した動機はスミスに教えられたのではないかという故油井正一氏の指摘(『ジャズの歴史物語』)は正解だろう。しかし、パーカーにドーシーやトランバウアーの遺伝子は見当たらない。当時のパーカーに彼らを真似る意志はなく、アイドルはあくまでも「どこか新しい」レスターだったと見るべきかと思う。 レスター熱愛から離脱まで  37年の初夏、パーカーはジョージ・E・リー楽団に加わり、避暑地エルダンに巡業する。この3ヵ月間にレコードでレスターの演奏を徹底研究し、カンサス・シティに戻ったときには見違えるほど腕をあげていた。パーカーの最も古い録音は、40年4月頃の無伴奏ソロ《ハニーサックル・ローズ~ボディ&ソウル》だ。長いラインは感覚的に新しいが、ノリがイーヴンで平板な感じがする。聴き逃せないのは12月のジェイ・マクシャン楽団の放送録音で、とくに《レディ・ビー・グッド》ではレスター生き写しのソロをとっている。  41年4月の同楽団のデッカ録音と41年の末頃の私的録音でも、ときにレスター風、ときに誰ともつかないスウィング・スタイルのソロをとっている。変化が見え始めるのは同楽団の42年7月のデッカ録音からで、《セピアン・バウンス》はレスターの影をとどめつつもバップ風だ。9月の私的録音に出来あがりつつあるパーカーの姿がとらえられている。《チェロキー》はほぼパーカー、《アイ・ファウンド・ア・ニュー・ベイビー》はレスターとビ・バップの融合系で、パーカーの「スウィング・トゥ・バップ」といった趣きだ。 時代を画した天才  43年の初め、パーカーはアール・ハインズ楽団に雇われ、ディジー・ガレスピー(トランペット)とともにビ・バップ革命に邁進する。ガレスピーとの43年2月の私的録音《スウィート・ジョージア・ブラウン》は革命前夜の両者をとらえた貴重な記録で、パーカーがガレスピーに先んじていたこともわかる。このあと、吹き込みストのせいで録音が途絶え、両者がスタイルを完成させていく過程を知る術はない。44年9月、タイニー・グライムス(ギター)のセッションで再登場するパーカーは、パーカーその人にほかならない。  パーカーはルイ・アームストロング(トランペット)以来の広範かつ決定的な影響をおよぼした。サックスに限っても、オーネット・コールマン(アルト・サックス)が出現するまで、パーカーの影響を免れた者はいまい。パーカー以前と以後、まさに時代を画したのだ。もっとも、パーカーが強力すぎて、バップ期に見るべきアルト・サックス奏者は出ていない。バップ期では、ある程度はパーカーと距離をおけたテナー・サックス界から、デクスター・ゴードンをはじめ、レスターとパーカーの楽想を融合した巨人が輩出した。  50年代に入ってパーカーの神通力は薄れたが、演奏の分析は進み、アルト・サックス界からパーカー派と呼ばれる連中がゾロゾロ出てくる。「もう1人のパーカー」と揶揄されるのを嫌ってテナー・サックスをメーンにしていたスティットが、再びアルト・サックスをとりあげ、名演を連発するのもパーカー没後のことだった。独自のスタイルを築きあげた名手は少なくないが、そのうえで大きな影響をおよぼしたということになると、白人ではコニッツ、黒人ではアダレイとエリック・ドルフィーを数えるのみではないかと思う。  注:アドルフ・サックスが開発したサックス属は、ソプラニーノ、ソプラノ・サックス、アルト・サックス、テナー・サックス、バリトン・サックス、バス・サックス、コントラバス・サックスの7種で編成される。今日使われているBb/Eb系のほかにC/F系があったが、当てにしていた軍楽隊が採用を見送り早々に廃れた。ところが、C管テナー・サックスはピアノなどの楽譜を移調しないで吹けたため、10年代から20年代にかけて家庭や教会を中心に重宝される。息の根をとめたのは大恐慌だった。音楽どころではなくなったのだ。 ●参考音源 [Don Redman] The Fletcher Henderson Story (23.8-27.5 Columbia) [Jimmy Dorsey] The Varsity Eight 1923-1926 (24.9-25.4 Timeless) [Frankie Trumbauer] Tram! Volume 1/Frankie Trumbauer (23.6-29.5 The Old Masters) The Bix Beiderbecke Story (27.2-28.4 Sony) Bix Beiderbecke (27.9-30.9 Bluebird) [Benny Carter] The Complete Sessions/Charlie Johnson (27.2 & 28.1 EPM) The Fletcher Henderson Story (28.11-31.2 Columbia) Benny Carter 1929-1933 (29.9-33.5 Classics) [Johnny Hodges] Early Ellington/Duke Ellington (28.6-31.1 GRP) Duke Ellington 1940-1942 (40.3-42.7 Bluebird) Duke Ellington Small Groups (40.11 & 41.7 Bluebird) [Charlie Parker] The Complete "Birth of the Bebop"/Charlie Parker (40.4-45.12 Stash) Early Bird/Charlie Parker (40.11-45.11 EPM) Blues from Kansas City/Jay McShann (41.4 & 42.7 GRP)
テナー・サックス その1
テナー・サックス その1 『The Blanton-Webster Band』 『レスター・リープス・イン』 『Complete American Small Group』 ●コールマン・ホーキンス(1904‐1969) テナー・サックスの創始者  「アルト・サックス その1」で見たように、20年代の初めにアルト・サックスはソロ楽器として自立する道を歩み始める。一方で、テナー・サックスはトロンボーンの代役に甘んじていた。たいていはアンサンブルのアクセント付け、たまに稚拙なメロディーを吹くくらいで自立できるはずもない。ホーキンスがテナー・サックス奏法の開発に挑んだのは、そんな時代だった。ホーキンスこそ、テナー・サックスの「最初の一人」なのだ。レスター・ヤングほど重視されないきらいがあるが、少しは見直していただけただろうか。  5歳でピアノ、7歳でチェロ、9歳でテナー・サックスを始める。劇場のバンドを経て、21年にマミー・スミス(女性ブルース歌手)のバンドに入った。推定を含め9月から23年1月までに22曲(10曲はアルト・サックス)の録音に参加しているが、多くは大型編成の歌伴に埋没し、3曲の器楽曲でもソロはない。わずかに、22年12月の《アイム・ゴナ・ゲット・ユー》が、テナー・サックスのメロディー楽器への移行を伝える貴重な記録だ。23年6月にマミーのバンドを去り、ほどなくフレッチャー・ヘンダーソン楽団に加わる。 キング・オブ・サキソフォン  入団直後の8月に《ディクティ・ブルース》でフィーチャーされた。舌打ちまじりの極度のスタッカート奏法は未知のリズム楽器を思わせ、珍奇このうえない。10月に「事件」がもちあがる。ルイ・アームストロング(トランペット)が入団し、そのジャズ魂にバンドごと洗脳されてしまうのだ。ホーキンスも例外ではなかった。11月から、ルイ流のレガートを併用したメロディアスな演奏になっていく。ただ、27年までは小枝をポキポキ折るような屈折感をとどめていた。26年5月の《スタンピード》が過渡期を代表する名演だ。  28年から29年にかけて屈折感は薄れ、流麗度を増していく。ジャズ魂を知らしめたのはルイだが、流麗な奏法は28年に短期間在団したベニー・カーター(アルト・サックス)が無言の手本になったものと見られる。31年の春、ハード・ドライヴィングでラプソディックなホーキンス・スタイルが完成を見た。これもカーターが復帰していた直後で、偶然とは思えない。34年から39年までの滞欧期、帰米後の《ボディ・アンド・ソウル》に始まる快進撃、ビ・バップへの意欲など、スタイル確立後の話は別の機会に譲らせていただく。  30年代の後半にレスター・ヤングが出現するまで、あらゆるテナー・サックス奏者がホーキンスをモデルにした。影響をうけた第一世代の大物をあげておこう。黒人では、直系の筆頭でベン・ウェブスター、ホーキンスの滞欧中に第一線に躍り出たチュー・ベリー、テキサス三大テナーのハーシャル・エヴァンス、バディ・テイト、アーネット・コブ、バップ期に活躍した進歩的スウィング派のドン・バイアス、ラッキー・トンプソンがいる。白人では、シカゴ派のバド・フリーマンが過渡期のポキポキ・スタイルを出発点にした。 ●ベン・ウェブスター(1909‐1973) ホーキンス直系の個性派  ベンは、ホーキンスとレスターと並んで「スウィング期の三大テナー」に、ホーキンスとベリーと並んで「ホーキンス派の三大テナー」に数えられる巨人だ。アップ・テンポではグロウルをまじえた豪快なトーンで激情をほとばしらせ、一転してバラードでは切々たる心情をむせび泣くようにつづる、蒸気機関車の爆走と徐行を思わせるスタイルの持ち主だった。実際、いつもは温厚だが、いったん怒りに火がつくと周りの手に負えない二面性をもっていたという。風貌をご存知でない方は、笑顔の?仁王様を思いうかべてほしい。  最初はヴァイオリンを手にし、長じてピアノに転じた。無声映画の伴奏者を経て、レスターの父親ビリーが率いるバンドに雇われる。ほどなくビリーの教えと勧めによってテナー・サックスを志し、30年の初めにジーン・コイ楽団でサックス奏者としてデビューした。初録音は31年3月のブランチ・キャロウェイ楽団のセッションで、在籍中にソロをとっているようだが未確認だ。32年にベニー・モーテン楽団に移り、12月のセッションでフィーチャーされている。30年頃のホーキンスを思わせる屈折感と起伏感の残るスタイルだ。 バラード演奏の人間国宝  33年からはフレッチャー・ヘンダーソン楽団、ベニー・カーター楽団などを渡り歩く。個性を確立していく過程は、34年9月のヘンダーソン楽団の《ホッター・ザン・エル》、12月のカーター楽団の《ドリーム・ララバイ》で追うことができる。これらで注目すべきは流麗度を増していることだ。後者はもちろん、前者にもカーターが参加しており、ここにも流麗な演奏を身をもって示すカーターの影が感じとれよう。ほぼ完成した姿は、36年12月のテディ・ウィルソン楽団の《ティー・フォー・トゥー》ほかにとらえられている。  40年にデューク・エリントン楽団のスター・ソロイストの座につくと、同僚のジョニー・ホッジス(アルト・サックス)に触発され、バラード演奏に磨きをかけていった。43年の退団後はフリーとして多くのセッションに参加し、51年12月にジョニー・オーティス楽団でバラードの金字塔《スターダスト》を残す。ベンの退団後もエリントンは、アル・シアーズ、ポール・ゴンザルベス(白人)など、ベン系の奏者を雇った。ともに白人で、JATPでならしたフリップ・フィリップス、モダン派のルー・タバキンも影響をうけている。 ●レスター・ヤング(1909‐1959) ビ・バップを示唆した天才  37年、レスターはクールなトーン、かすかなヴィブラート、小節線にこだわらないソロ構成など、ホーキンスと正反対のスタイルを引っさげて表舞台に登場した。さらに、チャーリー・クリスチャン(ギター)にビ・バップの方法論を示唆し、チャーリー・パーカー(アルト・サックス)のスタイル形成にも影響をおよぼしている。ビ・バップになじめなかったレスターをモダン・ジャズの開祖とは呼べないが、モダン・ジャズはレスターの楽想とともに始まったとはいえそうだ。しかし、影響源について語ることはほとんどない。  父親ビリーが率いるバンドではドラムスを叩いていた。13歳でドラムスを投げ出し、アルト・サックスをあたえられる。18歳でバンドを抜け、36年にカウント・ベイシー楽団に入るまで、中西部や北中部のバンドを転々とした。著名なのは、30年前半のウォルター・ペイジ、32年初めから33年秋までのバスター・スミス、33年秋のベニー・モーテン、34年初めのベイシー、34年3月から7月までのヘンダーソン楽団あたりだ。テナー・サックスを始めたのは28年頃で、32年には専念し、個性的スタイルは出来あがっていたとされる。 短い最盛期と長い凋落期  初録音は36年11月、ベイシー楽団がジョン・ハモンド(プロデューサー)の勧めでニューヨークに進出する途上、シカゴで録音されたコンボ・セッションだ。圧巻は《シュー・シャイン・ボーイ》と若き日のパーカーがコピーに励んだ《レディ・ビー・グッド》で、レスターはレスター以外の何者でもない。かつて、ジミー・ドーシーのスタイルで行くか、フランキー・トランバウアーのスタイルで行くか悩み、後者に決めたとされるが、ノン・ヴィブラートと寛いだ感覚は共通するものの、前代未聞の独創性は比べるべくもない。  初録音が生涯で最高の名演となった。それでも、37年1月の《ローズランド・シャッフル》から43年12月の《ジャスト・ユー・ジャスト・ミー》《サムタイムス・アイム・ハッピー》まで、ベイシー楽団を中心に多くの名演を残している。最盛期はせいぜい44年5月の『ブルー・レスター』までで、あとは確実に下降線を描いていく。44年9月から45年6月までの人種差別に満ちた過酷な兵役が感受性をズタズタにしたとされるが、注意深く聴くと、43年12月にはトーンが重苦しくなり、閃きに翳りが見え始めていることがわかる。  皮肉なことに、本人の凋落と入れ替わるように、最盛期には軽視されていたレスターをモデルとする奏者が輩出してくる。第一世代はデクスター・ゴードン、ワーデル・グレイ、ジーン・アモンズといった黒人バッパーで、彼らはホーキンス流のタフ・トーンにレスター流のフレーズをのっけた。クール・ジャズの台頭とともに第二世代が輩出してくる。スタン・ゲッツ、ズート・シムス、アル・コーンといったウディ・ハーマン楽団出身の白人奏者で、彼らはトーンもフレーズもレスターにのっとり、そのスタイルを築きあげた。 ●ドン・バイアス(1912‐1972) スウィング派だが進歩的  系譜というテーマを追っていると、時としてジャズ本でとりあげられることがまずない人物が浮上してくる。巨人だから影響力が大だったとはかぎらないし、その逆だともかぎらないのだ。バイアスの名前をご存知の方はわずかだろうし、演奏を聴かれた方となると希れだろう。46年には渡欧したので本国でも知名度は低い。ところが、大きな影響力を発揮した。一息で長いラインをウネウネ繰り出す、ベニー・ゴルソン(モダン版ベン・ウェブスターというのは誤認)のオジキみたいな進歩的なスタイルが玄人うけしたのだろう。  ヴァイオリン、クラリネット、アルト・サックスを経てテナー・サックスに転じ、ライオネル・ハンプトン楽団などを渡り歩く。初録音は38年5月のティミ・ローゼンクランツ楽団のセッションだ。《ウィー・ビット・オブ・スウィング》での奔放さはホーキンス風だが、《イズ・ジス・トゥ・ビー・マイ・スーベニール》ではハーシャル風の温かい情感を見せる。41年から43年まで在籍したベイシー楽団で注目される存在になった。41年11月の《ハーバード・ブルース》をはじめ、雑味のないトーンとスマートな語り口が新鮮だ。 進歩的だがスウィング派  44年の半ばにはウネウネ奏法を前面に出すようになる。6月の《ドンズ・アイデア》が最初の成果だ。前後してバイアスはビ・バップに関わりだし、44年にはディジー・ガレスピー(トランペット)の初のバップ・コンボにも参加した。しかし、45年と46年のバップ・セッションに聴くバイアスは場違いといわざるをえない。46年2月のディジーの《アンスロポロジー》は、バイアスが抜けたおかげで最上の出来になる始末だ。結局、バイアスの先進性はスウィング系の演奏で光る類のもので、戦前レジームから脱却できなかった。  渡欧後、判じ物のようなスタイルに磨きがかかっていく。影響をうけた者のほとんどがハード・バッパーだ。ビ・バップ後のモデルなき世代にとって、保守系左派とでもいうべきスタイルのバイアスが理想像に映ったということではないか。彼らに共通するのは、ウネウネ繰り出すロング&ワインディング・ラインだ。黒人では、ゴルソン、「超舌」技巧のジョニー・グリフィン、「バイアス命!」のローランド・カークがいるし、ジョン・コルトレーンもそれ臭い。白人では、ゴンザルベスのテナー・マラソンに影がうかがえる。 ●参考音源 [Coleman Hawkins] Mamie Smith Vol.3 (22.5-23.1 Document) A Study in Frustration/Fletcher Henderson (23.8-33.8 Columbia) First Impressions/Fletcher Henderson (24.10-31.7 Decca) Swing's the Thing/Fletcher Henderson (33.9-10 Decca) [Ben Webster] Bennie Moten & Count Basie (32.12 Bluebird) Benny Carter 1933-1936 (34.12 Classics) Teddy Wilson & his All-Stars (36.12 Sony) The Blanton-Webster Band/Duke Ellington (40.3-42.7 RCA) [Lester Young] Lester Leaps In (36.11-40.8 Sony) The Complete Decca Recordings/Count Basie (37.1-39.2 GRP) The Kansas City Sessions/Lester Young (38.9, 44.3 Commodore) The Complete Lester Young (43.12, 44.3 Mercury) [Don Byas] Swing Sessions Vol.2/V.A. (38.5 Bluebird) Count Basie 1939-1951 (41.1-42.7 CBS/Sony) Complete American Small Group Recordings/Don Byas (44-46.9 Definitive) Dizzy Gillespie 1945 (45.1 Classics)
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第5回 ものんくる『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』
第5回 ものんくる『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』 『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』ものんくる  ゴールデンウィークも後半に突入した5月5日、こどもの日。日本中が注目した一大関心事といえば、やっぱり長嶋茂雄と松井秀喜のW国民栄誉賞授与式&引退セレモニーだったのではないだろうか。ミスターとゴジラ。栄光の読売巨人軍の四番打者として、そして昭和と平成のスーパースターとして、ぼくら世代、あるいはぼくらの親世代の少年時代から今に至るまでに強烈なインパクトを与えてきたふたり。ゆえに、“戦いを終えた”この日の師弟の晴れ晴れとした再会と交歓の一幕には、誰しもの胸に万感なる想いが込み上げたことだろう、とテレビ放送を観ながら思っていた。  …のだが。その夜ふと顔を出した飲み会の席で、友人の会社に勤める若衆が泰然と吼える。「どっちもよく知らないっス」。この21歳の2年目社員。小・中・高とみっちり野球部で鍛えられ、大学進学に際しても関西の某名門校から野球推薦入学のお声がかかっていたというほどの“球道者”にも関わらず、ミスターもゴジラも「名前程度」という体たらく。しかも大の巨人ファンだというのにだ。「お前、マジか!?」とぼくらR40は慄くばかり。このふたりを知らずして巨人軍の何を語れるのか、と。さらに訊けば、ONはおろか、原も中畑も指導者としての顔しか知らない。槙原や元木に至っては「野球好きのタレントかと思ってた」とぶっちゃける始末…。  でもまぁ、よっぽど野球史のお勉強に精を出している人じゃないかぎり、ハタチそこそこの若いコが、長嶋の天覧試合ホームランや松井の5打席連続敬遠について言及することなんかありえないだろうなと、シンプルな世代間ギャップとしてある意味、彼の“無感動さ”に納得させられた。そりゃ、R80世代から沢村栄治やスタルヒンの武勇伝を懇々と語られてもぼくらには大抵ピンとこないわけで。  いずれにせよ、牧歌に彩られた少年~青春時代のサウダージというものは、当然ながらいかに百人百様で、またのちに壮年を迎える上でそれがいかに重要なウエイトを占めるインパクト、執拗な刷り込みとなり得ているかということを改めて痛感させられた、そんな2013年のこどもの日であった。  という、いくらか感傷的な世代論を“前フリ”に、それが功を奏すのか否か、ここからやや強引ではあるけど、今回ご紹介する、ものんくる(mononkul)というユニットの話に移させていただく。とはいえ、あまりにもトピックがありすぎて、どこから敷延していこうかなという感じなのだが…まずは、簡単にその人となりを。  彼らは、女性ヴォーカルの吉田沙良とベースの角田隆太を中心として、そこに流動的なサポート・メンバーを加え活動しているポップス・ユニット。双方、大学を出て間もない22歳と25歳。しかも本ユニットは結成が2011年の1月ということで、いわゆるホヤホヤでありピチピチのひよこ組。ただ昨年1月に早くもモーション・ブルー・ヨコハマでワンマン・ライヴを行ない大盛況を収めたという結構な殊勲もたずさえる、まずもってドライチのスーパー・ルーキーと呼ぶにふさわしい逸材。その音楽表現自体の質の高さにもビックリして余りあるほどの驚異的なものがある。  ジャズをベースに、ビッグバンド、ブラジルから、映画音楽、AOR、J-POP、童謡に至るまでの要素(これこそ一方的な決めつけなんだけど)を、身丈に合った解釈で無理なく掬い込みながら、すべてを、「こんな感じ」「あんな感じ」と“コソアドあそび的”にひっくるめて新しい世界を窺わせてくれる、彼らのそんな初々しくもフットワークの軽い、前途光明なパフォーマンスにハッとさせられる。また、一見手アカまみれと思われていた習作古典でさえも、切り込む角度によってはフレッシュな余地があるという、まさしくヒップホップのサンプリング・ソース引用論によく似た感触もチラホラ。  とはいえ、ものんくるの音楽を肴に、「初期の大貫妙子っぽいし、Sakanaのポコペンっぽいし、これなんかは完全にリベレーション・ミュージック・オーケストラだもんねぇ」とぐだぐだのクリシェでメートルを上げるのには、些かの違和感があるのも事実。そういう“さしずめ論”は、牧歌に彩られすぎて、アーカイヴの引き出しをコジ開けることに躍起するぼくらオジサンのある種勲章ではあるのだけれど、それでも先に登場した友人連れの21歳の若衆同様、「古いことはよく分かんないスけど、ジャイアンツってやっぱヤバいっスよねぇ」という賢しげさも忌憚もない物言いの中にこそ心地よくストレートな愛情表現が宿っている、という見方をするのがどう考えてもシラフ且つ真っ当であるのかもしれないと。別にティン・パン・アレイやチャーリー・ヘイデン&カーラ・ブレイの先達偉業を大上段からお仕着せしなくとも、道はいくらでも大きく開けているというわけだ。  ものんくるのことを初めて知ったのは、このたびリリースされる彼らのデビュー・アルバム『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』のプロデューサー(サックスで1曲に参加)でもある、あの菊地成孔氏がパーソナリティを務めるTBSラジオ番組「菊地成孔の粋な夜電波」に昨年本人たちが出演した回でのこと。百戦錬磨の氏による“神推し”もあったが、とにかくそこでオンエア・プレイされた「優しさを重ねること」という楽曲に、溜飲を下げたというか、瞬く間にホの字となった。  ものんくるのふたりは、比較要素としてしばし挙げられる前述のリベレーション・ミュージック・オーケストラやギル・エヴァンス、ブラジル・ミナス派、あるいはひと昔ふた昔前の和洋シティ・ポップを特別熱心に聴き込んでいるわけではないと思う。もっと言えば、彼らの世代がそれらを夢中になって貪ったところで、「優しさを重ねること」や「春を夢見る」、「穏やかな日曜日へ」のようなリアリティのある名曲が生まれることはないだろう。彼らなりのインスピレーションやサウダージが、たまたまオジサンたちの大好きな古典の薫りを髣髴とさせただけで、そこへの習作としてのワンタッチこそあるものの、彼らのような若き才は古典(過去)にばかり傅き自らをがんじがらめにするような愚行にはまず及ばない。そう断言できる気がする。そういう意味でも、ものんくるの『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』に収められた10曲は、どれも強くタフな意志をもつ傑出したものばかり。  2013年5月5日。ミスターとゴジラの季節がひとつのピリオドを迎えると告げられたこの日、一方で新しいシーズンの到来とばかりに、オジサンたちを(も)振り向かせ狼狽させ熱狂させる“恐るべき子供”たちにその後の未来は託された。いや、どうりで青葉が目にしみるわけだ。[次回5/22(水)更新予定]

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