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天皇世代最強のアイドルは誰? 政治家、俳優、ミュージシャン…同い年の著名人たち
天皇世代最強のアイドルは誰? 政治家、俳優、ミュージシャン…同い年の著名人たち
天皇世代最強アイドル?の大場久美子さん/1990年撮影 (c)朝日新聞社  2019年5月1日、新しい天皇が即位した。第126代の天皇にあたり、「皇太子」から「天皇」へと呼び名が変わった。もっとも、これまで昭和、平成を長く生きてきた国民にとっては、「浩宮さま」「皇太子徳仁親王」のほうが、身近だったであろう。  天皇は1960(昭和35)年2月23日に生まれた。同じ世代には、各分野で活躍する人材がたくさんいる。いわば「天皇世代」で社会に大きくアピールする人たちをまとめてみた。  天皇は1960年の早生まれである。そこで、1960年の1月~12月に生まれた人物、天皇と同じ学年にあたる1959年4月2日から12月31日に生まれた人物について紹介しよう(以下、*印は1959年生まれ)。  政治家には、大臣、党首、派閥の領袖などで大物感を漂わせる人物はあまりいない。安倍晋三首相、志位和夫日本共産党委員長は年上で、枝野幸男立憲民主党代表は年下になる。現職大臣の天皇世代には、片山さつき*がいる。大臣経験者は、野田聖子、小野寺五典(以上、自民党)、長妻昭(立憲民主党)。また、辻元清美(立憲民主党)、元自衛隊幹部の佐藤正久(自民党)など、キャラが立つ政治家もいる。日本共産党書記局長の小池晃、同党副委員長の山下芳生も、天皇と同じ時代を生きた。沖縄県知事の玉城デニー*、宮城県知事の村井嘉浩は存在感を示している。  官僚で天皇世代を大いに落胆させたのが、セクハラ問題で辞任した福田淳一*財務省前事務次官や、森友学園問題の疑惑で矢面に立たされた迫田英典*元国税庁長官だろう。  財界ではソニー会長の平井一夫、三井物産社長の安永竜夫、東京海上ホールディングス専務の小宮暁、星野リゾート社長の星野佳路など。ワタミ創業者の渡邉美樹*もいる。任天堂元社長の岩田聡*は急逝し、ゲーム業界に大きな衝撃を与えた。こうした大企業をときに震え上がらせた投資家がいる。村上ファンドの村上世彰*だ。  学者、研究者の世界を見てみよう。天皇と同年代で世界最先端をゆく研究者といえば、2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一*、2014年にノーベル物理学賞を受賞した天野浩だ。2003年、天皇は皇太子時代、島津製作所を訪れた際に田中からレクチャーを受けている。  メディアで発信力が高い大学教員がいる。明治大教授の齋藤孝は『声に出して読みたい日本語』を著した。青山学院大教授の福岡伸一*は『生物と無生物のあいだ』がベストセラーになった。2人はテレビにもよく出演する。東京大教授の本郷和人は日本史関連で昨今、多くの書物を出している。慶應義塾大教授の福田和也、立教大教授の香山リカ、京都大教授の佐藤卓己、日本大教授の広田照幸*なども天皇世代だ。オピニオンの世界では、元外務省主任分析官の佐藤優が時代を読みとく。  メディアへの登場が旺盛な灘高校同級生1960年生まれトリオ、いわば天皇世代トリオがいる。勝谷誠彦(コラムニスト)、和田秀樹(精神科医)、中田考(イスラム学研究者)だ。前警視総監の吉田尚正、元広島県警察本部長の宮園司史といった警察官僚も、勝谷らと同級生だった。昨年11月の勝谷の病死が惜しまれる。  作家もバラエティーに富んでいる。芥川賞作家には目取真俊、多和田葉子がいる。目取真は辺野古基地反対運動で身柄を拘束されたことがある。直木賞作家には石田衣良、宮部みゆき、朝井まかて*、奥田英朗*がいる。ほかにベストセラー作家には綾辻行人、小野不由美、新井素子、天童荒太、佐伯一麦*、久美沙織*、柴田よしき*、長野まゆみ*、二階堂黎人*など。  脚本家で活躍しているのが中園ミホ*で、「Doctor-X 外科医・大門未知子」シリーズや「西郷どん」「花子とアン」を書き下ろした。田渕久美子*も「篤姫」「江~姫たちの戦国~」といったNHK大河ドラマを手がける。  漫画家にはヒットメーカーがそろう。高橋陽一の「キャプテン翼」は、元フランス代表・ジダンも愛読したといわれている。荒木飛呂彦の「ジョジョの奇妙な冒険」は長きにわたって連載し、シリーズ総計124巻を数えている。きうちかずひろは「ビー・バップ・ハイスクール」で昭和のツッパリ、ヤンキーを描いていた。浦沢直樹は「20世紀少年」で1970年の大阪万博に触れ、同世代の哀愁を誘った。  内田春菊*の「南くんの恋人」はテレビドラマ化されており、小説『ファザーファッカー』では直木賞候補になった。片山まさゆき*は明治大漫画研究会出身で麻雀漫画の雄となり、「ぎゅわんぶらあ自己中心派」「スーパーヅガン」が有名だ。細野不二彦*は「さすがの猿飛」で子どもたちのハートをつかんだ。  庵野秀明はアニメーター、映画監督として活躍し、「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズなどを手がけている。  画家の奈良美智*も忘れてはならない。彼の作品は世界中から常に注目されている。  芸能関係を見てみよう。60歳に手が届く年代になったせいか、俳優では大物感を抱かせる人たちがそろう。佐藤浩市、真田広之、生瀬勝久、西村まさ彦、村田雄浩、川野太郎、渡辺謙*、室井滋、紺野美沙子、山村紅葉、浅野ゆう子、田中美佐子*、古手川祐子*など。宝塚出身の涼風真世と黒木瞳、2時間ドラマの女王と帝王である片平なぎさ*、船越英一郎も、映画、ドラマには欠かせない。  アイドルはこの年代にそれほど多くない。上の世代にはピンク・レディーや山口百恵などがいる。「花の82年組」といわれる小泉今日子、中森明菜、堀ちえみ、早見優などは、1965~1967年生まれ。ちなみに天皇が「浩宮さま」時代にファンだった柏原芳恵は、1965年生まれだ。  天皇世代最強のアイドルがいた。大場久美子である。デビュー当時のキャッチフレーズは「一億人の妹」である。平成後半、ネット画像の拡散で瞬く間に注目された橋本環奈の「1000年に一度のアイドル」と勝るとも劣らないほど、大場には熱狂的なファンが多かった。  ほかに高田みづえ、倉田まり子、榊原郁恵*、林寛子*などが活躍し、女子大生タレントとして川島なお美が注目されていた。キャスターとして人気を博したのが久和ひとみ、山口美江である。川島、久和、山口の3人が若くして亡くなったのは惜しまれる。  芸人ではものまね芸に磨きをかけ続ける清水ミチコ、コロッケがいる。  ミュージシャンには氷室京介、大江千里、サンプラザ中野くん、麻倉未稀、杉山清貴*など。氷室は夭折の芸術家、山田かまちの同級生でもあった。テノール歌手の錦織健、オペラ歌手の森公美子*も天皇世代だ。  スポーツ界では、イチロー、中田英寿に匹敵するような傑出したアスリートは見当たらない。プロ野球では「炎のストッパー」といわれた津田恒美(広島)のほか、小松辰雄*(中日)、川口和久*(広島、巨人)、松永浩美(阪急、阪神、ダイエー)、平田勝男*(阪神)など。監督経験者には西村徳文(ロッテ)がいる。  サッカー界では、Jリーグ開幕時に天皇世代の選手たちが30代半ばで現役を引退していたなか、水沼貴史(横浜マリノス)が活躍していた。陸上競技のマラソン選手では、谷口浩美が「こけちゃいました」、中山竹通*が負傷した瀬古利彦に対し、試合に「這ってでも出てこい」と名セリフを残している。ボクシングでは赤井英和*、新体操では山崎浩子、女子プロレスではダンプ松本がいる。  天皇と同世代の著名人をざっと眺めてみた。これまでは「皇太子と同年代なんだ」と意識していただろうし、これからは「そうか、天皇と同じ年なのか」と感慨深く思うこともあるだろう。まもなく還暦を迎える天皇世代には、まだまだ現役でがんばってもらいたい。(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫、文中敬称略)
dot. 2019/05/20 17:00
シャケの骨を口から出す名優になった、草刈正雄について思う 
矢部万紀子 矢部万紀子
シャケの骨を口から出す名優になった、草刈正雄について思う 
元祖ハンサム、草刈正雄 (c)朝日新聞社 矢部万紀子(やべまきこ)1961年三重県生まれ、横浜育ち。コラムニスト。1983年朝日新聞社に入社、宇都宮支局、学芸部を経て「AERA」、経済部、「週刊朝日」に所属。週刊朝日で担当した松本人志著『遺書』『松本』がミリオンセラーに。「AERA」編集長代理、書籍編集部長をつとめ、2011年退社。同年シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長に。2017年に(株)ハルメクを退社、フリーに。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』  草刈正雄が「なつぞら」で、シャケの骨を口から出していた。5月16日だった。感動した。すごいと思った。という話を書きたい。  そもそも「なつぞら」は朝ドラ100作目ということで、始まる前からNHKがものすごく力を入れていた。広瀬すずが主演だと2017年11月に発表して、これは99作目「まんぷく」のヒロインが安藤サクラだと発表されるより2カ月以上も前だった。広瀬の母親役の松嶋菜々子を始め、歴代の朝ドラヒロインを多数ブッキング、その中にはあの「おしん」の子役だった小林綾子も含まれていて、話題作りのための仕掛けすごいなあ、と見ていた。  いざ放送が始まった4月、話題をさらったのは広瀬より松嶋より、草刈だった。ヒロインなつのおじいさんの泰樹がいきなり名台詞を連発、ネットでは「アルプスの少女ハイジ」に重ねて「草刈おんじ」などと呼ばれるようになった。  5月17日の41話も草刈が熱い演技を見せていたから、午前9時には「『なつぞら』またもネット号泣 なつの告白に草刈おんじ涙」(スポニチアネックス)とニュースになっていた。が、個人的にはその前日のシャケの草刈の方にそそられたのだが、その前にざっくり展開を説明する。  なつは泰樹のいる柴田家に引き取られた元戦災孤児で、酪農高校の3年生。アニメーターになりたくて、卒業後は東京に行きたい。だがそれでは育ててくれた家族、中でも泰樹への恩が返せない。悩めるなつ。  当初から「十勝から東京でアニメーターを目指す女性がヒロイン」と発表されていたので東京行きはわかっているのだが、なつと、なつを見込んで酪農を教えてきた泰樹の心情がどちらも理解できて、ハラハラさせられる。とうとう41話で、東京に行きたいのは「漫画映画を作りたい」からだとなつが打ち明けた。それまでは柴田家への遠慮から「本当の兄がいるから」東京に行くと嘘をついていたのだ。 「挑戦してみたいのさ。じいちゃんが1人で北海道に来たみたいに。それが私には漫画映画を目指すことなのさ」  相当はしょったが、なつが心情を切々と語った。泰樹がこう答えた。 「よく言った。それでこそ、わしの孫じゃ。行って来い。漫画か映画か知らんが、行って、東京を耕してこい。開拓してこい」  草刈は涙を見せる熱演。そんなこんなで「ネット号泣」と相成った。と、ここまでたどり着いたところで、シャケの話へ移る。  冒頭にも書いたがそれは16日で、つまりネットが泣いた前日だった。まだなつは「兄がいるから」東京に行きたいとしか言ってなく、しかもそれを聞いた泰樹は「出てけー」と怒鳴ってしまう。詳細は省くが、なつにそう思わせたのは自分だと後悔もしている。  そこで登場するのが、とよ(高畑淳子)という菓子店「雪月」の元店主。泰樹が正直になれる唯一の相手だから、なつの話をして孫が東京に菓子修業に行くなら一緒に連れていってくれと頼む。うまさが際立つ2人のやりとり。シャケが出てくるのは、自宅に戻ってからの食事の場面だった。  故あってなのだが、柴田家の長男が石狩鍋に牛乳を注ぐ。鍋がアップになってシャケや野菜が映り、次に食べている泰樹が引き気味で映る。箸を置いた泰樹がやおら、「なつ」と呼びかける。そして次に、すっと泰樹が指を口に入れ何かを取り出す。手元の小皿にそれを置く泰樹。石狩鍋でこの動き、シャケの骨に違いない。そう思った。感動した。    感動の意味をわかっていただくため、全くの素人だが素人なりにここでの芝居を解説していく。骨を取り出すという動きはあまりカッコよくないというのを前提にしている。  そもそも台本に「泰樹、シャケの骨を取り出す」と書いてあるはずはなく、演じていたら偶然、骨が口に残ったと考えるのが妥当だろう。そうだとして、ここから先の草刈の判断はいくつか考えられる。  骨を口に入れたまま演技を続けることが一つ目。二つ目は思わず口から出してしまったとして、出した瞬間に、「すいません」とか何とか言って撮り直してもらう。三つ目が、骨を出した後も演技を続けるという判断。草刈はそのまま「おまえのことは、雪月のばあさんに頼んでおいた」と台詞を言ったから、三つ目だったとしておく。  広瀬が「私はもうじいちゃんと家族でいられんの」と受ける。そこから草刈の長台詞。 「いつでも戻ってこい。ここはおまえのうちじゃ、それは変わらん。先に東京の用事を済ませてこい。したけどおまえがもし、東京で幸せになるなら、それも立派な親孝行じゃ。それを忘れるなよ。絶対にそれを忘れんな」  この日の泰樹、いつにも増して髪がボサボサだった。草刈の目の下あたりのたるみが、いかにもなおじいさんぶりでいい味だった。少し泣けた。  二枚目男性のことを近ごろはもっぱら「イケメン」と言うが、草刈には「ハンサム」の方が似合うと思う。背が高く、スタイルがよく、役者としての最大の特徴もハンサム。それが草刈だったと思う。  ところが草刈は変わった。大河ドラマ「真田丸」(2016年)の真田昌幸役で毛皮を羽織って出てきて、そのことに気づいた。渋い役者になっていた。それから3年。ハンサム俳優なら出さないであろう骨。草刈はそんなことは厭わない名優になった。先ほどの判断でいうと、三つ目をあえて選択したと勝手に思い、そう結論した。もしかしたら、逆かもしれない。口から骨を出すという覚悟。それが草刈を名優にしているのか。  草刈は66歳だ。年齢を重ねたハンサム俳優として、理想形だとも思った。で、頭に浮かんだのが西島秀俊だった。  この欄でも書いたが、4月スタートドラマで一番のお気に入りが「きのう何食べた」だ。西島と内野聖陽がゲイのカップルを演じている。内野がカミングアウトしている美容師、西島がしていない弁護士。役柄の違いもあるが、内野の達者な芝居に見惚れてしまう。西島は、すごくハンサムだ。すごく整っている。だが、内野と比べると分が悪い。ハンサムだけどつまらない。そんなふうに感じてしまう。  現在、西島は48歳。ほうれい線が目立ってきていることに、このドラマで気づいた。ほうれい線を隠さず、味にしようとしているのではないか。そう思った記憶があったから、骨→西島、と連想したのだろう。  そんなわけで、勝手に西島さんに言葉を贈ることにした。  目指せ、シャケの骨を口から出す草刈正雄!
矢部万紀子
dot. 2019/05/20 11:30
4回転も視野に… 紀平梨花の“溢れる向上心” オフにさらなる成長の予感
4回転も視野に… 紀平梨花の“溢れる向上心” オフにさらなる成長の予感
さらなる成長を予感させる紀平梨花 (c)朝日新聞社 「もう“シーズンオフに何をしようかな”という感じ」  3月に埼玉で行われた世界選手権の一夜明け会見で、紀平梨花の視線は既にオフの過ごし方に向かっていた。世界選手権ではショートの出遅れが響き4位に終わった紀平だが、「本当にシーズン中からやりたいことがたくさんあって」と語るその表情にあったのは悔しさではなく、また自分を鍛え直せるオフへの期待だった。 「シーズン中、トレーニングとかダンスとか、もっとたくさんいろんなことをしたいなと思っていた。でもとりあえずシーズンが終わらないと、まだ考えてはいけないことばかりだったので、そういうことを新たにスタートできることにすごくワクワクしている」(紀平)  昨季がシニアデビューシーズンだった16歳の紀平だが、グランプリファイナルや四大陸選手権を制し、世界のトップまで一気に駆け上がった。だが、その飛躍のシーズン中に紀平の心中にあったのは「まだまだ足りない」という思いだった。「もっとバレエを増やしたい」「毎日のトレーニングメニューを決めたい」と感じる反面、試合に向け「ペースを崩せない」という意識もあったという。「シーズンが終わったら、新たに考えるしかない」と我慢していた紀平は、今こそ待ち望んだオフを意欲的に過ごしているはずだ。  フィギュアスケートのシーズンが始まると、選手達は次々とやってくる試合に向けた調整が必要になる。試合で結果を残すためにはプログラムを滑り込んで完成していかなければならないこともあり、一般的にはシーズンに入ってから新たな取り組みをすることは難しい。そのためシーズンオフはスケーターにとり、新しいトレーニングに挑戦することができる貴重な時期といえる。  また、来シーズンのプログラムを作るにあたり、習得したジャンプの成功確率が上がっていれば、新たな要素として組み込むことができる。来季シニア女子で注目されるのは、ジュニアから上がってくる4回転ジャンプを持つロシアの天才少女達だ。また世界選手権では、エリザベート・トゥルシンバエワ(カザフスタン)がシニア女子として初の4回転ジャンプを成功させ、銀メダルを獲得している。世界選手権の一夜明け会見でも、宮原知子や坂本花織には現在取り組んでいるトリプルアクセルに関する質問があった。そんな流れの中、既にトリプルアクセルを武器にしている紀平が4回転を意識するのは自然なことともいえる。  トゥルシンバエワの4回転成功を目の当たりにした紀平は、「4回転も本当にやっていかないといけない、と今回強く思った」と語っている。そのために紀平が取り入れたいのは、“意味のあるトレーニング”だという。 「私の弱いところをもっともっとチェックして、一からまた体を作り直したい。シーズン中には“まだ今は4回転をできる体ではない”と、自分の弱いところを感じた。何をしたら4回転を跳べるか、考える時間も作りたい。何が必要か、いろいろな人に相談しながら、自分がやっていきたいことについて、上手くスケジュールを立てたいなと」 「4回転以外にもたくさんやることがあるんですけど、4回転にも力を入れていきたいです」と語っていた紀平だけでなく、シーズンオフの今、すべての選手が自らの滑りを磨いているはずだ。夏の地道な鍛錬が、冬の華やかな勝負の行方を決めるかもしれない。(文・沢田聡子) ●プロフィール 沢田聡子 1972年埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。シンクロナイズドスイミング、アイスホッケー、フィギュアスケート、ヨガ等を取材して雑誌やウェブに寄稿している。「SATOKO’s arena」
dot. 2019/05/16 17:00
「東大王」鈴木光のアイドル力は、モテない「東大女子」を変えるのか?
宝泉薫 宝泉薫
「東大王」鈴木光のアイドル力は、モテない「東大女子」を変えるのか?
東大女子のイメージも変わりつつある (c)朝日新聞社  テレビ界では“東大ブーム”が続いている。「東大王」「さんまの東大方程式」が人気を博し「今夜はナゾトレ」では、東大の謎解き制作集団「AnotherVision」のコーナーがラストの目玉企画だ。「頭脳王」の出場者も東大生及び出身者が多くを占めている。  そのブームを支えているのは、イケメン東大生。水上颯や松丸亮吾、河野玄斗、砂川信哉といった二物を与えられた男たちである。頭がよくてかっこよければ、モテるのは当然だ。そういえば平日の帯番組『ZIP』で朝の顔を務める枡太一アナウンサーも東大卒だったりする。  そんななか、この春にはある識者の発言が話題になった。フェミニスト系社会学者・上野千鶴子が東大の入学式で述べた祝辞のなかの一節だ。 <他大学との合コンで東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学……」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです>  これを機に「東大女子はモテない(のか?)」という議論が起きた。いや、再燃したというべきか。昔から「東大女子はモテない」という話はよくいわれてきたのだ。たしかに、今回の東大ブームでも脚光を浴びているのは男子ばかり……。と思いきや、じつはそんなことはない。彼らに負けず劣らず、アイドル化している女子がいる。東大生が芸能人と対決するクイズ番組「東大王」などで活躍する鈴木光だ。  彼女は現在20歳。筑波大附属中から同高校へと進み、東大文Iに推薦で入学した。高校時代には米スタンフォード大学の通信教育プログラムを受講して、優秀賞に選ばれている。「東大王」でのキャッチコピー「スタンフォードが認めた才媛」はそこに由来するものだ。  しかも、得意なのは英語だけではない。「プレパト!!」では俳句に挑戦して「賽銭の 音や初鳩 青空へ」「昼網や 明石メバルの ピチカート」といった美しい句を連発している。牧場の春にクラシックの名曲をからめた「道化師の ギャロップのごと 牧開」では、俳人の夏井いつきに「溢れ出す音楽と映像」と激賞された。  とはいえ、テレビ出演や東大クイズ研究会での活動はあくまで趣味のようなもので、将来の目標は企業弁護士。投資家が主宰する企業ゼミに参加するなど、司法試験の準備に余念がないという。  とまあ、輝かしい才媛ぶりなのだが――。ファンを釘づけにしているのは、その頭脳に優るとも劣らない「顔面」偏差値だ。黒髪で色白の肌に「キラキラ」「キリッ」といった形容が似合う目鼻立ち。今ドキ女子の褒め言葉のひとつである「乃木坂にいそう」を超えて「乃木坂に入ってほしい」という声も聞かれるほどだ。  さらに、特筆すべきはその女子力あふれるキャラクターである。勉強以外に音楽も得意なのだが、運動はそうでもないようで「鈴木光 走り方」で検索すると「苦手そうな走り方が可愛い」などというツイートが見つかる。そんな彼女が昨秋「オールスター感謝祭」の早押しクイズレース企画に出場。「すごい遅いので」と言いながら、懸命の激走で好感度を上げた。  そして今春、チームのリーダー的存在だった伊沢拓司が番組を卒業する際には、涙で言葉をつまらせ、肩をふるわせながらのコメントが話題に。 「今まですごくお世話になって……でもなんか、なんだろう……最初に馴染めなかったときから、すごく優しくしてくださった先輩なので、やっぱり、卒業するのはさびしいですけれど。ただ、みなさんで最後にいい思い出作りたいなって思います。すみません」  と、しどろもどろになったことを詫びるなど、芸能人とはひと味違う初々しい本気の泣きが感動を与えた。  そんな姿には、チームメイトをリスペクトし、自らも楽しみながら、必要以上に出しゃばらず控えめに振舞おうとしている印象がある。それゆえ、世間が東大女子に抱きがちな「マジメすぎ、冷たそう、お高くとまってる」といったイメージはまったく伝わってこないのだ。これはかなり画期的なことだといえる。  というのも、これまでに出現した「東大女子芸能人」は常に世間から「東大女子っぽさ」のようなものを求められ、実際、公私にわたってその期待に応えるかたちになってきたからだ。草分けの加藤登紀子は学生運動の闘士と獄中結婚、高田万由子は音楽家・葉加瀬太郎の妻としてロンドンでセレブ生活、桜雪(仮面女子)は渋谷区議にという具合だ。  菊川怜はその天然っぽさがかなりアイドル寄りだったが、それでも「バンキシャ!!」や「とくダネ!」でサブキャスターとしての職務をしっかりこなした。天明麻衣子もまたしかり。在学中に「テストの花道」での勉強指南役で美人ぶりが注目されたあと、NHKの契約アナを経て外資系銀行、語学留学といった道を歩んだ。現在は『日経モーニングプラス』でサブキャスターを務めるほか「Qさま!!」ではカズレーザーやロザン宇治原と好勝負を繰り広げながら「氷の女王」という高飛車なキャラ設定を律儀にこなしている。  とまあ、先輩たちはいずれも、地にせよ演技にせよ、どこか窮屈で予定調和な東大女子イメージにおさまっていたのだが、鈴木光にはそれがない。高学歴であろうとなかろうと「可愛い」女の子は可愛いのだという当たり前のことを思い出させてくれる。そういえば昔、東大在学中の高田万由子を取材した際、その手や指の可愛さに感動したものだった。そういう魅力に学歴は関係ない。東大女子だって「女の子」なのだ。  もちろん、鈴木とて圧倒的な頭脳が嫌味にならないように見せる努力をしているのかもしれない。が、その努力をほとんど感じさせず、東大女子という強烈なイメージを忘れさせるほどの可愛さを体現しているのはすごいことだ。周囲から浮くことなく、でも自分を魅力的に見せたいというのは今ドキ女子の理想でもあり、それをかなえているからこそ、同性からも憧れられるのだろう。  前出の入学式祝辞において、東大男子と東大女子の感覚の違いを上野千鶴子はこう分析した。 <なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか? 愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです>  たしかに、高学歴の女子を敬遠する男子はいるだろう。が、それはいまや少数派なのではないか。相手のほうが背が高くても、収入が高くても別に構わないという男子が増えているように。ちなみに、筆者の妻は国立大の医学部を首席で出ていて、大学除籍という制度上は高卒でしかない自分とは雲泥の差だ。でも、引け目を感じるどころか、その賢さや勤勉さを尊敬している。おそらく、上野のいう「ねじれ」はかなり解消しつつあるのだ。頭がよくてかっこいい男子がモテるように、頭がよくて可愛い女子もモテるという時代の到来を鈴木光のブレイクは示しているのだろう。  折りしも、今年はかつての東大女子が新皇后になられた年である(雅子さまは米ハーバード大から東大に進み、外務省入りのため中退)。また、フジテレビは、東大卒の新人・藤本万梨乃アナに新エースとなる期待をかけているという。鈴木が出演する「東大王」には紀野紗良という妹分が新・東大王候補として加入。「今夜もナゾトレ」では「AnotherVision」のアイドル的存在・リカ子が人気だ。  昭和の時代「東大生が選ぶアイドル」というものが存在した。東大のアイドル研究会がオーディションを行ない、そこから世に出た武田久美子などがそう呼ばれたわけだが、令和の世には「東大生がなるアイドル」が注目を浴びていくことだろう。(宝泉薫) ■宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。
dot. 2019/05/16 11:42
皇位継承問題の本質…制度の議論前に天皇家の考えを尊重するべき?
皇位継承問題の本質…制度の議論前に天皇家の考えを尊重するべき?
今年4月、悠仁さまはお茶の水女子大学附属中学校に入学された(4月8日、同大学中庭で)(写真:JMPA) 近重幸哉さん、久能靖さん、山下晋司さん(左から)。改元に沸いた10連休が明けた5月7日、皇室取材経験の長い3人がこれからの皇室について話し合った(撮影/写真部・加藤夏子)  令和時代を迎えたいま、安定的な皇位継承がますます急務になっている。皇室典範の現行制度の限界が浮かび上がるが、それ以前にもっと大切なことがある。長年の取材経験を持つ皇室ジャーナリスト3人が語った。 ●座談会参加者 久能靖さん:元日本テレビアナウンサー。数々の報道番組を担当。「皇室日記」のキャスターを長年務めた 近重幸哉さん:「女性自身」皇室担当記者。長年皇室取材を担当。著書に『明仁天皇の言葉』など 山下晋司さん:元宮内庁職員・元「皇室手帖」編集長。現在はBSテレ東「皇室の窓」監修など *  *  * ──皇位継承については、皇嗣である秋篠宮さまが「兄が80歳のとき私は70代半ば。それからはできない」と周囲に語ったという報道もありました。皇位継承権があっても、年齢が近ければ、継承していくことは難しそうです。 山下:そうです。秋篠宮殿下がどうお考えになるかというより、制度に限界がきている、という問題でしょう。現在の制度は、明治時代に考えられたもので、天皇は終身であり、皇位継承順位は機械的に決まるというものでした。上皇陛下のご退位で、制度の根本が崩れたと考えています。戦後、大慌てでつくった皇室典範の抜本的な改正をこれから進めなければならないと思います。 久能:戦後、新憲法と新しい皇室典範を作った際、議論が十分ではありませんでした。それに、当時は現代のような長寿社会が来るとは誰も予想していなかった。現代社会のありかたに対して、現行の皇室典範には矛盾が多すぎます。皇室典範全体を見直す必要があります。本来、昭和天皇が87歳までお務めになった時点で考えるべきことでした。 近重:少子化についても、当時はまったく考えられていなかったですよね。 山下:制度疲労を起こしていますよね。これから50年は通用する制度を、考えるべきだと思います。小泉政権の05年に議論されだしてから、この議論は出てきては立ち消えになっていますが、今回もそうなる恐れがあります。仮に国民投票を行えば、すんなり「女性」「女系」と決まるかもしれませんが、天皇陛下や皇室の方々はどう考えておられるのか。それがわからないので、私はずっとモヤモヤを感じてきました。天皇家の存続の根幹に関わることなのにその家の人の意見を聞かず、国の組織で決めて、国民はすっきりするのか。 ──日本国憲法の定める「天皇」という立場である以上、天皇自身が制度に関して意思を表明することには、制約もあります。 山下:けれども、今回のご退位について、仮に上皇陛下がお気持ちを示さずに政府として決めていたら、国民も「本当に陛下はご退位されたいのか」とモヤモヤしたと思います。今の天皇陛下が女性天皇、女系の天皇を望んでおられるのか、それとも男系維持と考えておられるのか、私もわかりません。天皇家の人たちが考えることを我々は尊重するべきでは。 久能:普通のご家庭なら、後継者を誰にするかは、家族の中で考えます。皇室の方々の場合は一切意見を言えないということ自体はおかしいと思いますし、せめて皇室会議の中でご意見を聴くことが必要だと思います。 山下:いずれにせよ、何らかのかたちでお気持ちをお出しにならないと、まとまらない気がしています。上皇陛下のご退位で、前例ができました。16年8月のお気持ちの表明は、事前に内閣と詰めてお出しになったものです。ストレートな言い方ではありませんでしたが、ご退位を考えておられることがありありと感じられた。何らかの方法でお気持ちを表明されて、国民が共感するという形が望ましいのではと思います。 (構成/編集部・小田健司) ※AERA 2019年5月20日号より抜粋
皇室
AERA 2019/05/15 08:00
モデルのイケメン王子に、親子2代で五輪に参加した国王も… 個性的な世界の国王・王族
モデルのイケメン王子に、親子2代で五輪に参加した国王も… 個性的な世界の国王・王族
2011年に結婚したブータンのワンチュク国王夫妻 (c)朝日新聞社  平成時代から令和時代への転換期に、小中学生向けのニュース月刊誌「ジュニアエラ」2019年5月号では「天皇と日本の歴史」を大特集。世界の国王や王族について調べてみた。 *  *  * ■国の“顔”として活躍  現在の世界で、日本の天皇のように親から子へと代々受け継がれる君主がいて、その一族を含めた王室・皇室を持つ国は28カ国ある。  このうち、君主が自分の思いのままに政治を動かせる絶対君主制に近い国は、ブルネイ、エスワティニ、バーレーン、カタール、サウジアラビア、オマーン、アラブ首長国連邦くらいだ。それ以外の国は、日本と同じく君主の力は憲法で制限され、政治は議会や政府によって行われる。そんな中で、各国の国王や王族たちは、日本の天皇と同じように、国の“顔”としてさまざまな活動を行い、国民から慕われている。 <絶対君主制> 君主が絶対的な権力を持ち、憲法などでその権力が制限されない統治形態。 【イギリス】 <92歳の女王陛下も「インスタ」投稿!>  イギリス王室は、国民の声に耳を傾けて、時代や状況に応じて柔軟に変化している。王室の公式ツイッターやフェイスブックを設けて、女王や王室の日々を積極的に発信。今年3月には、92歳のエリザベス女王がインスタグラムに初投稿して話題になった。 ※カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどは、以前、イギリスの植民地で、独立後も独自の国王を立てず、イギリス国王を自国の王としている。こうした国をイギリス連邦王国といい、カナダなど、硬貨にイギリスの女王・エリザベス2世の肖像が描かれている国もある。 【ノルウェー】 <国王親子2代、ヨットで五輪出場> ノルウェー国王は親子2代でヨットの五輪選手。現国王のハラルド5世は皇太子時代、1964年の東京五輪にも出場し、開会式ではノルウェー選手団の旗手(左上の写真)も務めた。父のオラフ5世(91年死去)は28年のアムステルダム五輪(オランダ)の金メダリストだ。 【デンマーク】 <モデルもこなすイケメン王子> デンマークの女王マルグレーテ2世の孫、ニコライ王子は「イケメン王子」として知られ、高校卒業後にモデルとしてデビュー。昨年11月には東京で開かれたファッションショーにも登場して注目を集めた。 【ヨルダン】 <アラブ社会の弱者のために> ヨルダンのラニア王妃は元銀行員。男性優位の風潮が強いアラブ社会で、虐げられてきた女性の教育や、児童虐待防止の取り組みに力を尽くしてきた。2009年に立ち上げられた国連女子教育イニシアチブの初代議長に就任している。 【トンガ】 <日本との親交厚い南の島の国王>  トンガの先々代国王・ツポウ4世は大の親日家。若者たちが来日して大相撲の力士やラグビー選手となり、トンガの教育にそろばんが導入された。両国の関係はツポウ6世の時代となった今も深く、トンガ出身の選手が何人もラグビー日本代表に選ばれ、トンガの小学校ではそろばんが必修だ。 【ブータン】 <国民に愛される「幸せの国」の国王> ブータンは長く絶対君主制だったが、先代国王が「国民総幸福(GNH)」という独自のものさしを掲げて公平さや環境に配慮した成長を目指し、国民に支持されてきた。2006年に26歳で即位したワンチュク国王は父の志を受け継いで立憲君主制への移行を進め、08年には初の総選挙を実施。「幸せの国」の新時代の顔として尽力している。 ※月刊ジュニアエラ 2019年5月号より
ジュニアエラ朝日新聞出版の本皇室読書
AERA with Kids+ 2019/05/13 11:30
「かわいすぎるプリンセス」といえば…令和時代の女性皇族を紹介
永井貴子 永井貴子 鮎川哲也 鮎川哲也
「かわいすぎるプリンセス」といえば…令和時代の女性皇族を紹介
2019年1月、「新年祝賀の儀」に参列する女性皇族。左から雅子さま、紀子さま、眞子さま、佳子さま、信子さま、彬子さま、瑶子さま、久子さま、承子さま (c)朝日新聞社  頭上で輝くティアラと首飾り、そしてロングドレスと勲章。明治の時代に英国王室の国際儀礼(プロトコル)を取り入れて以来の、皇室における女性の正装である。令和の皇室で活躍する“プリンセス”を紹介する。 ■雅子さま 米ハーバード大卒業、外交官からプリンセス、そして皇后としての人生を歩み始めた雅子さま。英仏語は母国語レベルと言われる。ダイヤと真珠が煌(きら)めくティアラの重さはゆうに1キロを超す。知性と気品、華やかさを備えた雅子新皇后が誕生した。 2016年10月、ベルギーのフィリップ国王夫妻を歓迎する宮中晩餐会に臨む雅子さま (c)朝日新聞社 ■愛子さま 「偏差値72のプリンセス」とも言われ、平和をテーマにした作文の秀逸さも話題に。女子校の水が合うのか、おなかを抱えて友だちと笑い転げる、素顔は「普通の女の子」。高校最終学年で、海外の大学への進学説も流れる。 2016年7月、神武天皇山陵(奈良県橿原市)へ向かう愛子さま。淡いブルーのワンピースが涼しげ。近鉄橿原神宮前駅で (c)朝日新聞社 ■紀子さま 学習院大学教授の娘で、質素を旨とする実家の方針から、親しみをこめて「3LDKのプリンセス」と呼ばれた。秋篠宮さまの妻として、2人の娘の母として、そして将来の天皇となる悠仁さまの母として、帝王教育に力をそそぐ。 2017年4月、赤坂御苑で開催された春の園遊会での紀子さま。やわらかな空色の着物が春のさわやかな日を感じさせてくれる(左)(撮影/写真部・松永卓也)/2018年1月、「新年祝賀の儀」を終え、退出する紀子さま。皇居・宮殿「松の間」で  (c)朝日新聞社 2018年12月、平成の天皇誕生日の一般参賀に訪れた人たちに手を振る眞子さまと佳子さま。見つめ合う姿が仲のよさを物語る (c)朝日新聞社 ■眞子さま 佳子さま 「かわいすぎるプリンセス」として若い世代から絶大な人気を集める秋篠宮家の姉妹。婚約延期中の眞子さまを応援する、妹の佳子さまの姉妹愛が話題となったばかり。佳子さまは、いまも熱心にダンスのレッスンに通う。 2017年6月、ブータンを訪問し「ブータン花の博覧会」を視察する眞子さま。吉祥を表す雲の図柄の着物があでやか(左)/2018年1月、「新年祝賀の儀」での眞子さま。ティアラは和光が手掛けた (c)朝日新聞社 2014年12月。20歳の誕生日を迎え、宮殿で成年の行事に臨む。ティアラなど宝飾品5点の製作費は2800万円と言われる(左)/2019年2月、平成の天皇陛下即位30年を祝う宮中茶会で歓談する佳子さま (c)朝日新聞社 (文/本誌・永井貴子、鮎川哲也) ※週刊朝日  2019年5月17日号
佳子さま皇室
週刊朝日 2019/05/13 08:00
M!LKがツアーファイナルで「大好きだよ」、新SG&Zeppツアー発表
M!LKがツアーファイナルで「大好きだよ」、新SG&Zeppツアー発表
M!LKがツアーファイナルで「大好きだよ」、新SG&Zeppツアー発表 昨年8月に新メンバー3人を迎えて7人組となったボーカル&ダンスユニット・M!LKが、新体制となって初の全国ツアー【M!LK SPRING TOUR 2019“Treasure Treasure”】を開催。その最終公演を5月12日に東京・昭和女子大学人見記念講堂で行った。 M!LK その他ライブ画像  平成から令和へと時代を跨いで全国5都市を回った本ツアーは、2月に発売された2ndアルバム『Time Capsule』をフィーチャーしながら、過剰な演出もなく純粋に楽曲を披露するシンプルな構成で、平均年齢17.8歳の男子らしい等身大の姿を提示。そこにパフォーマーとしての確かな進化と、アルバム1枚を通して訴えた未来に対する覚悟のメッセージを伝えた上に、ニューシングルのリリース&ツアーも発表して、集まった2000人のみ!るきーず(M!LKファンの呼称)と共に希望に満ちた新時代の幕開けを飾ってみせた。 令和初のステージとなった東京公演2デイズの2日目。ステージを彩るカラフルなフラッグガーランドの下、メンバーカラーに瞬く7つのカプセルに映像上の7人が吸い込まれると、代わりにそれぞれのイメージカラーのラメジャケットをまとったメンバーがカプセル上に現れる。思わず背筋が伸びるような堂々たる登場シーンから始まったのは、新体制となっての1stシングル「Over The Storm」。板垣瑞生の“OK!”の号令も勇ましく、新たなスタートへの決意を刻んだ楽曲をしっかりと歌い上げ、ツアーファイナルを力強く幕開ける。さらに「ツアーファイナル、盛り上がっていくぞ!」という曽野舜太の号令で7人が一斉にステージへとジャンプして、フレッシュかつ万人の胸を打つ応援歌「Feel Alive」へとつなげば、客席は揺れる7色のペンライトでいっぱいに。続いて「春ツアーに合わせてこの曲を選びました。僕たちも大好きな曲です」と塩崎太智が伝えての「桜咲く頃には」では、7人で肩を組み、宮世琉弥も「今日は僕たちとみ!るきーずの皆さんで楽しい想いでたくさん作りましょう!」と客席に呼びかける。勢い任せではなく、爽やかなナンバーを並べたオープニングは、新しい道のりを誰1人置いていくことなく、み!るきーずと共に歩いてゆこうという彼らの気持ちの表れのようだ。  実際、新体制となって以降の彼らの進歩は目覚ましく、おなじみの楽曲もさらなるバージョンアップを果たして、佐野勇斗が「この曲は僕たち7人の未来への想いが詰まっています」と告げた「Brave Saga」は持ち前の躍動感が一段とアップ。人気シングル「テルネロファイター」も、7人の情熱的なパフォーマンスにより“可愛い”から“カッコいい”へと生まれ変わって、歌詞の通り“どでかい牛になる”という夢を着実に叶えつつあることをうかがわせる。密林を進む映像に続き、回転したカプセルの中から7人が現れての「ジャングリズム」では、ソロダンスチャレンジ”なる新コーナーが盛り込まれ、リーダーの吉田仁人が黒のハットでセクシーに迫ったり、曽野はエアサッカーをしたりと、それぞれに個性的なソロダンスを展開。野生動物の鳴き声を模したコール&レスポンスが特徴の飛び道具曲を、タフなダンスチューンへと見事に変えてみせる。 さらに、野心をアグレッシヴに叩きつけるユーロビートで宙返る塩崎を筆頭に、アクロバティックに魅せる「上昇思考クライマー」から一転、和気あいあいと笑顔でじゃれ合った「ハロー!」後のMCでは、M!LKの持ち味であるフレンドリーな人懐っこさを存分にアピール。6月に発売される新体制初の写真集を撮影した香港での思い出話に花が咲き、山中柔太朗が同室だった板垣の面倒を甲斐甲斐しく見ていた等の秘話を公開する。“Treasure Post”なるコーナーでは、来場したみ!るきーずたちからの質問に一人ひとり答え、「麺は好きですか?」という質問に宮世が「みんなが好きな麺は? イケメンだろうが!」とボケる場面も(笑)。肩の力の抜けたラフなトークで客席を和ませてくれるのもM!LKライブの楽しいところだ。  また、人見記念講堂という都内でも屈指の音響の良さを誇る会場で、特に際立ったのが歌唱力の向上。「ちょっと照れくさいような恥ずかしいような、男子の恋愛の曲です」と吉田が曲紹介した「交差点、信号、君と僕」では、ステージ前方のお立ち台に腰掛け、失った恋へのピュアな想いをノスタルジックな曲調に乗せて歌い上げる。また、「It’s only LOVE」では一歩踏み込んだ大人の恋愛をモチーフに、切ない世界観をドラマティックに描出。高い天井に7人の純度の高い歌声と、美しいハーモニーが清らかに響きわたった。俳優としても幅広く活躍する彼らだけに、歌に注力したラブソングで豊かな表現力が発揮されるのは納得だが、そんな楽曲がアルバムに収録されているということ自体、彼らの成長を現在進行形で感じさせてくれる。 そして後半戦は、み!るきーずたちのコールが会場を揺らすアッパーチューンをメドレーで畳みかけて、エネルギッシュに幕開け。まず、M!LKの代表曲でありデビュー曲「コーヒーが飲めません」で、佐野のハンドスプリングによる跳躍が客席を沸かせると、それぞれにお立ち台からタオルを振る「サンキュー!N・D・K!」でハイテンションに盛り上げ、3rdシングルの「新学期アラカルト」へ。リリースから3年を経た常連曲だけに、み!るきーずたちとのコール&レスポンスも息ピッタリで、その掛け声の大きさは鼓膜を突き破らんばかりだ。さらに「めちゃモル」では曲中の自己紹介にアレンジを加えて、“変幻自在に変わりまぅす!”というキメ台詞を体現。しかし、中高生のリアルな学校生活から彼女との将来を考える大人の恋愛楽曲まで、驚異的な振り幅で歌いこなすM!LKという存在自体が、まさしく変幻自在なのである。アッパーかつエネルギー消費の半端ないナンバーを新旧織り交ぜたメドレーに、7人は「このメドレーすごいね!」と漏らしながらも、その顔には充実感が。吉田から「みんなの中で好きなMVは?」というお題が出されると、メンバーそれぞれ曲名を挙げて思い出を語り、「約束」の撮影では塩崎が熱演のあまり自転車で転倒した等の裏話も披露された。 そして「僕たちの将来の目標だったり、願いだったり、僕たちとみ!るきーずの未来を綴った曲です。僕たちからのメッセージです」と山中が前置いて、贈られたのは「Around The World」。ミラーボールの眩い光の中、場内からのクラップを受けて放たれるたくましい歌声とコーラスは壮大な響きを為して、この先もみ!るきーずと共に歩いていくことを約束する。最後は「Goin’Down」で“君”への愛をスタイリッシュなダンスと爽快なボーカルで誓い、再びカプセルの中へと7人は消えていった。ここでの“君”がみ!るきーずの1人ひとりを指すことに疑いの余地はない。 そんな彼らを M!LK というグループ名にちなみ、アンコールならぬ“もう一杯!”コールでみ!るきーずたちが再び呼び寄せると、7月17日にシングル「かすかに、君だった。」をリリースすること。さらに、それを引っ提げて7月にリリースツアー&9月に大阪、福岡、東京、愛知を回るZeppツアーを行うことが告知されて、客席からは歓喜の声が湧き上がる。今までのM!LKには無かったセンシティブなムードのタイトルを冠した新曲が、果たしてどんなものになるのか? さまざまに想像を膨らませて心待ちにしたい。パフォーマンス面での著しい向上が目立った本ツアーだったが、その源にあったのは心の成長であったことを実感したのは、続いてツアーの感想をそれぞれに述べたMC。「7人の団結力というものが進化した」(塩崎)、「い ろんな変化があって苦しい想いをした人もいただろうけど、そんな人たちからも“7人になって良かったな”っていう気持ちを感じられて今後が楽しみになった」(板垣)と、結成時からのメンバーは“楽しさ”を追求していた以前では考えられないほど真剣なグループへの想いを表明。また、新メンバーも「僕たちの決意が伝わればいいなと思います」(宮世)、「初めてのツアーで不安のほうが多くて。だけど4人が支えてくれて、3人で支え合ってここまで来ました。素敵なツアーでした」(山中)と、このツアーに賭けていた覚悟の大きさを吐露する。中でも曽野は“Treasure=宝物”をテーマにしたアルバムとツアーに想いを馳せ、「ここまでの積み重ねが宝物やったんやないかなって。最初は会議でも意見を言えなくて、一歩引いて見てる部分があったんですけど、今はメンバーとして意見を言ってぶつかれる。ここまで過ごした時間が宝物でした」と優しい笑顔で言い切って、メンバーの涙腺をゆるませた。そんな彼らにリーダーの吉田は「僕、最年長じゃないんだけど、みんなが可愛くてしょうがない! みんなの中にM!LK愛というものがあるのが嬉しいし、僕も自分の中のM!LK愛を再確認させられた。もっと成長をしたいし、大きな景色を見たい」と感激。メンバー加入という、ある意味での試練を乗り越えたぶんだけ、今のM!LKは強いのだ。 そして始まったのは、アルバムのリード曲であり、ここまでの彼らの葛藤と未来への希望を描いた「My Treasure」。本編ラストのMCで「M!LKって僕ら自身の成長期を追ってるから、毎回“好き”が更新されていくんです」と吉田が挙げていた彼自身のベストソングだが、その言葉通りポップな中にも熱い決意を感じさせて、大きな感動を場内に呼ぶ。しかし、ここで大団円とはいかないのがM!LK。「最後の曲はアルバムのトリを飾るアノ曲です!」とライブを締めくくったのは「愛と合図」で、メンバー同士ハグしたり、頭をなでたり、おんぶしたり。可愛らしい仕草とユルいムードで、曲のストーリーに対するさまざまな想像を掻き立てる。曲中では「み!るきーずのみんな、いつも支えてくれて本当にありがとう」という佐野の台詞から、全員で「大好きだよ」と感謝を表明。 7月のニューシングル、そしてリーダーいわく「今までに見せてこなかった、最近見せてなかった特別なM!LKを見せたい。“リフレッシュですから!”」という9月のツアー【“Summer Re:fresh”~かすかに、君だった。~】では、また我々の知らなかったM!LKが目撃できるに違いない。 photo by 笹森健一、小坂茂雄 text by 清水素子 <セットリスト> 01.Over The Storm 02.Feel Alive 03.桜咲く頃には 4.Brave Saga 05.テルネロファイター 06.ジャングリズム 07.上昇思考クライマー 08.ハロー 09.交差点、信号、君と僕 10.It’s only LOVE 11.コーヒーが飲めません 12.サンキュー!N・D・K! 13.新学期アラカルト 14.めちゃモル 15.Around The World 16.Goin’Down アンコール 01.My Treasure 02.愛と合図
billboardnews 2019/05/13 00:00
雅子さまの苦悩と新しい皇后像 カギは「共通一次」と「均等法」
矢部万紀子 矢部万紀子
雅子さまの苦悩と新しい皇后像 カギは「共通一次」と「均等法」
2月8日、青少年読書感想文全国コンクール表彰式に出席した雅子さま (c)朝日新聞社 紀子さまと悠仁さま (c)朝日新聞社  皇后雅子さまがお生まれになったのは、前回の東京五輪開催の1年前。上皇后美智子さまは、その29年前にお生まれになっている。29年の間に、日本は大きく変わった。「世代」というものからお二人、そして皇室についてコラムニストの矢部万紀子氏が考える。 *  *  *  皇后雅子さまが、17年ぶりに「青少年読書感想文全国コンクール表彰式」に出席されたのは、2月8日のことだった。  茜色のスーツに同系色の帽子。天皇陛下と並んで、前、右、左とお辞儀をされた。着席の直前、陛下は雅子さまをご覧になり、「座りましょう」と言うかのように目を合わせ、それからお二人は腰を下ろした。 「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」  昭和に生まれた日本人なら誰もが知っている、あまりにも有名な陛下のプロポーズの言葉。あの日から陛下は、ずっと変わらぬ愛情で雅子さまに接している。そのことがヒシヒシと伝わってきた。  雅子さまはお代替わりが決まって以来、初めての公務、○○年ぶりという公務を次々にこなされてきた。  昨年5月13日には、初めて皇居の紅葉山御養蚕所へ行かれた。陛下と愛子さまもご一緒だった。養蚕は昭憲皇太后以来、代々皇后が受け継いでいる仕事で、雅子さまは上皇さま立ち会いのもと、上皇后美智子さまから作業の説明を受けた。  その3日後には、15年ぶりに日本赤十字社の全国大会へ。11月には平成最後となる園遊会に着物姿で出席された。最後までのご出席は、やはり15年ぶりだった。年が明けて1月1日の「新年祝賀の儀」には、16年ぶりに出席された。  雅子さまのこの歩みを精神科医の香山リカさんは著書『皇室女子』(秀和システム刊)の中で、「自ら作った工程表に基づいて、日々の努力を重ねて」いると表現した。その上で、「『努力』というのは、雅子さまを理解する上でもっとも大切な言葉のひとつ」と書いている。  香山さんに会いにいくと、「努力せずにはいられない世代」の話になった。それはピンポイントで1960年から70年生まれの女性で、常に自分を高めたいという思いの強い「自己実現派」であるという。  雅子さまは63年生まれで、ズバリその世代に属する。受験、就職と目標を作り、見事にクリアしてきた雅子さまにとって、皇室はその循環がうまくできない世界だった。  だが代替わりの日にちが5月1日と決まった時点で目標が定まり、雅子さまは努力の工程表を作り、クリアしていった。昔取った杵柄だから、最近の雅子さまの目には力が感じられると香山さん。  この世代の背景として香山さんは「共通1次試験」があると考えている。  79年から89年まで11年間、国公立大学受験のために実施された共通1次を香山さんは、「性別も住んでいる場所も関係ない、超平等のシンボル」と見ている。自身も60年生まれで、第1回の受験生でもあった。  昨年、医学部入試で続々と「女子差別」が明らかになった。受験も所詮、男女平等ではない。だが、当時は努力して結果を出せば、男女平等だと信じられたし、合否を分けるのは点数だから、合理的な世界だと思えた。だから「共通1次世代」は頑張ることが好きだ。そう香山さんは言う。  アメリカの高校からハーバード大学に進んだ雅子さまは、共通1次試験は受けていない。だが人並み以上に努力をして、結果を出してきた方だから、皇室でも実力を正当に評価されたかったはずだ。ところが期待された出産は努力だけではどうにもならず、山のように待ち構える宮中祭祀は合理的説明から余りにも遠い。  香山さんは雅子さまを「努力でどうにもならないことには、どうして立ち向かえばいいかわからないタイプ」と分析している。皇室で苦しまれるのは、当然のことだったかもしれない。  実は私も香山さんと同学年。共通1次の1回目を受けた。だから「男女平等」を信じたという香山さんの解説はよくわかる。  そんな私だが、皇太子さま(当時)の「人格否定発言」を聞いた時、とても驚いた。雅子さまは03年12月から公務を休まれた。結婚から10年経っていた。 「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」  この記者会見が、04年5月。その2カ月後に雅子さまの病名が「適応障害」と発表された。  当時「週刊朝日」副編集長だった私は、この会見以来毎週のように皇室記事を担当した。だが雅子さまがなぜそこまで追い詰められたのか、なかなか理解することができなかった。  ただ一つだけ、思い当たることがあった。それは、雅子さまが「男女雇用機会均等法(均等法)第1世代」ということだった。  この法律が施行されたのが86年4月1日。女性だという理由で雇用の機会から締め出すことは、法律上できなくなった。罰則規定がないなど問題点は多々あったが、この法律で女性の社会進出がグッと進んだことは間違いない。そして86年から90年の5年間に「総合職」として入社した女性は「均等法第1世代」と呼ばれている。  先ほども書いたが、私は共通1次1期生だ。だが、就職したのはこの法律施行の3年前。自分と比較することで、均等法第1世代の特徴がよく見えた。その結果、私は彼女らを「約束と違う世代」と名付けるに至った。  少し説明するなら、会社というものは基本「男性ファースト」だ。均等法以前に入社した私などは、「ま、そんなもんだろうな」と受け入れていた。だが、彼女らは違った。均等だったのは雇用機会だけという現実に、「約束と違う」と憤っていた。彼女らを目の当たりにし、真剣さに打たれた。  雅子さまがハーバード、東大を経て外務省に入省したのが87年。まさに均等法第1世代だ。外務省時代にオックスフォードに留学した雅子さま。「お后候補」として追いかけてきたメディアに対し、「外務省の省員として、ずっと仕事を続けていくつもりです」と答えた。働くことに張り切っていたのが、均等法第1世代だ。それでも陛下は雅子さまへの愛を諦めず、雅子さまも受け入れた。  93年1月、皇室会議で婚約が決まった直後の記者会見では、「いろいろと考えた結果、今私の果たすべき役割というのは殿下のお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることなのではないか、と考えましたので、決心したわけですから」外務省を辞めることに悔いはない、と答えた。  この34年前、皇太子さま(当時)との婚約が整った美智子さまも、皇室に入ることへの思いを宮内記者会に問われ、文書でこう答えている。 「よい家庭がつくれて、それが殿下のご責任とご義務をお果しになるときのなにかのお心の支えになり、間接的な、ちいさなお手伝いとしてお役に立てばと心から望み努力をしたいと思っております」  まさに「嫁ぐ」にあたっての心境で、1934年=昭和一桁生まれの美智子さまにすれば当たり前のことだったろう。一方雅子さまの「皇室という新しい道で自分を役立てる」という言葉は「転職」の決意で、それは均等法第1世代にすれば当たり前なのだと思う。  しかし雅子さまを待っていたのは、働くよりお世継ぎという世界だった。それを端的に語ったのは、皇室医務主管を務めた金澤一郎さんだ。退官直後のインタビューでこう証言している。 「ご成婚前に、いわゆる『皇室外交』もできるからと説得をお受けになったようですね。ただ、皇室に入られてから、想像されていたことと違うことがさまざまおありだったと思うのです。皇室では、外国の王室も同様ですが、まずは『お世継ぎ』を期待されます。しかし、初めの六年半はお子さまに恵まれなかった」(「文藝春秋」12年8月号) 「皇室外交できますよ」と言われて皇室に入った雅子さま。「約束と違う」と思っただろう。「そういうものだろうな」とは思えない均等法第1世代ゆえ、雅子さまは皇室の現実に苦しまれたに違いない。  同時に、お世継ぎ問題さえクリアすれば、雅子さまはオールハッピーになっていたのか、という疑問もわいてくる。  冒頭に紹介した「青少年読書感想文全国コンクール表彰式」に話を戻そう。  表彰式後、お二人は受賞した子どもたちと懇談した。すぐに雅子さまは膝を曲げ、受賞した少女と同じ目の高さになった。次いで、陛下も同じ目の高さに。笑顔の雅子さま。  こういう式への出席に、雅子さまは葛藤されたのではないかと想像する。読書感想文が問題なのではない。壇上で夫である方の横に座る。そういうことが雅子さまにとって、「自分らしい仕事」と感じられるかという問題だ。  雅子さまの病名が発表された頃から、メンタルの不調で職場を休む人が増えてきたと感じている人は多いはずだ。それを精神科医の斎藤環さんは、「生存のうつ」「実存のうつ」という言葉で解説している。前者が従来型、後者が新型のうつで、60年代生まれの人の職場のメンタルヘルス問題はほとんどが後者だという。  従来型はまじめな人が生き延びようと、頑張りすぎてつぶれる「生存のうつ」。新型は生きていけるのが当たり前、むしろ飽食の世の中で、自分が生きる意味を見失ったときに苦しみが始まる「実存のうつ」。  斎藤さんは雅子さまも「新型のうつ」に近い状態だと判断し、「皇室のなかで生きる意味を見失ってしまったのではないか」ととらえていた。 「皇室」を「職場」に置き換えれば、生きる意味を見失うという現実は、他人事とは思えない。だが、こと雅子さまに関してはそのような共感はあまり広まらず、「なまけている」といった批判が絶えなかった。  美智子さまが、あまりにも完璧だったことが一番大きいと思う。  皇太子妃として求められることを、百点満点以上の出来栄えでこなしてきた美智子さま。だから皇太子妃になる人は、そのようにできて当然。美智子さまという人を見ているうちに、国民も宮内庁関係者も、みんながそう思ってしまった。 『美智子さまという奇跡』(幻冬舎新書)を上梓した縁で最近、斎藤環さんと対談をした。印象的だったのが、美智子さまの疎開体験についての解説だった。  美智子さまは鵠沼海岸、次いで館林と疎開し、終戦は軽井沢で迎えた。原宿駅一帯を焼け野原にした45年5月の大空襲で、叔父を亡くしている。  斎藤さんは、「戦争を知らない世代には生存の危機はリアルでない。だから実存がなければ生きられない。その点、疎開体験とは生存の危機だから、それを経験したことが『覚悟』につながったのではないか」と語っていた。  雅子さまと美智子さまの皇室に入って以降の差が、「実存」と「生存」の違いとはっきりわかった。  世代論に話を戻すと、66年生まれの皇嗣妃紀子さまも「共通1次世代」であり、「均等法第1世代」でもある。といっても紀子さまは内部進学で学習院に進み、大学卒業の年の9月に婚約している。  婚約時から紀子さまは、皇室に嫁ぐために生まれてきた人のように見えた。「学習院」という場所で皇室との親和性を高めたのだと思う。外国育ちの紀子さまだが、13歳で帰国し学習院女子中等科に編入して以来、ずっと学習院で学んだ。父は学習院大学の教授で、紀子さまは「学習院第五共同住宅」で暮らしていた。  紀子さまは06年、悠仁さまを出産された。以来、紀子さまを巡るバッシングが増えている。皇室にあって次世代で唯一の男子の母となった紀子さまへ、雅子さまから矛先が移ったようだ。  皇室に嫁いだ女性たちは、令和の時代になってもその不自由さから逃れられないのだろうか。  そうではないはずだ。  雅子さまの「適応障害」は完治したわけではない。昨年12月に発表された「東宮職医師団見解」も「依然体調に波があり、過剰な期待はかえって逆効果になる」としている。  それは取りも直さず、「皇室の中で生きる意味」に悩まれ、今も回復の途上である方が皇后として活動されるということになる。 「生きる意味」に悩む人が大勢いる時代だから、そのこと自体、多くの国民の琴線に触れるはずだ。  陛下と共に、ありのままに活動される。そのことで励まされる国民が大勢いる。  それこそが雅子さまが築いていく、新しい皇后像ではないだろうか。 ※週刊朝日  2019年5月17日号
皇室
週刊朝日 2019/05/10 16:00
雅子さまへの共感「均等法第一世代」が抱き続ける深い理由
矢部万紀子 矢部万紀子
雅子さまへの共感「均等法第一世代」が抱き続ける深い理由
2018年11月、日本PTA全国協議会の式典に出席した雅子さま。12月の55歳の誕生日には、「国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽を積みながら努めてまいりたい」と文書につづった (c)朝日新聞社  皇后雅子さまへの思いを、アエラは報じ続けてきた。「出来上がった秩序」の中で苦しむ姿に、自分たちを重ねてきたからだ。同世代だからこそ感じる共感は、これからも──。 *  *  * 「“同期” 雅子さまへ、私たちが言えること」  そんな見出しの記事がアエラに載ったのは今からちょうど10年前の2009年だった。  1986年4月、「男女雇用機会均等法(均等法)」が施行された。雅子さまが外務省に入省したのは翌87年。その年に社会に出た「同期」女性が、雅子さまについて語る。そういう記事だった。  脇に「出来上がった秩序に入っていったからこそ」という見出しも立っていた。  86年から90年に「総合職」として就職した女性を「均等法第一世代」と表現することが多い。その世代を特集する号だった。  彼女らの入っていった世界に待っていたのは、どんな「秩序」だったのか。金融機関で働いているという女性は、こう表現している。 「均等法が施行されたといっても、『男女平等と聞いていたのに、入社したら違った』という話は周りにあふれていた」  そして「雅子さまは、お世継ぎだけに成果が集約されすぎているように見える」と続け、「聞いていたことと違うじゃないの、という気持ちだったかもしれません」と推察している。  個人的な話で恐縮だが、私は均等法施行の3年前に入社している。だから会社が「男性ファースト」であることを、ある種の諦めと共に受け入れていた。ま、そんなもんだろう、と。だがほんの少し後輩の均等法第一世代の女子たちは、そうではなかった。「約束と違う」ととらえ、苦しみ、きちんと怒っていた。  だからこの記事の狙いはよくわかる。彼女らと同じく、雅子さまにも「出来上がった秩序」が待っていた。それが「お世継ぎファースト」の皇室。立場は違えど同じ苦しみを味わうものとして、雅子さまへの共感を書いていく。  93年1月、皇太子さま(当時)との婚約が正式決定した直後、小和田雅子さんはこう語った。 「今私の果たすべき役割というのは殿下のお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることではないか、と考えましたので、決心したわけですから」、外務省を辞めたことに悔いはない、と。  だが「新しい道」が見えてくる前に、雅子さまは「適応障害」という病を得てしまった。ご成婚から10年後の03年末から公務を休み、病名が発表されたのは翌年の7月だった。  出来上がった秩序の中で働いてきた均等法第一世代の女性たちも、アラフォーになった。結婚、出産とライフステージが変化する時も、なぜか女性にばかり悩みが押し寄せてきた。だから彼女らは雅子さまの苦しみを、「我が事」ととらえ続けた。  88年創刊のアエラも、世に出た時代で言うならば、均等法第一世代ということになる。他誌に先駆けて彼女たちに注目し、出来上がった秩序の中で苦しみ、怒る彼女らのことを報じた。当事者のみならず、彼女たちについて知りたい「秩序」側もアエラに注目した。  冒頭の記事に戻るなら、金融機関に勤める女性は、皇室が今のままでいいのかという議論のきっかけとなったから、「雅子さまの存在こそが最大の成果」と言い、こう続けた。 「現時点の評価ではなく、長い時間軸の中での存在意義を考えればいいのではないでしょうか」 (コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2019年5月13日号より抜粋
皇室
AERA 2019/05/08 07:00
新紙幣の偉人“ゆかりの地”に行ってみよう!~津田梅子編~
新紙幣の偉人“ゆかりの地”に行ってみよう!~津田梅子編~
津田梅子は1864(元治元)年12月、西洋農学者・津田仙の次女として現在の新宿区南町に生まれました。満6歳の時に岩倉遣米欧使節団に随行してアメリカに留学、18歳で帰国すると華族女学校や女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で教鞭をとり、2度目のアメリカ留学を経て1900(明治33)年、36歳の時に「女子英学塾(現・津田塾大学)」を設立したのです。後年は、日本YWCAの初代会長を務めるなど教育事業家としても活躍しました。生涯、日本女子教育に心血を注いだ偉人「津田梅子」の“ゆかりの地”をご紹介します!新五千円札は“日本女子教育の先駆者”津田梅子 華族女学校遺蹟碑/東京都千代田区 1885(明治18)年に開校した華族女子の教育機関「華族女学校」で、津田梅子は教授として英語を教えていました。女学生たちの制服は洋装でしたがなかなか定着せず、袴が導入されたそう。袴にブーツというスタイルは、やがて全国の高等女学校に普及していきます。華族女学校はのちに女子学習院、学習院女子中高等科となり青山や新宿区戸山に移転しましたが、現在参議院議長公邸東門がある華族女学校跡地には遺蹟碑が立っています。また門柱に乗せられていた笠石は、現在学習院女子中高等科・大学の図書館前の木陰に置かれています。 華族女学校遺蹟碑 ■所在地 東京都千代田区永田町2-18-2 ■アクセス 【電車】東京メトロ「永田町」駅より徒歩1分 ■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは学校法人学習院オフィシャルサイトをご確認ください袴にブーツ姿の“はいからさん”は華族女学校の制服が始まりともいわれる 津田塾大学発祥の地/東京都千代田区 千代田区の開新堂ビル南側壁面に「津田塾大学発祥の地」の金属プレートがあります。1900(明治33)年、津田梅子はこの地に「女子英学塾」を開校しました。私立の女子高等教育機関の先駆けで、全国から集まった塾生10人でのスタートでした。それまで女子教育は行儀作法や花嫁修業のようなものでしたが、津田梅子は女性が社会で活躍するための実用的な教育を目指しました。1919(大正8)年に津田梅子が塾長を退いた後、女子英学塾は津田英学塾、津田塾大学となり、今に続いています。 津田塾大学発祥の地 ■所在地 東京都千代田区1-27 ■アクセス 【電車】東京メトロ「半蔵門」駅5番出口より徒歩3分 ■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは千代田区観光協会オフィシャルサイトをご確認ください今日の日本女性の自立や社会進出は、津田梅子のお陰かも・・・・・ 海菜寺(うなじ)/神奈川県鎌倉市 1919年(大正8)年、健康上の理由で女子英学塾塾長を辞任した津田梅子は、鎌倉の別荘に移り住み療養していましたが、1929(昭和4)年、脳出血のため64歳で亡くなりました。最期を過ごした別荘は、目の前に稲村ケ崎の海が広がり静かな波の音と湘南の風が心地よい住まいでした。激動の明治を生きた津田梅子も、この地で穏やかな日々を心安らかに過ごしたのでしょう。現在はレストラン「「海菜寺(うなじ)」となり、鎌倉野菜や葉山牛、腰越の地魚などを活かした料理で訪れる人をもてなしています。 海菜寺 ■所在地 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎3-7-11 ■アクセス 【電車】江ノ島電鉄「稲村ケ崎」駅より徒歩5分 ■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは海菜寺オフィシャルサイトをご確認ください稲村ケ崎——病気静養中だった津田梅子も、この景色に癒されたはず 津田梅子墓所/東京都小平市 1929年(昭和4)8月16日、日記に“Storm last night(昨夜、嵐)”と記したその日に津田梅子は亡くなりました。小平に女子英学塾新校舎が完成する2年前のことです。「できればこの地に眠りたい」と遺書にしたためていた津田梅子の遺志を継ぎ、小平の校地内に墓所が造られました。その許可を取り付けるには東京府(現東京都)との激しい折衝があったそう。現在の津田塾大学小平キャンパスの校舎から少し離れたグラウンドの奥、「Ume Tsuda」の墓碑銘が刻まれた石碑に、新五千円札の顔となる今後も多くの人が手を合わせるでしょう。 津田梅子墓所 ■所在地 東京都小平市津田町2-1-1津田塾大学小平キャンパス内 ■アクセス 【電車】西武国分寺線「鷹の台」駅より徒歩約8分 ■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは津田塾大学オフィシャルサイトをご確認ください今なお日本の女性リーダーを輩出している名門・津田塾大学
tenki.jp 2019/05/07 00:00
新紙幣で沸く津田塾、北里大に続くか 創設者名が付けられた大学たち
新紙幣で沸く津田塾、北里大に続くか 創設者名が付けられた大学たち
右から)新しいデザインの千円札、5千円札、1万円札のイメージ図(c)朝日新聞社  津田塾大、北里大の関係者は盛り上がっている。大学にゆかりのある津田梅子、北里柴三郎が、新紙幣の肖像画に描かれることになったからだ。  五千円札で描かれる津田は、1900(明治33)年、女子英学塾を開校している。1871(明治4)年、6歳でアメリカに渡り、17歳で帰国して女子の高等教育の発展に尽力した。  千円札に登場する北里は、1914(大正3)年に北里研究所を設立した。1962(昭和37)年、北里を「学祖と仰ぎ」、北里大が開学する。  いずれも大学の起源となる教育、研究機関の創設者名が、大学名に付けられた。ここには創設者に対する最大の敬意が払われている。  大学名に創設者の名が付されているところがいくつかある。紹介しよう(カッコ内は大学開学年、所在地)。  大妻女子大(1949年、東京)の起源は、明治時代までさかのぼる。1908(明治41)年、大妻コタカが24歳のときに開いた裁縫、手芸の私塾だ。その後、大正時代になって大妻技芸伝習所を設置する。現在の大妻女子大の伊藤正直学長は、2019年の入学式の式辞で創設者をこう説明している。 「コタカは、不況の中で苦しんでいる普通の家庭、何ら特別でない普通の女性が、社会の中できちんとした生活を営むにはどうしたらよいか、そして普通の女性が社会的に自立するとはどういうことか、そうしたことを考え続けて、大妻技芸学校の設立を決意したのです」  椙山女学園大(1949年、愛知)の歴史も古く、1世紀を超える。1905(明治38)年、椙山正弌(すぎやま・まさかず)、いま夫妻が開校した名古屋裁縫女学校を起源とする。椙山正弌は、東京裁縫女学校(現・東京家政大)で特別に校長の門下生として学び、教員免許を取得する。同校でのちに妻となる、いまと知り合い、夫婦で協力して学校づくりに力を入れた。大正時代に入ると椙山高等女学校に発展させ、戦後は新制大学スタートとともに四年制大学となった。  星薬科大(1950年、東京)の前身は、星製薬株式会社に設置した教育部門である。1911(明治44)年のことだ。のちに星製薬商業学校、星薬学専門学校となり、戦後は四年制大学として認可された。星製薬の創業者で大学初代理事長は、星一氏。作家、星新一氏の父にあたる。  杉野服飾大(1964年、東京)は、服飾家の杉野芳子が設立したドレスメーカー女学院が起源となっている。1926(大正15)年。大学のウェブサイトによれば、杉野は「自身が考案したドレメ式原型による服飾教育を展開しました。家庭洋裁の盛行の時代であった昭和30年代後半には、ドレメの卒業生により設立された系列校が全国で700校を超えるまでになりました」。2002年に杉野女子大から現校名に改称して男女共学となった。  跡見学園女子大(1965年、東京)は、私塾で書画や漢学を教えていた跡見花蹊(あとみ・かけい)によって設立された跡見学校を起源とする。1875(明治8)年のことだ。跡見学園の沿革には「日本人による初めての私立女子校として誕生」とある。  安田女子大(1966 年、広島)の歴史をさかのぼると、1915 (大正4)年開校の広島技芸女学校にたどり着く。設立者は安田リヨウ。「女性のために教育の場を」という熱い思いを抱いていた。戦争中は苦難の道を歩み、「学園は世界で最初の原子爆弾によって破壊され、安田五一初代理事長をはじめとして多くの犠牲者を出しましたが、惨禍に志を曲げることなく、残された教職員そして学生は自ら額に汗して、復興に取り組み、建学の理念を守り今にいたっています」(大学ウェブサイト)。  1970年代、医科大が相次いで開校するなか、創設者名を冠した大学が登場した。  川崎医科大(1970年、岡山)の創設者は、岡山市内で病院を経営していた川崎祐宣氏である。旧制岡山医科大学(現・岡山大医学部)出身の医師で、「真に医師といわれるにふさわしい臨床家を養成して世に送りだしたい」(川崎学園ウェブサイト)という思いから、医科大学をつくった。  藤田医科大(1968年、愛知)の起源は、看護師・臨床検査技師を養成する南愛知准看護学校である。1964(昭和39)年、名古屋帝国大医学部出身の医師、藤田啓介氏によって設立された。1966年、名古屋衛生技術短期大開学。そして、1968年に名古屋保健衛生大が開学し、1972年に医学部設置。1984年に藤田学園保健衛生大、1991年に藤田保健衛生大、2018年になって藤田医科大に改称した。  昭和後期から平成にかけて誕生した大学にも創設者名が付くケースは見られるが、その多くは、すでに短大、高校を運営しており、校名はよく知られていた。  川村学園女子大(1988年、千葉)の起源は大正時代にさかのぼる。現・川村正澄理事長はこう紹介している。「創立者川村文子は、関東大震災後の荒廃した社会をわが国の『非常』の時ととらえ、その解決のために女性の力(活躍)が不可欠であるという強い信念を持って、大正13年(1924年)に川村女学院を創設しました。以後、『感謝の心』を基盤に『女性の自覚』を育む一貫教育を施し、そこから『奉仕の精神』を実践できる女性を育成してまいりました」(川村学園ウェブサイト)  十文字学園女子大(1996年、埼玉)の事始めも大正時代。十文字ことら3人が設立した文華高等女学校である。1966年に十文字学園女子短期大が開学。大学の沿革にこう記されている。「十文字学園は、創立者である“十文字こと”の、『教育を受けたいと思う女性がひとりでも多く学べる私立学校をつくりたい』という強い願いのもと、1922(大正11)年に設立されました」(大学ウェブサイト)  21世紀に開学した大学にも、明治時代の教育者の名を冠したところがある。  嘉悦大(2001年、東京)の起源は私立女子商業学校である。1903(明治36)年に開校。創設者は嘉悦孝である。「日本で初めて女子を対象とした商業学校」(大学ウェブサイト)だった。その教育理念は、大正時代に日本女子商業学校、戦後は日本女子経済短期大へと引き継がれた。  植草学園大(2008年、千葉)のルーツ校も明治生まれだ。1904(明治37)年に植草竹子が現在の千葉市内に「千葉和洋裁縫女学校」を設立する。その後、1世紀以上の時を経て、四年制大学が開学した。  医療系、動物看護系専門学校が大学になったケースで、創設者が大学名となったところがあった。  了德寺大(2006年、千葉)は仏教系、地名と間違われることがある。実際、京都市内には真宗大谷派法輪山了徳寺があるが(こちらは「徳」の字)、まったく関係ない。医療関係の仕事に関わってきた了德寺健二氏によってつくられた大学である。了德寺氏は1948年生まれ。2000年に了德寺学園をつくり医療系専門学校を開校している。創設者名が付けられた大学で、唯一、創設者が存命のケースだ。  大阪河崎リハビリテーション大(2006年、大阪)のルーツ校も新しい。1997年設立の河崎医療技術専門学校である。創設者は大阪高等医学専門学校(現・大阪医科大)出身の医師、河崎茂氏だ。  大阪行岡医療大(2012年、大阪)の歴史は、昭和初期につくられた大阪接骨学校から始まる。大阪医科大(現・大阪大医学部)出身の行岡忠雄氏が、1933(昭和8)年に設立した学校だ。その後、日本医学技術学校、行岡リハビリテーション専門学校の開設などを経て、四年制大学を開校した。  亀田医療大(2012年、千葉)のルーツは、江戸時代末期の1830年ごろ、西洋医学を学んだ亀田自證が鴨川で開いた学問所「鉄蕉館」までさかのぼる。その後、1954(昭和29)年、亀田病院附属准看護師学校を開校して今日に至る。  ヤマザキ動物看護大(2010年、東京)の起源は、山崎良壽氏が1967(昭和42)年につくったシブヤ・スクール・オブ・ドッグ・グルーミングである。ヤマザキ動物看護短期大を経て、四年制大学として開学した。  創設者名が付けられたことで、名称変更を余儀なくされた大学もある。1997年、北海道女子大が開学した。ルーツは北海道ドレスメーカー学院である。2000年に北海道浅井学園大に、2005年には浅井学園大に名称変更した。創設者一族の名にちなんだものである。ところが、2006年、浅井幹夫理事長(当時)が背任などの容疑で逮捕されてしまう。まもなく大学経営陣が刷新され、2007年、浅井学園大は北翔大としてスタートすることとなった。「浅井」の名は校名にふさわしくない、ということである。  校名が創設者に関係している大学の歴史を探るとおもしろい。創設者の教育にかける思いが伝わってくる。その結果、これらの大学の出身者が科学技術の進歩、文化芸術の発展などで大きく貢献する。それが名門校の証しとなっていく。  そういえば、アメリカのハーバード大は、清教徒派の牧師ジョン・ハーバードの遺贈によって基礎が築かれた。スタンフォード大は大陸横断鉄道の一つセントラルパシフィック鉄道創立者のリーランド・スタンフォードが若くして亡くなった息子の名を残すために設立されている。  津田梅子、北里柴三郎に続く、お札の肖像画となる大学創設者が将来、現れるだろうか。その大学の社会貢献に関わってくることかもしれない。 <一部、敬称略> (文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)
dot. 2019/05/04 11:30
朝ドラ「まんぷく」の小川紗良 写真家・川島小鳥に「死ね、って目をして」と言われた?
朝ドラ「まんぷく」の小川紗良 写真家・川島小鳥に「死ね、って目をして」と言われた?
小川紗良(おがわ・さら)女優、映画監督。1996年、東京都生まれ。2016年本誌女子大生表紙モデル。今春、早稲田大学文化構想学部を卒業。NHK連続テレビ小説「まんぷく」で主人公の娘・立花幸を演じて幅広い世代の注目を浴びた。現在、読売テレビ・日本テレビ系「向かいのバズる家族」(木曜夜11時59分~0時54分)に出演中。 (撮影/門間新弥、スタイリング/山田梨乃、スカート¥14,000/BELLE、イヤリング¥7,000、リング¥20,000/共にBLOOM/GOODNESS 表参道、その他スタイリスト私物 ※すべて税抜き)     NHK朝の連続テレビ小説「まんぷく」で福子(安藤サクラ)と萬平(長谷川博己)の娘・立花幸を演じ、お茶の間に存在感を示した。  小川紗良が週刊朝日の恒例企画「女子大生表紙」を飾ったのは2016年夏。以来、すっかり女優らしくなった。黒いシースルーのブラウス、ブルーのネイル……。いま放送中の連ドラ「向かいのバズる家族」(読売テレビ系・日本テレビ系)で“イマドキ女子”を演じていることもあり、今回の取材では、表紙撮影時とはまったく印象の違う、華やかな姿で現れた。  ところが、その口から出てきたのは「研究」という、イマドキ女子に似つかわしくない言葉だった。 「インスタやTik Tok(ショートムービー配信コミュニティー)を使っている女の子って、自分とかけ離れているし、今までやってきた役ともまったく違う。これは研究しがいがあるぞ、と思いました。真っ先に行った場所がマルキュー(渋谷109)で、全部のフロアを見ながら、どんな子が来ているか、どんな曲が流れていて、どういう服が人気なのか、観察してメモしました。ふだん買わないようなギャル系の雑誌も購入して、イマドキ女子のメンタリティーを研究しました」 「あまりになじみのない世界で、自分の中に若干のアレルギー反応もありましたが、研究すればするほど共感できるようになりました。毎日毎日、『1ミリでもかわいくなろう、楽しく過ごそう』と一生懸命になっている様子や考え方がポジティブでいいなと思うようになりました。それに、主演の内田理央さんがすごくかわいらしい方で、本当のイマドキ女子なんですよ(笑)。コスメにも詳しいし、インスタもやっているし、考え方もポジティブで。いちばん身近なモデルだなと思い、撮影が始まってからは、実は内田さんを観察し、研究しています(笑)。しぐさとか、使っているものとか」  その「研究」で、どんな変化が何かあったのか。 「髪形とかアクセサリーとか、メイクさんや衣装さんと一緒に考えながら決めたり、自分で提案したりして楽しんでいます。私が演じるのは“自撮り女子”なので、私もそのメイクなどをSNSでも配信しようと思って、自撮りでカメラに収めています(笑)。写真アプリのフィルターも使ってみたりして。自分自身も、毎日髪形やネイルを変えたりするのがだんだん楽しくなってきました(笑)。プライベートでもマルキューに行って、いままで縁のなかったかわいい系の若めのブランドで服を買うようになりました」 小川紗良 (撮影/門間新弥、スタイリング/山田梨乃、スカート¥14,000/BELLE、イヤリング¥7,000、リング¥20,000/共にBLOOM/GOODNESS 表参道、その他スタイリスト私物 ※すべて税抜き)  「佐藤ノアちゃんっていうSNSで有名な子が、とてもかわいらしい、女の子っぽいカーディガンを着た写真をアップしていて、しかも、それを(欅坂46の)長濱ねるちゃんも着ていたというので、コレは買うしかない!と。同じものを色違いで買いました(笑)。日常でのおしゃれの観点も変わって、ポジティブになったと思います」  何もかもが学び――そんな姿勢がビシビシ伝わってくる。彼女は今春、早稲田大学国際学部を卒業した。22歳という若さで映画監督としての実績も持つ。今後は女優に軸足を置くのだろうか。 「監督も続けます。じっくり準備して撮りたいと思っています。肩書でいえば、エッセイや絵本の執筆もしていますし、ほかにも何かやるかもしれないし、あまり縛られずにやっていけたらいいなと」  そう、彼女の活動は多岐にわたる。 「『ちえりとチェリー』という映画を絵本化しようというプロジェクトがあって、文章を書かせていただきました。絵本には絵本ならではの仕組みや書き方があるので、それをまず勉強しました。映画やドラマは一方的にスクリーンから流れてくるものですけど、絵本の最大の特徴は、親が子どもに読み聞かせることだと思ったので、それを強く意識しながら書きました。ページをめくるのも本の大きな特徴なので、どうすればめくりたくなるか、めくったときにどこにどの言葉があると面白いか、配置まで考えたのが面白かったですね。結果的に、もともとの映画が持っているモチーフやストーリーを大切にしつつ、違うものにできたのではないかと思います。昔から絵本が好きだったので、やりがいがありました」  特に好きな絵本はあるかと尋ねると、リリー・フランキーさんの『おでんくん』だと即答。 「リリー・フランキーさんは、もちろん役者としても活躍されていますが、幅広くいろいろなことをなさっている。その生き方に強い憧れがあるので、自分も絵本を手がけられたことはうれしかったです」  自身も幼いころから何かを作って人を楽しませるのが好きだったという。 小川紗良 (撮影/門間新弥、スタイリング/山田梨乃、スカート¥14,000/BELLE、イヤリング¥7,000、リング¥20,000/共にBLOOM/GOODNESS 表参道、その他スタイリスト私物 ※すべて税抜き)  「それこそ、自分で絵本を書いたり、歌を作ったり、祖母の家でいとこたちと演劇を披露したり……。高校から映像を、大学から映画に取り組みましたが、今もたぶん、その延長線上にいるんだと思います。大学を卒業し、これからは、本当にレールのないところにいくんだなと実感しています」  その経歴のなかで、本誌の女子大生表紙モデルは少々異色だ。それまでモデルの仕事には興味を持ったことがなかったが、早稲田の先輩でもあり、独特の世界観を持つ写真家の川島小鳥さんが撮影すると知って応募したという。 「写真集『未来ちゃん』『BABY BABY』が好きです。小鳥さんは、どんなとき、どんな場所、どんなものでも、そのいちばんかわいらしいところを切り取る方だなと感じていました。それがどうやって生み出されているのかを知りたいと思っていたんです」  実際に撮影に臨んだ感想は? 「明るい夏の女子大生!みたいなイメージの表紙だと思っていたのに、こんなに鋭い目つきの写真が選ばれたのかと(笑)。斬新だなって思いましたし、自分にこんな一面があるのか、と驚きもしました。今でもふと、撮影中に小鳥さんに『死ね、って目をしてみて』と言われたことを思い出します(笑)」  その経験は今、何かのかたちで生きているのだろうか。 「あの撮影の際、小鳥さんに『なぜ写真家になろうと思ったのか』と尋ねたら、『それ以外にできなかったから』とおっしゃったあと、『小川さんもそうでしょ?』と言ってくださったんです。大学に入学したとき、卒業したら自分はどうなっているんだろうって考えたりしましたけど、結局一度も就職しようとは思わないままだった。だから、この道なのかなって。小鳥さんの言葉に強く背中を押されたことが、今の私につながっています」  今年も募集中の女子大生表紙モデルに向けてメッセージを頼んでみた。まっすぐな強い視線のまま、こう語った。 「女子大生って学校にも縛られていないし、社会にも出ていないし、いちばん自由で楽な時間だと思うんです。もちろん、みんな勉強とか、頑張っているものはあると思いますけど、その無責任さこそが、女子大生という存在の魅力なのかなって。何でもできる時期だからこそ、一度こういう世界に飛び込んでみるのもいいんじゃないかと思います」  小川紗良の未来も、第2の小川紗良の誕生も、楽しみだ。(文/本誌・伏見美雪) 小川紗良 (撮影/門間新弥、スタイリング/山田梨乃、スカート¥14,000/BELLE、イヤリング¥7,000、リング¥20,000/共にBLOOM/GOODNESS 表参道、その他スタイリスト私物 ※すべて税抜き)  ※週刊朝日  2019年4月26日号
週刊朝日 2019/05/03 11:30
感動をありがとう! 平成の日本人を“胸熱”にしたアスリート【女性編】
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感動をありがとう! 平成の日本人を“胸熱”にしたアスリート【女性編】
平成の女子テニスをけん引した伊達公子 (c)朝日新聞社  まもなく平成の時代が終わり、令和の時代へと移り変わろうとしている。  平成はバブル崩壊、消費税増税、企業のグローバル化など、日本の経済を取り巻く環境が変わり、社会が大きく変容した。また、阪神・淡路大震災、東日本大震災などの大規模な災害も起こり、暗いニュースも決して少なくなかった時代でもあった。  そんな中、社会に明るい話題を提供してくれるアスリートたちが常にいた。災害時にはスポーツイベントなどが中止となり、「スポーツは無力」であるのと声も出るが、そんなことはない。国民に生きる力と勇気を与えるアスリートの力は絶大である。  そこで、今回は平成の時代に国民を熱くさせた日本人女性アスリートを振り返ってみたいと思う。 ■浅田真央(フィギュア)  ジュニア時代から大きな注目を集め、羽生結弦と並びフィギュアスケートを人気スポーツの地位まで引き上げた功労者。シニアデビューを果たした2005年(平成17年)のグランプリファイナルのフリーでは、弱冠15歳ながら高難度のトリプルアクセルを成功させ、当時の世界女王イリーナ・スルツカヤ(ロシア)を下し、鮮烈な印象を残した。あどけない表情の浅田が、ピョンピョンと楽しそうにリンクで舞う姿は、まさに“氷上の天使”という言葉がぴったりだった。  2006年(平成18年)のトリノ五輪には年齢制限のため出場はならなかったが、満を持して2010年(平成22年)のバンクーバー五輪に出場。そこでは韓国のキム・ヨナに敗れ、悔しい銀メダルとなった。そして、リベンジを果たすべく迎えた4年後のソチ五輪。日本中から「今度こそは」と期待が高まったが、ショートプログラムで全てのジャンプに失敗し、まさかの16位スタートとなった。ほぼ金メダルが絶望となる中でのフリーだったが、浅田はここで真価を発揮する。キャリア「最高の演技」と称されるパフォーマンスで、フリー自己最高となる得点をマーク。演技が終わった瞬間に涙を流す浅田の姿は、日本中の感動を呼ぶとともに、メダル獲得だけではないオリンピックの魅力も再認識させてくれた。 ■高橋尚子(マラソン)  2000年(平成12年)に開催されたシドニー五輪で日本人女子として、初めて陸上での金メダルを獲得した。高校時代は無名だったものの、実業団で名伯楽の小出義雄監督に才能を見出され、小出監督との二人三脚でメキメキと実力をつけると、シドニーへの切符を獲得。大会ではレース途中から優勝候補の一角だったリディア・シモン(ルーマニア)との激しいデッドヒートを繰り広げた。35キロ付近で外したサングラスを投げ捨てた後に、一気にスパートをかけグイグイとシモンを突き放した走りは、とても印象深かった。  42.195キロの道のりは、想像を絶するような厳しさのはずだが、レース後には「すごく楽しい、42キロでした」と笑顔で語ったように、高橋の走りには“爽快感”のようなものがあった。シドニー後の2001年(平成13年)9月には当時の世界記録を樹立し、五輪連覇の期待も膨らんだが、アテネ五輪の出場は逃した。しかし、国際大会で一時代を築いた日本の女子マラソンをけん引した走りと、笑顔の絶えない明るい性格の“Qちゃん”は当時の国民的ヒーローだった。 ■澤穂希(サッカー)  平成の時代はJリーグが開幕し、日本代表がワールドカップ出場の常連となるなど男子を中心にサッカー界が盛り上がったが、女子サッカーにもその注目が集まる大きな原動力となった。若くして才能を見いだされ、15歳だった中学3年生の時に日本代表入りした澤は、アメリカのチームでも活躍。常に女子サッカー界を引っ張り、徐々にその認知度を広めていった。  2004年(平成16年)には日本女子代表の愛称が「なでしこジャパン」に決定し、その年に行われたアテネ五輪では、初めて決勝トーナメントに進出。2008年(平成20年)の北京五輪ではベスト4入りを果たすなど、澤を中心に日本女子代表は着実に成長していった。そして迎えた2011年(平成23年)のワールドカップ・ドイツ大会。日本代表は自慢のパスサッカーが機能し決勝に進出すると、決勝では女子サッカー界に君臨するアメリカをPK戦の末に撃破した。試合は延長戦で勝ち越しを許す苦しい展開となったが、終了間際にキャプテン澤が決めた起死回生の同点ゴールは、今なお脳裏に深く焼き付いている。同年にはFIFA女子年間最優秀選手賞を受賞し、世界に日本女子サッカーの躍進を印象付けた。 ■福原愛(卓球)  小さい頃から“天才卓球少女・愛ちゃん”としてお茶の間に登場し、多くの日本人に愛された。幼少の時には、負けた悔しさから涙してしまう、“泣き虫少女”の印象も強い。その天才スポーツ少女だった福原は順調に成長し、オリンピックには2度出場。2012年(平成24年)のロンドン五輪では女子団体で日本卓球史上初となる銀メダルを獲得すると、リオ五輪でも団体で2大会連続のメダルとなる銅メダルを獲得。また、シングルスでは4位とメダルまであと一歩のところまで迫った。  日本代表として戦う傍ら、卓球の本場・中国リーグにも参戦。その愛らしいビジュアルも相まって、中国でも人気プレイヤーとなった。もちろん中国以上に日本では愛されるアスリートの一人だった。子供の頃から知る福原が世界を舞台にし、見た目とギャップある闘争心溢れるプレーで戦う姿は、時に感慨深くもあった。 ■吉田沙保里(レスリング)  日本のスポーツ史上で、これほどまでに圧倒的な強さを誇ったアスリートは吉田のほかに存在しないのではないか。女子レスリング個人で世界大会16連覇、公式戦206連勝をしたほか、オリンピックでは、2004年(平成16年)のアテネ、2008年(平成20年)の北京、2012年(平成24年)のロンドンを3連覇し、「霊長類最強女子」としてレスリング界に君臨し続けた。  相手を寄せ付けないパフォーマンスで金メダルを“当たり前”のように日本に持ち帰ってくる様子は、本当に頼もしかった。しかし、最も印象に残っているシーンと言えば、最強の名を欲しいままにした吉田が、人目をはばからず涙したリオ五輪の決勝後ではないだろうか。4連覇を期待されて臨んだ吉田は、決勝でまさかの敗退。試合後に「日本選手の主将として金メダルを取らないといけないところだったのに……ごめんなさい」と何度も謝罪をする姿は、国を背負って戦うことの重大さを感じさせると同時に、それまでの三連覇の凄さを改めて認識させてくれた。 ■伊達公子(テニス)  大坂なおみが昨年の全米、今年の全豪を制して世界ランキングの頂点まで上り詰めたが、平成の時代を象徴する女子テニスプレイヤーは間違いなく伊達公子だった。「ライジング・ショット」の名手として、アジア人女性としては初めてシングルスでトップテン入りを果たすと、1995年(平成7年)の11月には自身の最高位となる4位まで世界ランクを上げた。グランドスラムでも全豪、全仏、全英でベスト4、全米でベスト8の最高成績を残すなど、日本人、そしてアジアの女性が世界で戦えることを示した。  特に語り草となっているのは、当時の世界女王シュテフィ・グラフとの激戦(日本対ドイツのフェドカップ一回戦・有明コロシアム)。これまでグラフ相手に一度も勝利を収められずにいた伊達は、左ひざの負傷の影響がある中での戦いだったが、一歩も譲らない試合を展開。手に汗握る一進一退の攻防は最終第3セットまでもつれ込み、そこでも互いに点を取り合う激しい試合となった。最終的に伊達がセットを12-10で制し、グラフから生涯唯一となる勝利を掴んだ。3時間25分にも及んだ“終わりの見えないゲーム”でも常に勇敢に戦う姿は多くの日本人の胸を熱くした。 ■田村亮子(柔道)  若い頃からその才能が注目を集め、「ヤワラちゃん」の愛称で国民的人気を誇った。世界柔道選手権を幾度となく制覇するなど無類の強さを発揮しながらも、オリンピックではあと一歩のところで金メダルに届かない様子は、時にもどかしくもあった。その分、五輪で頂点に立った瞬間はひと際、喜びも大きかったのではないだろうか。1992年(平成4年)のバルセロナ、1996年(平成8年)のアトランタでともに銀メダルに終わった田村の歓喜の瞬間は、2000年(平成12年)のシドニーで訪れる。「最高でも金、最低でも金が目標」という覚悟で臨んだ田村は、苦しい戦いを強いられながらも決勝に進出。決勝では、開始わずか38秒で、それまでのうっ憤を晴らすかのような一本勝ちを収め、涙の金メダルを掴み取った。  2003年12月には、当時プロ野球オリックスでプレーをしていた谷佳知と結婚。「田村」から「谷」に姓を変えてアテネ五輪に臨んだ。「田村でも金、谷でも金」と決意を新たにしたが、大会前には左足首のケガの影響が周囲から心配されていた。しかし、蓋を開けてみるとオール一本勝ちで決勝まで駒を進め、その決勝でも相手を寄せ付けずに快勝。女子競技としては当時日本人初となる連覇を果たした。さらに、夫も野球の日本代表として銅メダルを獲得し、夫婦そろってのメダルは大きな話題をさらった。
dot. 2019/04/30 17:00
「アムロちゃんが世界の中心でした」平成を生きたわたしたちの足あと
「アムロちゃんが世界の中心でした」平成を生きたわたしたちの足あと
イラスト:土井ラブ平 「平成」が4月30日で幕を閉じる。振り返ると、いまや死語となった流行語や、最近見ないかつての人気者も多い。新時代を迎える前に、AERAはそんな時代の思い出をアンケート。読者と共に振り返る。 *  *  *  いまから30年4カ月前。平成はバブル経済まっただ中ではじまった。  もう二度と流行ることはなさそうな大きな肩パッドの入ったジャケットや原色のボディコンスーツで街を闊歩する人が大勢いた。ホントに。  千葉県に住む自営業の女性(46)は、当時短大生。ソバージュの髪をなびかせ、前髪をハードスプレーでがっちりと固めたすだれ髪が命だった。 「ワンレンボディコンにロングブーツを履いてジュリアナ東京に通ったこともありました。太眉にシャネルの真っ赤な口紅と香水がステータスでした」  ワンレンボディコンと言ってもピンとこない方は「平野ノラ」を思い描いてほしい。いまやコントになる、あんな格好の女性が街にたくさんいた。  そんな彼女もいまや子育て中。子どもに「勉強しなさい!」と怒る日々。とても自分の二十歳の写真を娘には見せられない。 「平野ノラな自分は封印です」  そのころテレビで流行っていたのが、フジテレビの土曜深夜枠「ねるとん紅鯨団」。一般の男女が参加するカップリング番組だ。カップル誕生を視聴者もハラハラドキドキ見守った。  この番組に出演経験があるというのは川崎市に住む50代男性。番組出演はいい思い出だが、 「当時付き合っていた彼女がいたのにこの番組に出てしまい、フラれましたよ。会社や地元の友だちにも知られ、影響の大きさにビビりましたね」  そんな浮かれた時代は長く続かなかった。平成に入って数年たった1990年代前半にはバブルが崩壊。それからは「失われた20年」と呼ばれる景気低迷時代に突入した。  大人たちの元気がなくなっていく一方で、ムーブメントを起こしていったのは女子高生たち。ルーズソックスにミニスカートといったコギャルファッションが大流行した。そのカリスマだったのが、昨年引退したアーティストの安室奈美恵だ。彼女に憧れてそのファッションをマネするアムラーもたくさんいた。  アムラーど真ん中世代だったのは東京都世田谷区に住む会社員の境田美貴さん(39)。 「アムロちゃんが世界の中心でした。厚底のブーツにミニスカート、細眉メイクで渋谷を歩いていました。当時は細眉にするための“毛抜き”は必須アイテムでしたが、その時抜きすぎたため今では眉が生えてこず、後遺症に悩んでいます(笑)」  アムロちゃんの影響は玩具にまで広がった。彼女が育てていることから脚光を浴びたのが「たまごっち」。当時は入手困難で、8千円の値がついた「たまごっち」を親に頼み込んで買ってもらったという女性もいた。  平成は、元気な女子に注目が集まる時代だったのか。 「草食系男子」という言葉を世に広めた、世代・トレンド評論家の牛窪恵さんは、不況のときは男性の消費が落ち込む傾向があり、90年代後半はまさにその状態だったと分析する。 「女子中・高生がトレンドを作る時代でした。就職氷河期でロスジェネと呼ばれる世代でも女子は元気。男子たちはなんだか女子楽しそうだなぁ~と、徐々に追随していったのです」  牛窪さんによると、おしゃれを楽しむ女子たちを羨望の眼差しで見ていた男子たちが“女子化”していったのが90年代後半。眉毛のお手入れをし、女子並みにファッションに興味をもつ男子が増えていったという。  そんな男子の憧れ代表が、キムタクだろう。そのロン毛に憧れたと話すのは和歌山県の会社員、小池宏昭さん(40)だ。 「男子高校生の間で香水が流行ってck-oneやck-beを嗅ぐと一瞬でフラッシュバックします。つい最近まで取っていましたが、平成の終わりとともにサヨナラしました」  キムタクがメンバーだったSMAPが国民的アイドルとなったのも平成だった。  阪神・淡路大震災のあと一人暮らしを余儀なくされたという神戸市の専業主婦の女性(51)はこう振り返る。 「SMAPが被災地への言葉とともに『がんばりましょう』を歌ってくれた。それから、彼らがキラキラと歌って踊る姿を見るのが私の心のバッテリーになりました。結婚して、子どもができて、その子どもに障がいがあることがわかって……決して平坦でなかった自分の平成時代にいつもSMAPがいてくれました」  スポーツ界にもたくさんヒーローがいた。先日、引退を表明したイチロー。都内在住の会社員の女性(44)は、地元神戸で見ていたイチローの姿が忘れられない。 「商店街を歩いていたオリックスの“鈴木選手”は、“イチロー”に変わってみるみる有名になって、遠く羽ばたいていった。平成の大スターだと思います」 平成はテクノロジーが著しく進化を遂げた時代でもある。大きなバッテリーを抱えて持ち歩いていた携帯電話は、いまや手のひらサイズのスマホに。小型携帯が出回る前まで市民権を得ていたのはポケベルだ。  初期ポケベルでは「4649」(ヨロシク)、「0906」(オクレル)など、数字でメッセージを伝えるのが定番だった。静岡県焼津市の会社員、西村公明さん(40)は、ポケベルでメッセージを送るため、親に頼み込んで家の固定電話を黒電話からプッシュホンに換えてもらった。 「山のほうに住んでいたので電波が悪いから、当時付き合っていた彼女に『今からメッセージ打つね』とわざわざ電話をもらっていました。電波がいい窓際にポケベルを置いて、メッセージが届くのを待っていたのが懐かしい」  ポケベルからスマホへの変遷に象徴されるように、時代はあっという間に移り変わった。 「平成は時の流れが速すぎて、常についていくのに必死でした。だからこそ、常にアンテナを伸ばそうと努力していた気がします」(西村さん)  音楽の楽しみ方も変わった。カセットテープからCDへと移行。CDから“ダビング”してマイベストMDを作るのに情熱を注いだ人もいた。音楽がネットを通じて配信されるようになった今、ダビングなんて言葉すら知らない若者もいるだろう。  インターネットが普及したのも平成に入ってからのこと。もはやネットのない世界など考えられない世の中になっている。(フリーランス記者・宮本さおり、大楽眞衣子) ※AERA 2019年4月29日-2019年5月6日合併号より抜粋
AERA 2019/04/30 11:30
悠仁さまの中学に侵入した56歳の男を逮捕 警視庁SSBC部隊が追跡
悠仁さまの中学に侵入した56歳の男を逮捕 警視庁SSBC部隊が追跡
男が侵入した東京都文京区のお茶の水女子大付属中学校(c)朝日新聞社  連行される長谷川薫容疑者(c)朝日新聞社 秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが通学するお茶の水女子大付属中学校(東京都文京区)で悠仁さまの机の上に刃物が置かれた事件で、警視庁捜査1課は29日、建造物侵入容疑で自称、長谷川薫(かおる)容疑者(56)を逮捕した。  捜査関係者によると、長谷川容疑者は職業不詳で以前、京都府に住んでいた。容疑を認めているという。防犯カメラの画像などから長谷川容疑者が浮上。  中学の正門カメラに午前10時半過ぎに長谷川容疑者らしき男が写り、校舎内に同10時50分ごろ、最後に正門のカメラに同11時10分過ぎに写っていたという。さらに中学校近くの地下鉄の駅のカメラに長谷川容疑者によく似た男が写っていたことから、カメラ画像を追跡し、移動経路を特定した。29日夜、神奈川県平塚市内のホテルで長谷川容疑者の身柄を確保した。 「学校付近の地下鉄駅の防犯カメラに写っていた長谷川容疑者は工事業者風ではない服装だった。つまり着替えて逃走したということ。今回は平成の内に絶対逮捕しようと、刑事部SSBC・捜査支援分析センターを投入。防犯カメラを繋ぐリレー方式を使い、短期総力戦で臨んだ。陛下の退位、新天皇の即位前に逮捕できてよかった。警視庁刑事部の面目躍如だ」(捜査関係者)  侵入事件は26日に発生し、刃の部分がピンク色に塗られた果物ナイフのような2本の刃物が棒に粘着テープで固定された状態で、悠仁さまの机と隣の机にまたがるように置かれていたという。  悠仁さまのクラスは当時、全員で教室の外に出ており、無人だった。校内の複数の防犯カメラに同日昼前、ヘルメットをかぶり、上下青色っぽい作業着風の服を着た男が写っていた。警視庁は長谷川容疑者の思想などは不明で動機を追及している。 (本誌取材班) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/04/29 23:19
<平成大学史 前編>バブルが崩壊しても、大学は拡大路線を突っ走った
<平成大学史 前編>バブルが崩壊しても、大学は拡大路線を突っ走った
※写真はイメージです(写真/getty images)  平成の30年間で日本の大学は様変わりした。大学の数は280校も増え、大学進学率は5割を超えた。平成前半の大学事情について、「大学ランキング2020」(朝日新聞出版)から抜粋して紹介する。 * * *  平成時代はバブルとともに幕が開けた。  1989(平成元)年、日経平均株価は史上最高の3万8915円をつけ、世の中は浮かれていた。それは大学も同じだった。  この年、平成最初の大学入試で、早稲田大は一般入試志願者約16万人を集めた。この数字はいまだに破られていない。しかもセンター試験利用入試や全学統一入試がない時代である。当時、1人で10校をかけ持ち受験することはめずらしくなかった。どの大学も浮かれた雰囲気が漂っていた。大学はレジャーランドと呼ばれ、それほど授業に出席しなくても「楽勝科目」で卒業できる。そんなゆるさ、のんびり感が漂う時代だった。    しかし、このような状況に大学も文部省(現・文部科学省)も危機感を抱いていた。学生は勉強せず、「授業がつまらない」と言う。教員も象牙の塔にこもり熱心に教えない。このままではダメになってしまう。大学の制度を根本的に変えなければならない。文部省は大学改革を進めることを宣言した。それが、平成に入ってまもない1991年に実施された大学設置基準の大綱化である。  大綱化とは、緩和という意味合いを持っている。それまで文部省は、大学教育の課程を一般教育、外国語、保健体育、専門教育に区分けしてそのなかで細かく定めていたが、大綱化によって、こうした区分けによる科目の縛りを緩くした。大学はこれを、規制から自由へ、管理から放任へと受け止め、新しいカリキュラムを作った。たとえば、第二外国語、体育実習を必修からはずす、1年次から専門科目を学ぶ、などである。そして、多 くの大学が教養部(課程)を廃止した。 ●大学新設ラッシュを迎え、2000年には28校誕生  文部省の縛りが緩くなり、大学は時代に合わせた科目を教えられるようになった。それに伴って、学部名称も多様化する。従来の「法」「経済」「工」から、「国際」「政策」「環境」「情報」「人間」といった言葉が並ぶようになった。  平成前期の10年間、1990年代は、バブル崩壊による倒産や企業の統廃合が相次ぎ、暗い世相が続く。しかし、大学は違った。拡大路線を突っ走った。大学は1995 年に13 校、98 年に17 校、2000 年には28校が誕生している。入学者数は1989年に47万6786人だったのが、1998年には59万743人となった。  これにはいくつかの背景がある。まず、社会構造の変化に伴い、企業が高卒より大卒を求めるようになった。大卒者のほうが好待遇で、生涯賃金が勝るという現実もあった。また、18歳人口が1992年の約205万人をピークに減り続けるなか、多くの大学は学部の増設などで規模を拡大し、数の論理で学生を集めようとした。  女性の意識や生き方が変わったことも大きい。1986年の男女雇用機会均等法施行、1990年代後半の男女共同参画社会への機運の高まりなどで、女性がさまざまな分野で活躍できる社会づくりが浸透し、女子の大学進学率が高まっていく。高校卒業後、専門学校や短期大学に進学、あるいは就職していた女子層が大学に進むようになる。女子の大学進学率は 1989年に14.7%だったのが、1998年には27.5%となった。  一方、学生の気質も変わりつつあった。1999年、『分数ができない大学生』という本が出版され、大学生の学力低下が大きな問題になった。大学進学率は上がっている一方で、「ゆとり教育」の功罪が問われた。高校までの課程を十分に理解していない学生が現れ、大学で補習教育が行われるようになった。  2000年には、予備校が「Fランク大学」を公表。入試難易度がつかない「ボーダーフリー」の大学は、「だれでも入学できる」と受け止められ、大きな波紋を呼んだ。 後編「バブルが崩壊しても、大学は拡大路線を突っ走った」へ続く。 (文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)
dot. 2019/04/28 17:00
不思議系俳優・瀬戸康史の“魅力沼”にハマる女性が急増中
高梨歩 高梨歩
不思議系俳優・瀬戸康史の“魅力沼”にハマる女性が急増中
国立科学博物館で開催中(3月21日~6月16日)の『大哺乳類展2』で音声ガイドナビゲーターを務める瀬戸康史 (c)朝日新聞社 ■「あさが来た」「まんぷく」で一気に人気爆発  俳優の瀬戸康史(30)と高橋克実(58)が4月16日、都内で行われたW主演ドラマ「デジタル・タトゥー」(NHK総合、5月18日スタート)の記者発表に出席した。同作は、インターネットに疎い弁護士(高橋)とユーチューバー(瀬戸)がバディーを組み、ネット社会の闇で苦しむ人々を救い出すサスペンスだ。今回、初共演となった二人だが、高橋は「瀬戸くんは演技がうまいので、僕が飛び込んで受け止めてもらっている」と瀬戸を大絶賛。一方の瀬戸も「初めて、という感覚がなかった。かなり頼らせてもらいました」とお互い意気ピッタリに芝居ができたことを明かしていた。  瀬戸といえば、3月に最終回を迎えたNHK連続テレビ小説「まんぷく」で見せた演技で一気に知名度が上昇。主人公・福子(安藤サクラ)と萬平(長谷川博己)を支えながら成長していく神部茂役で、人懐っこい性格の役柄を好演してお茶の間の心をわしづかみにした。瀬戸は2015年の朝ドラ「あさが来た」にも出演しており、そちらでは日本初の女子大学校設立に奔走する成澤泉を演じ、「ナル様」として視聴者に鮮烈な印象を与えた過去もある。前回とは違った役柄でさらに広い層のファン獲得に成功したかっこうだ。  一見、明るくて人懐っこそうな瀬戸だが、意外にもデビューしてしばらくは人見知りで、殻に閉じこもっていた時期もあるという。  瀬戸のデビューのきっかけは2005年に受けた「第2回D-BOYSオーディション」。表現者を目指していた母親が、自身の夢を瀬戸に託したいと応募したとトーク番組で話していた(「A-Studio」TBS系、2016年10月28日放映)。そこで見事に準グランプリを獲得し、地元福岡の高校をやめ、上京。もともとは社交的な性格だった瀬戸だが、急に芸能界に入り、自分の居場所をなかなか見つけられず6年ほど人見知りになっていた時期があるという。だがそんな自分に嫌気がさしていた時、仲良くなれたドラマ現場のスタッフの飲み会に参加。すると、すごく楽しく、プラスのことばかりだったそうで、その飲み会を機に、昔の自分を取り戻し、それからは共演者も含め、現場では積極的にコミュニケーションをとるようになったという(「ごごナマ」NHK、2019年1月11日放映)。  そんな人見知りの過去を持つ瀬戸が現在の活躍に至るまでには、ふたりの「山ちゃん」の存在がある。 「過去にインタビューなどで語っていますが、ひとりはお笑い芸人・南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太さん。同じく人見知りの山里さんからは『人見知りは素晴らしい才能だよ』という言葉をもらったそうです。人見知りだからこそ、いろいろな人に気を使えるし、いろいろな情報を得られるので決してネガティブなことではない、と。実はこのアドバイス自体は大御所タレント・タモリさんからの受け売りだったそうですが(笑)、瀬戸さんにとって力をもらえた言葉だったようですね。もうひとりは声優の山寺宏一さんで、10代のころに『おはスタ』(テレビ東京系)で共演して以来の仲だそうですが、いつも瀬戸さんを褒め、背中を押してくれる存在だそうです」(テレビ情報誌の編集者) ■30代の目標は「高橋一生と台湾に行く」!? 一方、「超インドア派」を公言している瀬戸だが、意外にも大の仲良しというのがアウトドア大好きの人気俳優・高橋一生(38)だ。  舞台「マーキュリー・ファー」(2015年)で共演して以来、プライベートでも仲良しだという二人。瀬戸が「あさイチ」(NHK総合)にゲスト出演時、VTRで登場した高橋は、瀬戸を「こうちゃん」と呼び、「弟みたいな存在」だと語った。(瀬戸が高橋の)家にもよく来ると話し、高橋が手料理を振る舞うことも多いのだという。このエピソードにSNSでは両者のファンが歓喜したことも。また、「30代の目標」を聞かれた際には「(高橋)一生さんと台湾に旅行に行きたい」と答え、高橋への愛を爆発させていたのも印象的だった(自身のアーティストブック『僕は、僕をまだ知らない』発売記念イベント、2018年10月14日)。  芸能リポーターの川内天子氏は、瀬戸康史の魅力に関してこう分析する。 「瀬戸さんに関しては、やはりドラマ『海月姫』(フジテレビ系)で見せた美しすぎる女装姿が印象的ですね。もともと、つるんとしたたまご肌で、厚みのある唇なので違和感がまったくなく、声のトーンも完璧だった。これをドラマの中で押し通したのはすごいこと。同じ30歳のイケメン俳優はほかにも三浦翔平さんや松坂桃李さん、窪田正孝さんがいますが、この作品で彼らと“差別化”することができた。さらに『実家に良い幽霊がいた』という霊感エピソードを披露したこともありましたが、そういう瀬戸さんが持つ不思議さも魅力で、『引き出しの多さ』が感じられます。そういう意味で今後の俳優としての方向性は見えないんですが、だからこそ3年後、5年後の姿が楽しみでなりません」  デビュー前は獣医を目指していたという動物好きの一面や、出演番組をきっかけに趣味となったというお菓子作り……、などなどと瀬戸の魅力はまだまだ尽きないが、今後も「沼」にハマる女性が続出しそうだ。(ライター・高梨歩)
dot. 2019/04/28 11:30
天皇皇后両陛下のキューピット役が明かす「テニスコートの恋」と正田家への電話大作戦
天皇皇后両陛下のキューピット役が明かす「テニスコートの恋」と正田家への電話大作戦
1958年、軽井沢で行われたトーナメント会場のテニスコートのベンチで、出場者と談笑する正田美智子さん。左は皇太子さま(C)朝日新聞社 「キューピット役」の思い出を語る織田和雄さん(撮影・上田耕二)  夏の軽井沢のテニスコートで、天皇皇后両陛下は初めて出会った。今からかれこれ61年前のこと。その運命的なダブルスの試合を観戦し、2人の恋のキューピッド役を務めた織田和雄さん(83)が、「テニスコートの恋」の真実を語った。  私は天皇陛下より、2歳年下。兄が学習院の中等科から高等科まで陛下(当時は皇太子)と同級生でしたから、ご縁ができた。以来、テニスを通じて、プライベートな交友を続けさせていただいています。  陛下と皇后さま(当時は正田美智子さん)が初めて出会われたのは1957年8月のこと。軽井沢にお住まいの方と別荘所有者たちがメンバーの「軽井沢会」主催の親睦のテニス大会でした。いわば軽井沢のテニス好きが集まったという感じでした。  後に「テニスコートの恋」と騒がれた世紀の試合は、大会2日目。陛下と早大の男子学生のペアが、美智子さまとカナダ人の13歳のボビー・ドイルさんペアと対戦しました。  結果は美智子さまのペアが2対1で勝たれました。私はコートの外のフェンスによりかかりながら見ていました。試合中、美智子さまのショットは正確で、ドイルさんにも的確なアドバイスをされていました。美智子さまは、関東学生新進テニス選手権大会で優勝されたこともあり、テニスの腕前は相当なものでした。  試合後、陛下は私に「あんなに粘り強く正確に返球されたらかなわないね」とおっしゃいました。  その後、陛下と美智子さまはテニスを通じて親交を深めてまいりました。戦後10年はたっているとはいえ、皇太子妃は元皇族か元華族から選ばれるのが当たり前と考えられていたので、民間の美智子さまはマスコミからほとんどノーマークでした。  しかし、翌58年になると、5月の宮内庁の会議で美智子さまがおきさき候補に決まり、マークされるようになりました。正田家にとって皇室は想像もできない所ですから、結婚をお断りになられたとの話もありました。  9月初め、美智子さまは、聖心女子大学卒業生の国際会議の日本代表として海外へ旅立たれた。10月26日に帰国されたようですが、私は翌々日の28日、御所に呼ばれ、陛下から「(美智子さまに)お嫁に来ていただきたい。電話を取り次いでいただけませんか」という相談を受けました。私も大賛成でしたから”電話交換手”として協力しました。  というのは、陛下が東宮仮御所から池田山(品川区)の正田邸へ直接電話を入れると、どなたがお電話に出るかもわかりません。ご迷惑をかけてはいけないというご配慮から、まず、陛下から私の自宅に電話がかかる。次に、私から正田邸に電話し、「殿下が今、御所の書斎の電話の前でお待ちですから電話をかけてください。お願いします」と伝えておりました。ほとんど毎日のように20日間くらい、私が交換手の役割をし、正田邸に電話を入れていましたよ。  忘れもしない11月8日の夜、御所に呼ばれ、陛下から「あまり、うまくいっていない」と、恋の悩みを打ち明けられました。美智子さまから良い返事がもらえないということですね。私は「世間では、柳行李(やなぎこうり)一つで来て下さい、というプロポーズの言葉があるんですよ」とお話したのを覚えています。  陛下はしばらくお考えになると、美智子さまに電話を入れて欲しいとおっしゃるので、正田邸に電話すると、幸いにも美智子さまがおられました。  美智子さまに折り返し電話していただき、私は電話のある書斎の隣の応接間で待っていました。どんな会話があったのかはお二人にしかわかりません。  1時間くらいの長い電話が終わると、陛下は顔を紅潮させておられ、表情からうまく話がいったのだと想定致しました。陛下は最後のひと押しをされたのでしょう。  正式に婚約発表されたのは11月27日。半年後の59年4月10日にご結婚。陛下は子供の頃、両親とは別のところに住み、週末だけお会いになれた。美智子さまは将来を見据え、浩宮さまや秋篠宮さまが父親から帝王学を学ぶのが一番いいと考えられ、家族が一緒に住むようにされたわけです。ご自分で育てた。それまでの皇室の歴史を変えられたのではないかと思います。  家族のだんらんにはテニスや音楽の演奏が役に立ったと思いますよ。  東宮御所にはテニスコートが2面あり、皇太子や秋篠宮さま、紀子さまもテニスをなさいます。雅子さまはテニスをなさいませんが、コートサイドで皇太子のテニスをご覧になって、我々と話をなさっていらっしゃいます。  コートサイドでは「サーヤ」こと、黒田清子さんが紀子さまたちを連れて一緒にいちご摘みに出かけたり、家族仲陸まじい光景をお見かけします。  最近では、私が陛下とテニスのお相手をしたのは2017年5月。その時、隣のコートでは美智子さまは女性の方々とテニスをなさってらっしゃいました。2人ともお元気です。いつぞやは、陛下は「テニスをしていて良かった。人生に自信がついた」とおっしゃっていました。テニスをしていたから美智子さまとも運命の出会いをなされた。テニスで友達ができるし、会話ができる。人生経験としては大変大きなメリットがあったのではないかと拝察しております。  ご退位なさったら、両陛下は東京都港区の高輪皇族邸に仮住まいをなさるとうかがっております。陛下は誠実で、とても周囲にお気を使われる方。仮住まいで卓球台の部屋を造ったらどうかという話が出たら、「そんなことにお金を使ってはいけないから」とご遠慮されたとのお話を聞いたことがあります。陛下は、卓球はものすごくお上手ですよ。ご退任のお祝いに、卓球台を贈ってはどうか、などと、友人たちと話しております。 (聞き手 本誌・上田耕二) ※週刊朝日 オンライン限定記事
皇室
週刊朝日 2019/04/28 10:00
東大祝辞・上野千鶴子インタビュー 「当たり前のことを言っただけ」
東大祝辞・上野千鶴子インタビュー 「当たり前のことを言っただけ」
うえの・ちづこ/認定NPOウィメンズアクションネットワーク理事長、東京大学名誉教授。著書に『女ぎらい』(朝日文庫)他。「ネガティブな反応に私が傷ついていないかと、東大関係者が気を使ってくださって。ありがたいことだけど、毀誉褒貶には慣れております、と言っております」/17日、東京都内(撮影/写真部・片山菜緒子)  上野千鶴子さんが東京大学の入学式で述べた祝辞は、お祝い一辺倒ではなかった。 論議を呼んだ表現に、フェミニズムの旗手が込めた思いを聞いた。 *  *  *  依頼は昨年末でした。青天の霹靂でしたから、断ろうかと迷いました。イギリスかぶれの角帽ガウンのコスプレも嫌でしたし(笑)。東大の女子学生比率が2割の壁を越えないことがずっと懸案なのは承知していました。女子の4年制大学進学率が48%になり、どの大学も女子学生比率が上昇するなかで、東大だけが増えないのは異常な事態です。なぜ今年度、上野を選んだのか。昨年からの#MeTooムーブメントと、東京医大の不正入試が相次いだタイミングもあったと思います。内部で上野の指名に尽力してくださった方々もおられると聞き、私に与えられた役割を果たそうと考えて、お受けしました。    東大執行部がリスクを背負って依頼してくださった。しかも、私が何を話すかは予測できないわけです。もし発言内容に介入したら、私はその経緯をメディアに明らかにするかもしれませんしね(笑)。原稿は事前に総長以下執行部の方が目を通しておられますが、数字の訂正以外、内容への介入は一切ありませんでした。私に期待と信頼を寄せてくださったことに、感謝しています。 ──ワイドショーなどで取り上げられ、ネット上では「全然祝辞じゃない」「腹が立つ」「吐き気がする」といった反応も。    いつでもどこでも言っている当たり前のことを言っただけで、データも誰でも手に入るものばかりです。反応があるのは想定していましたが、賛否ともその大きさは想定以上でした。    性差別を話題にすると、脊髄反射的に拒否感、嫌悪感を抱く男性がいますが、その点では若者もおっさんも変わらない。18歳男子にもちゃんと男権意識は再生産されているんですね。江原由美子さんの研究に、性差別意識が共学校の男・女、別学校の男・女で誰が一番強いかというと別学男子だったというデータがあります。目の前に生身の女子がいない環境で、両親を見て育つ。父親の顔色をうかがう母親を見て育つのでしょう。    優等生って、ものすごく不安感の強い人たちなんです。承認欲求も強いから、ほめてもらいたい。私の言葉で不安の根っこを脅かされたから、過剰反応するんでしょう。本当は、反射的な脊髄反応を「待てよ」と押しとどめるのが知性ってもんだけど、それが無いんでしょ(笑)。  ──反発した人たちはどこに「不安」を感じたのでしょうか。    私は「勝者の不安、敗者の不満」と言っています。勝者って勝ち続けなければならないんです。成績で一番取って、親から「よかったね。頑張ったね」と褒められた直後、「次もね」と言われる。でも、次も一番を取れる保証はないんですよね。  強者側にいる人たちは、男女平等を言うフェミニズムに対して「弱者であるお前たちが、俺らと同じ強者になりたいのか」と、自分たちの地位を脅かされる不安を感じるんですね。でもそれは完全に誤解です。例えば、妊婦、障害者、子ども、お年寄り。強者になれない人はいっぱいいるでしょ。その人たちに「強者になれ」って言わないでしょ? それに強者だっていつか年をとれば弱者になる。そこまで言ってやらないとわからない。  フェミニズムに対するもう一つの誤解は、「俺らと同じになりたいわけ? じゃあ女捨ててかかってこいよ」っていうもの。若い女たちも「フェミって男と同じようにふるまいたい女のこと? ばかなおネエさんたち」って思ってきた。おっさんメディアが自分の間尺に合わせてフェミニズムを理解し、間違ったイメージを流通させてしまった。人は自分の器に合わせてしか、相手を理解しないものです。  私は「強者・弱者」を「差別者・被差別者」と置き換えると分かりやすいと思っています。「フェミニズムは、被差別者が差別者になろうとする思想ではありません」って。差別そのものをなくしたいだけ。そういえば、わかりやすく理解してもらえるんじゃないかな。でも、その差別から利益を得ている人たちもいますからね。 ──努力を否定するのか、という批判もみられました。    がんばりだけでなく、「がんばれば報われる」と思える、そのメンタリティーそのものが環境の産物であることを忘れないでと伝えました。その裏側にあるのが「どうせ、しょせん、女の子だし」と水をかけ足を引っ張る“意欲の冷却効果”です。そうやって気持ちをくじかれる。足を引っ張られて本当はやりたいことを選択できなかったとしても、ネオリベラリズムのもとで「自己決定・自己責任」の原則は深く浸透しましたから、「結局お前が選ばなかったんだろう」と言われる。東大女子が2割以下なのも「応募者が増えないから仕方がない」と。「自己決定・自己責任」がここ数十年のうちに強く内面化され身体化された結果、自分を責めるほかなく自傷系の学生が増えたという体感があります。 ──意欲の冷却効果の逆の例として、マララさんを挙げられた。 「娘の翼を折らないようにしてきた」……彼女のお父さんの素晴らしい発言です。だから、ああいう恐れを知らず、脅しにもひるまない娘ができたのよ。ほとんどの娘たちは翼を折られてきたということの裏返しですね。 ──「女子は子どものときから『かわいい』ことを期待され」て、「相手を絶対におびやかさない」よう、いい成績を隠そうとすると指摘されました。  上智大卒の女性の友人が面白いことを言っていました。英オックスフォード大にいたとき、留学してきた東大卒男子が周りの女子学生を見て「女の人にもこんなに頭のいい人がいるんですねえ」と心底驚嘆したのを見て、「あなたの周囲にいた東大女子たちが、バカなふりをしてきたことに気がつかなかっただけだろう」って思ったって。  女性がかわいいふりをするのは、「男社会の二流のポジションに一生甘んじます」って宣言するのと同じ。「あなたのライバルに決してなりません」と。  このやり方は、男性が権力を握る社会が未来永劫変わらないことを前提にしています。男性を見上げて、褒めそやして、おこぼれをもらう。男の自尊心のお守り役、と私は呼んでいます。それが「賢い女」の伝統芸能なのよ。男性優位の社会ではそれが女の生存戦略でしたが、それを個人個人がやっている限り、決して社会は変わらない。個人としての最適解は、困った構造の再生産につながることもあります。セクハラも賃金差別も、個人的な経験が社会構造につながっている。「個人的なことは政治的である」とフェミニズムの考え方を何度でもくりかえし言わなければならない。18歳の学生には、そこがまだわからない。だから大学で女性学をやるのよ。学問は大事です。  今回の反応でもわかるように、男権社会のメンタリティーは18歳男子の間にも再生産されています。でも、東京医大の不正入試を世論は許さないし、#MeToo運動で政府の高官は辞職するし、上野が東大入学式の来賓祝辞に呼ばれた。数十年前には考えられなかったことです。変化は確実に起きています。  ──新入生に行動を起こしてほしいというメッセージでもあったのか。 「私を突き動かしてきたのは社会の不公正に対する怒り」だと言いました。不公正があったらあなたたちも怒っていい、怒るべきだというメッセージですね。 ──知を生み出す知「メタ知識」を身につけてほしいと祝辞を締めくくりました。  文系理系問わず全ての研究者にとって、これは普遍的なメッセージだと思います。総長も教養学部長も同じ趣旨のことをおっしゃいました。正解が出てしまったことをやっても研究の意味はありませんから。そう考えれば、正解が一つしかないような問いを出して選抜試験をやるということ自体が矛盾ですよね。東大生に世界に通用する人になってほしい。エリートになっても、難民になっても、世界のどこかでちゃんと生きていける人になってほしいと思います。 (聞き手・白山羊) ※AERA 4月29日─5月6日号
AERA 2019/04/22 13:15
学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

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