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借金してまで役作りに没頭 ドラマ「坂の上の雲」を藤本隆宏が語る
借金してまで役作りに没頭 ドラマ「坂の上の雲」を藤本隆宏が語る 藤本隆宏さん(左)と村井重俊編集委員の話に約60人の参加者が熱心に耳を傾けた(撮影/本誌・堀井正明)  作家・司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をテーマにした「坂の上の雲ミュージアム」(松山市)の開館15周年記念シンポジウムが9月18日、同館で開かれた。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」で広瀬武夫役を演じた俳優の藤本隆宏さんと本誌の村井重俊編集委員が招かれ、作品と作者の魅力について約2時間にわたって語り合った。  競泳五輪代表から役者に転じた藤本さんは、2009~11年放送のスペシャルドラマの思い出から語り始めた。劇団四季を経て主に舞台で演じていた当時、広瀬役は思いがけない大抜擢だった。 「初めての大きなドラマで一番大切な作品です。出演が決まったときはうれしかったけれど、そのあとはプレッシャーしかありませんでした」  撮影開始までの2年間はほかの仕事を断って、生活費を借金して役作りに没頭した。広瀬の故郷の大分弁を話し、下戸の広瀬にならって撮影が終わるまで酒を断った。それ以来、酒がほとんど飲めなくなったという。  司馬さんの本誌連載「街道をゆく」の担当だった村井編集委員は、日露戦争を題材にさまざまな人物が織りなす『坂の上の雲』の物語の中で海軍軍人の広瀬は異質の存在だった、と話した。 「広瀬にとってロシアは倒さなければいけない敵だけれど、武官として滞在したロシアは第二の故郷、大好きな恋人もいる。戦いの最中に『戦争が終われば敵方に行って和平交渉をやりたい』と言う。そんな軍人は昭和にはいなかったでしょう。そこを司馬さんは描きたかったのだと思う」  藤本さんは演じた広瀬について、こう語った。 「自己犠牲の人。周りの方、日本の方、最終的には世界の人たちのために自分のことは置いて行動する。そういう考え方の人がいたことを小説を読んで若い人にも知ってほしい。『坂の上の雲』は残していかなければいけない作品。ミュージアムを通して司馬さんの思いを伝えてもらいたい」  同館では本誌連載の司馬遼太郎シリーズを担当する小林修・写真映像部長の写真展「司馬遼太郎『坂の上の雲』の視点」が10月18日から11月27日まで開かれる。(本誌・堀井正明)※週刊朝日  2022年10月7日号
「松たか子」が有名女優に“目標”とされるワケ 広瀬すずや上白石萌音も絶賛
「松たか子」が有名女優に“目標”とされるワケ 広瀬すずや上白石萌音も絶賛 松たか子  女優の松たか子(45)をはじめ、上川隆也、広瀬すず、志尊淳など豪華俳優陣が出演する野田秀樹作・演出の舞台「Q:A Night At The Kabuki」。東京公演は大好評のうちに幕を閉じ、台北公演はあまりの人気にチケット販売が一時停止するほどの盛況ぶりとなった。同舞台を巡っては、松が共演者に自身がCM出演する山崎製パンの商品を大量に配り、現場は“ヤマザキ秋のパン祭り”状態だったことが「NEWSポストセブン」(9月14日配信)で報じられ、話題になった。  こうしたなか、松に対して「女性として作品をご一緒して、メチャメチャかっこいいなと思った」(「日曜日の初耳学」TBS系・5月15日)と憧れの女優として挙げているのが、同舞台で共演している広瀬だ。 「この『Q』が初舞台となった広瀬さんですが、稽古の仕方やどこまで台本を覚えればよいかなど、わからないことだらけだったそうです。そんなとき、野田さんに『たかちゃん(松さん)についていけば大丈夫』と言われ、とにかく松さんがやっていることをまねしたとインタビューで明かしていました。本番中にセリフが飛んでしまったこともあったそうですが、『大丈夫、大丈夫!』と軽く返してくれて、『男前だ!』と思ったそうです。共演者や演出家など男性が多かった現場だったようですが、全員が口をそろえて、『松さんは男前だから』と言っていたと笑って暴露していました」(テレビ情報誌の編集者)  広瀬以外でも、憧れの女優として松の名前を挙げる若手女優は多い。女優の上白石萌音もそのひとりだ。情報番組に出演した際、「松たか子さんが大好き」と切り出し、「どういうフィールドでも一流じゃないですか。映像もやられるし、舞台もステキだし、歌も大好きだし」と目を輝かせ力説。「どこに行っても筋を通して説得力を持てる方にすごく憧れます」と松を絶賛した(「ノンストップ」フジテレビ系・21年10月25日)。 「実力派女優の黒木華さんも松さんに憧れていると取材で明かしています。彼女が学生時代に、松さんの出演舞台『贋作 罪と罰』を観劇して以来のファンだそうです。当時、演劇部に所属していた黒木さんはその舞台を見て『この人は何なんだ!』と心を打たれたそうです。実際に会って仕事をしても本当に魅力的だったそうで、女優としてはもちろん、その人柄のすばらしさにも触れていました」(同)  そうそうたる若手女優から憧れのまなざしを向けられている松だが、男性陣も彼女の“かっこよさ”に圧倒されているようだ。  一緒にソバを食べたときのエピソードを披露したのは俳優の森山未来(「TOKIOカケル」フジテレビ系・21年11月3日)。「キュンとするしぐさ」について問われた際、「ご飯の食べ方がかっこいい女性、すごい好きかも」とし、松とソバを食べに行ったときを回想。「松たか子さんのソバの食い方よりかっこいいソバの食い方をする人、僕は今まで見たことない」と話し、「(つゆを)ほんとにちょっとしかつけず、ザッザッザッていっちゃう」とその食べっぷりの潔さに触れた。本人に伝えると「『あ、そう?』と言って」と、リアクションの男前さについても絶賛していた。 ■ゴダール映画のアンナ・カリーナのよう 「年上である役所広司さんも『なんて華のある女優さんなんだ』と思ったことがあると、映画の完成披露試写会で話していたことがあります。『母としても妻としてもどんどん女性として豊かになってきている感じがした』とベタ褒め状態でした。お嬢様として育ってきたことは周知の事実ですが、その上品さとサバサバ感の絶妙さが、男女を問わず人気がある秘訣ではないでしょうか。前に出過ぎない感じも、長年この世界で活躍している理由かもしれません」(同)  昨年は主演ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(フジテレビ系)が話題となるなど、第一線で活躍し続ける松。11月11日からは沢田研二主演の映画「土を喰らう十二ヵ月」で恋人役を演じているが、中江裕司監督は「ゴダールの映画のアンナ・カリーナみたいで本当にチャーミング」と評価。さらに来年4月には、父・松本白鸚が半世紀以上にわたり演じてきたミュージカルの名作「ラ・マンチャの男」のファイナル公演への出演も決まっている。松自身、女優を目指すきっかけとなったという同舞台に多くの人の注目が集まることだろう。  ドラマウオッチャーの中村裕一氏は、「やはり梨園育ちということで、自然と漂う気品や、誰に対しても分け隔てなく接するような、フラットでナチュラルなたたずまいが後輩から慕われているのではないでしょうか」と、彼女の魅力について分析する。 「木村拓哉と共演した『ラブジェネレーション』や『HERO』が代表作として挙げられると思いますが、個人的には『古畑任三郎』のセカンドシーズン『魔術師の選択』の、山城新伍演じるマジシャンの娘・サキ役も印象に残っています。近年では『カルテット』や『大豆田とわ子~』など、坂元裕二脚本作品で抜群の存在感を放ち、彼女ならではの独自のポジションを築き上げています。一方、舞台では蜷川幸雄、劇団☆新感線、野田秀樹、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、長塚圭史、松尾スズキといったそうそうたる顔ぶれが彼女を起用しています。にじみ出る気高さと内に秘めた熱情を併せ持つ彼女なら、これから先、どんな役も演じることができるはずです」  華やかさ、上品さ、強さ、はかなさ……。さまざまな顔を併せ持つ女優・松たか子の魅力は、今後も人を引き付けてやまないだろう。(高梨歩)
「日本のトップ女優のギャラは白菜価格」 日本芸能界のギャラ“破格の安値”に中国人が驚愕
「日本のトップ女優のギャラは白菜価格」 日本芸能界のギャラ“破格の安値”に中国人が驚愕 中国メディアでも「ギャラ」について言及されたという米倉涼子と松嶋菜々子  20年以上賃金が上がらない経済的停滞に加え、昨今の円安により、海外では「安い日本」というイメージが広がりつつある。こうしたなか、最近中国では、日本ではあまり触れられない「芸能人のギャラ」に関する記事が話題になっている。 「NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、中国でも多くのファンがいる小栗旬や新垣結衣、生田斗真が出演しており、注目度が高くSNSでもよく話題になっています。中国国営メディアも視聴率や出演者にまつわる情報を配信するほど。そうした状況で、『女性自身』(光文社)が3月に報じた同ドラマの出演者の推定ギャラが中国メディアに引用され、日本のトップ俳優たちの報酬がなぜこんなにも安いのか、驚きを持って報じられたのです。SNSでは『安すぎる』『ゼロの数が一つ足りないくらいだ』という声があふれていました」(中国ウオッチャー)  出演料に関して報じた中国メディア「捜狐新聞」(4月16日)のタイトルは「日本の俳優のギャラはどれほど安いのか? 中国と比較するとその違いに驚愕する」というもの。1位の西田敏行に関しては「過去13回に渡り大河ドラマに出演し、VIP待遇であるはずの西田敏行のギャラが1話当たり3.7万元(70万円)であることは予想外だ」と伝えている。  似たような報道は他にも。「澎湃新聞」(2021年12月21)は、「日本のトップ女優のギャラはなぜ“白菜価格(破格の安値の意)”なのか」と、日本の週刊誌が伝えた米倉涼子や松嶋菜々子のドラマの推定ギャラ報道を引用。同じく「網易新聞」(22年1月5日)も、「中国国内の女優と比較し、日本の女優のギャラは安すぎる」と報じ、「日本のトップ女優のドラマ1クールのギャラは、中国のトップ女優の2日分のギャラにも届かない」と伝えている。過去にも「新垣結衣の収入は中国の4~5流の女優と同じくらい安い」という記事もあった(「遊侠網」2017年8月4日)  サラリーマン同様、芸能人のギャラも十数年変わっていないということか。一方、中国の芸能界は近年、ギャラの高騰が社会問題化している。中国事情に詳しいライターの広瀬大介氏は言う。 中国でも人気が高い新垣結衣 「例えば、中国では2018年に放映された連続ドラマ『如懿伝 ~紫禁城に散る宿命の王妃~』の主演女優・周迅(ジョウ・シュン)のギャラは30億円だったと国営メディアが報じています。脱税疑惑で日本でも話題となった女優・范氷氷(ファン・ビンビン)も、中国の人気バラエティー番組『極限前進』の出演ギャラ(1シーズン)が6000万元(12億円)だったとも報じられています。しかし、最近では高額ギャラに対する庶民の批判の声が高まったせいで、映像コンテンツを管轄する国家新聞出版広電総局が2月に新たな基準を設けました。ドラマ・映画の制作にあたり、俳優へのギャラは制作費の40%を超えてはならず、最大で4000万元(約8億円)以下にするという取り決めです。これにより、人気俳優のギャラは半額以下になったと言われていますが、それでも日本に比べるとまだずいぶん高いですよね」 ■中国への「出稼ぎ」が加速する!?  中国は2001年のWTO(世界貿易機関)加盟を機に、映像コンテンツの世界輸出を活発化させている。世界水準のレベルを目指し、商業化のための技術革新も進んだ。2015年頃からはインターネット配信も隆盛を極め、世界輸出がさらに加速。ハリウッドを超えるドル箱産業へと急成長を遂げていった。制作費が桁違いなだけに、演者へのギャラも相対的に高くなっていったのだ。 「日本ではテレビ離れが叫ばれて久しいですが、中国では大都市部以外はまだまだテレビの影響力が強い。各局のCM広告収入も日本とは桁違いで、番組スポンサーである企業もCM枠の奪い合いになっているほど。出演者へのギャラも高くなるのは当然でしょう」(前出の中国ウオッチャー)  日中の芸能人の「ギャラ格差」は今後、人材流出を生み出す要因となるかもしれない。ジャーナリストの周来友氏は言う。 「私は日本で約20年間、テレビの仕事に携わっていますが、ギャラは年々下がっていますよ(笑)。一方、中国のエンタメ業界は、10年くらい前まで視聴率や話題作りのため、高額な海外タレントを招聘して番組を制作していました。しかし今は逆に国内の芸能人のギャラが高すぎるので、海外タレントを呼んでくる流れになっています。今後は、日本の芸能人も中国に出稼ぎに行くような時代が来るでしょう。例えば人気番組の場合、単発での出演でも日本のドラマ1クールと同額のギャラになりますからね。ただし、向こうのテレビに出たければ、中国政府にこびるような言動やリップサービスをしなければいけないので、その覚悟を持って中国進出しようとする日本の芸能人はまだ少ないかもしれません」  日本の芸能人は、今や中国では「同情すべき存在」となっているのだろうか。日本エンタメ界の巻き返しを期待したい。(山重慶子)
今季は阪神・佐藤輝明がブレークも、「大卒スラッガー」の“成功率”は高くない?
今季は阪神・佐藤輝明がブレークも、「大卒スラッガー」の“成功率”は高くない? 慶応大時代の伊藤隼太 (c)朝日新聞社  今年はルーキーの当たり年と言われているが、ここまでで最も強烈なインパクトを残しているのはやはり佐藤輝明(阪神)になるだろう。開幕直後から順調にホームランを量産。交流戦でもその勢いは衰えることはなく、6月25日終了時点(以下、成績はすべて同日時点)で村上宗隆(ヤクルト)、岡本和真(巨人)に次ぐセ・リーグ3位の19本塁打を放ち、タイトル争いにも加わっているのだ。  シーズン序盤は2割台前半だった打率も徐々に上昇し、現在は2割台後半で推移している。4球団競合のドラフト1位ということで当然期待は大きかったが、ここまで活躍すると考えていた人は少なかったはずだ。  佐藤のような強打者タイプはプロで苦労することが多いと言われているが、果たしてどうだったのか。2000年以降に上位指名でプロ入りした大学生スラッガーを見てみると以下のような顔ぶれとなっている(現役選手は6月25日終了時点)。 ■阿部慎之助(中央大→2000年巨人1位) 1年目:87安打13本塁打 打率.225  通算:2132安打406本塁打 打率.284 ■広瀬純(法政大→2000年広島2位) 1年目:30安打1本塁打 打率.286  通算:595安打51本塁打 打率.273 ■喜多隆志(慶応大→2001年ロッテ1巡目) 1年目:11安打0本塁打 打率.220  通算:22安打0本塁打 打率.227 ■村田修一(日本大→2002年横浜自由枠) 1年目:74安打25本塁打 打率.224  通算:1865安打360本塁打 打率.269 ■後藤武敏(法政大→2002年西武自由枠) 1年目:66安打11本塁打 打率.262  通算:312安打52本塁打 打率.254 ■松田宣浩(亜細亜大→2005年ソフトバンク希望枠) 1年目:43安打3本塁打 打率.211  通算:1785安打295本塁打 打率.267 ■武内晋一(早稲田大→2005年ヤクルト希望枠) 1年目:2安打1本塁打 打率.083  通算:256安打22本塁打 打率.222 ■岩本貴裕(亜細亜大→2008年広島1位) 1年目:5安打0本塁打 打率.152  通算:240安打31本塁打 打率.253 ■柳田悠岐(広島経済大→2010年ソフトバンク2位) 1年目:0安打0本塁打 打率.000  通算:1182安打204本塁打 打率.319 ■伊藤隼太(慶応大→2011年阪神1位) 1年目:8安打1本塁打 打率.148  通算:154安打10本塁打 打率.240 ■山川穂高(富士大→2013年西武2位) 1年目:3安打2本塁打 打率.100  通算:498安打164本塁打 打率.257 ■吉田正尚(青山学院大→2015年オリックス1位) 1年目:67安打10本塁打 打率.290  通算:703安打104本塁打 打率.325 ■大山悠輔(白鴎大→2016年阪神1位) 1年目:47安打7本塁打 打率.237  通算:459安打68本塁打 打率.267 ■岩見雅紀(慶応大→2017年楽天2位) 1年目:0安打0本塁打 打率.000  通算:9安打1本塁打 打率.132 ■中山翔太(法政大→2018年ヤクルト2位) 1年目:28安打5本塁打 打率.289  通算:40安打9本塁打 打率.256 ■伊藤裕季也(立正大→2018年DeNA2位) 1年目:15安打4本塁打 打率.288  通算:19安打4本塁打 打率.288 ■頓宮裕真(亜細亜大→2018年オリックス2位) 1年目:18安打3本塁打 打率.198  通算:54安打10本塁打 打率.240  17人のうち完全なチームの中軸となった選手は阿部、村田、松田、柳田、山川、吉田、大山の7人となっており、意外に多い印象を受ける。しかし1年目に100安打をクリアした選手は0で、二桁本塁打も阿部、村田、後藤、吉田の4人にとどまっている。現在は球界を代表する強打者となった松田、柳田、山川も1年目にはプロの壁に苦しんでおり、大学卒でもスラッガーはある程度時間がかかるという傾向は間違いないだろう。  一つ意外だったのが、大学球界で最も注目度の高い東京六大学出身の選手が苦戦しているという点だ。過去には高橋由伸(慶応大→1997年巨人1位)が1年目から19本塁打、打率.300をマークしてその後も不動の中軸として活躍しているが、今回ピックアップした広瀬、喜多、後藤、武内、伊藤、岩見、中山の7人はいずれも期待された通りの活躍を見せていない。  一方で柳田、山川、大山といったいわゆる地方大学出身のスラッガーはチームの中軸へと成長している。注目度の低いリーグでそれだけ高い評価を得たという点もありそうだが、スラッガーに関しては主要リーグだから安心というわけではなさそうだ。  改めて佐藤の成績を見てみると71安打、19本塁打、打率.281となっており、このペースでいけば1年目の成績では過去20年間でトップの数字となる可能性は極めて高い。いかに佐藤がルーキーとして規格外の成績を残しているかがよく分かるだろう。  今後は1968年に長嶋茂雄(立教大→巨人)が記録した153安打、29本塁打、打率.305、1969年に桑田武(中央大→大洋)が記録した117安打、31本塁打、打率.269という数字にどこまで迫れるかが話題となりそうだ。更に牧秀悟(DeNA)も73安打、11本塁打、打率.287と見事な成績を残しており、歴代の大学生スラッガーではトップクラスとなる可能性を秘めている。この2人の活躍に触発されて、来年以降も大学球界からプロを代表するようなスラッガーが多く輩出されることを期待したい。(文・西尾典文) ●プロフィール 西尾典文/1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間300試合以上を現場で取材し、執筆活動を行っている。ドラフト情報を研究する団体「プロアマ野球研究所(PABBlab)」主任研究員
ヤクルト、際立つ「選手再生」の上手さ 野村監督時代から今も続く“お家芸”の歴史
ヤクルト、際立つ「選手再生」の上手さ 野村監督時代から今も続く“お家芸”の歴史 ヤクルト時代の吉井理人 (c)朝日新聞社 「パ・リーグを知ってる選手がけっこう多いので、ウチは。いろんな思いがある選手もたくさんいるでしょうし、そういう見方をしても面白いんじゃないですか。(交流戦を)楽しみにしてます」  2年ぶりに開催されるセ・パ交流戦を目前に控え、そう話したのはヤクルトの高津臣吾監督である。確かにヤクルトには、一部のファンから「パリコレ(パ・リーグコレクションの意)」と言われるほど、パ・リーグ経験者が多い。  交流戦が開幕した5月25日現在の一軍メンバーでいえば、投手で今野龍太(前楽天)、近藤弘樹(前楽天)、リック・バンデンハーク(前ソフトバンク)、野手では嶋基宏(前楽天)、内川聖一(前ソフトバンク)と5人を数え、さらにファームには投手の高梨裕稔(前日本ハム)、長谷川宙輝(前ソフトバンク)、宮台康平(前日本ハム)、小澤怜史(前ソフトバンク、育成)、野手の太田賢吾(前日本ハム)、坂口智隆(前オリックス)と、パ・リーグ球団に在籍していた選手が6人いる。ヤクルトの選手は支配下、育成合わせて73名なので、実に15%が元パ・リーグということだ。  中には高梨と太田のようなトレード組もいるが、大半は前の所属球団を自由契約となった選手。もっとも、ヤクルトには古くから他球団でくすぶっていた選手や、お払い箱になった選手を獲得しては、戦力として活用してきた伝統がある。そう、「ヤクルト再生工場」である。  そのルーツは、野村克也監督が指揮を執っていた1990年代に遡る。もちろん、それ以前にもそうした選手がいなかったわけではない。ただし「再生工場」というフレーズが使われるようになったのは、 野村監督の時代だ。  もともとは「ヤクルト─」ではなく「野村再生工場」だった。野村監督には捕手兼任監督だった南海(現在のソフトバンク)時代にも、他球団から獲得した選手を“再生”した実績があったからだ。たとえば東映(現在の日本ハム)での0勝から、南海に移籍していきなり16勝を挙げた江本孟紀。巨人では8勝が最多ながら、南海1年目に20勝を達成した山内新一。阪神時代は大エースとして君臨も、南海移籍後は血行障害や心臓疾患などで先発としてカベに当たり、野村監督に口説かれて抑えに転向して最優秀救援投手に輝いた江夏豊も、その部類に入る。  ヤクルトでの「野村再生工場」第1号は、プロ入りからの5年間で3度の2ケタ勝利をマークしながら、89年限りで日本ハムを戦力外となった金沢次男になるだろう。ヤクルト移籍の時点で既に31歳だった金沢は、初年度の90年に自己最多を更新する37試合に登板し、6勝(7敗)、5セーブをマーク。サイドスロー転向後の92年は40試合(先発6試合)、翌93年は31試合(先発1試合)に登板し、チームが15年ぶりの日本一に輝いた93年の日本シリーズでは、3試合に投げて防御率0.96を記録している。  91年には、西武を戦力外となった広瀬新太郎を獲得。野村監督と同じ京都府京丹後市生まれ、峰山高校出身の左腕は、かつてドラフト1位で入団した古巣・大洋(現在のDeNA)との試合で6年ぶりの白星を手にする。これが故郷の大先輩にとっての監督通算600勝目ということで、広瀬も大いに脚光を浴びた。  その後も巨人のリリーフエースとして鳴らした角盈男、同じ巨人で左のエース格だった新浦壽夫、西武時代にベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)に輝いた金森栄治といった選手を獲得すると、適材適所で起用して92年から2年連続セ・リーグ優勝、そして93年は日本一。この頃から「再生工場」という言葉が、頻繁に用いられるようになる。  その後も吉井理人(現ロッテコーチ)、辻発彦(現西武監督)といったベテランが野村監督の下で“再生”。広島で四番を打った小早川毅彦は戦力外通告を受けて97年にヤクルトに移籍すると、開幕戦で巨人のエース・斎藤雅樹から3打席連続ホームランを放つなど、最後のひと花を咲かせた。  実績ある選手だけではない。ダイエー(現在のソフトバンク)時代は4年間で2勝止まりだった田畑一也(現社会人テイ・エス テックコーチ)は、ヤクルト移籍と共に2年連続2ケタ勝利と大ブレイク。戦力外ではなく交換トレードでの移籍だったが、田畑自身はのちに「投手がいないと言われていたダイエーからのトレードで、見返してやろうっていう気持ちしかなかった」と振り返っている。  野村監督の退団後も、若松勉監督の下でダイエーを戦力外となったサウスポーの高木晃次や、オリックスからトレードで獲得したスラッガーの高橋智を“再生”。4年ぶりのリーグ優勝、そして日本一に上りつめた2001年は、それぞれオリックス、巨人を戦力外となった前田浩継、入来智が先発ローテーションの一角として貢献するなど、代替わりをしても「再生工場」はヤクルトの代名詞として残った。  これらの例を見てもわかるとおり、「再生工場」の選手には2つのタイプがある。1つはひとかどの実績を残しながらも、既にピークは過ぎたと見られていた選手。もう1つは持てる力を出せないまま、くすぶっていた選手である。  その後の時代でいえば、西武でバリバリのレギュラーとして活躍しながら、戦力外通告を受けて若松監督時代のヤクルトに移籍し、ベストナインとカムバック賞に輝いた鈴木健は前者。ドラフト1位で入団した中日では一軍出場はほとんどなく、トライアウト経由で高田繁監督時代のヤクルトに移籍して、のちにレギュラーにまでなった森岡良介(現ヤクルトコーチ)は後者ということになるだろう。  近年の「ヤクルト再生工場」では近藤一樹(現独立リーグ香川)、大松尚逸(現ヤクルト二軍コーチ)などが前者に当たるが、この流れを汲むのが昨年限りでソフトバンクを戦力外となった内川だ。横浜(現在のDeNA)時代の2008年、ソフトバンク時代の2011年と、プロ野球史上でも2人目の両リーグ首位打者に輝きながら、昨年は一軍の舞台に立つことなく退団。ヤクルトと契約した今シーズンは、開幕から五番バッターを任された。  3月末にPCR検査で陽性判定を受けた選手の濃厚接触者として特定され、2週間の自宅待機を余儀なくされると、復帰後に上半身のコンディション不良により離脱。それでも交流戦から再び一軍に合流し、高津監督も「今は代打としてですけど、非常に期待しています。(彼の)名前があるだけで相手にかかるプレッシャーも違うでしょうし、いい場面で1本を期待しています」と、熱視線を送る。  一方、近年の山中浩史、鵜久森淳志らに続き、後者の系譜を継ぐのが、いずれも楽天を戦力外となった今野であり、近藤だ。特に近藤は「自分の持ち味」という高速シュートを武器に、ここまでヤクルト再生工場史上に残りそうな働きを見せていたが、5月26日の日本ハム戦(神宮) で1球投げたところで緊急降板。 翌27日に登録を抹消されてしまった。  昨年オフに一度は育成契約でヤクルト入りしたその近藤は、3月に支配下契約を結んだ際に「(戦力外通告を受けて)1回死んだ身。そこを拾ってもらってるんで」と話していた。これはここ数年のヤクルト再生工場の選手たちの多くが口にしてきた言葉でもある。そこにはかつての田畑と同じように「見返してやろう」という気持ちもあるはずで、その思いが“再生”の原動力の1つになっているのは間違いない。  今シーズンでいえば、そんな再生工場の系譜を継ぐ男たちのほとんどが「パリコレ」。彼らが古巣との対戦にどんな思いで臨み、どんなパフォーマンスを見せるのか。交流戦においては、それも見どころの1つになりそうだ。(文・菊田康彦) ●プロフィール 菊田康彦 1966年生まれ。静岡県出身。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身。2004~08年『スカパーMLBライブ』、16~17年『スポナビライブMLB』出演。プロ野球は10年からヤクルトの取材を続けている。
広瀬隆「即刻、全原発廃炉しかない」 除染作業が続く現実 #あれから私は
広瀬隆「即刻、全原発廃炉しかない」 除染作業が続く現実 #あれから私は 爆発で上部が吹き飛んだ同原発3号機の原子炉建屋=2011年11月 (c)朝日新聞社 『東京に原発を!』など多くの著書を通して40年にわたって原発の危険性を訴えてきた作家・広瀬隆さん(78)は、福島第一原発事故10年に何を思うのか。本誌で連載した「原発破局を阻止せよ!」スペシャル版として、寄稿してもらった。 *  *  *  今年2月13日夜、福島県沖でマグニチュード7.3の大地震が起こって、原発がずらりと並ぶ浜通りで、最強の揺れ震度7とほとんど同じ「震度6強」の揺れとなった。東京でも、揺れがだんだん大きくなり、いつまでも揺れているので、10年前を思い出してこわかった。「相馬市で常磐自動車道に崖崩れが起こり、通行不能」というニュースが出たが、このあたりの人口は10年前の福島原発事故前の4分の1程度に激減しているんだよ。福島原発の至近距離を通る国道6号線が開通したのは2014年9月で、その時、東京の200倍の放射線量なので、自動車の外に出られないどころか車の窓も開けられなかった。今回の地震で崩れたのは、それと並行してやや西側を走る常磐自動車道で、同年12月に開通した時、オートバイは走行禁止だった。意味が分かる? 自動車の中にいれば何とか呼吸してもいいが、オートバイの運転手は危ない。それより原発に近い国道6号にあるJヴィレッジでは、平均的な放射線量の1000倍を超えたが、そこから東京オリンピック聖火リレーをスタートしようとしてきたのだ。  日本には、2021年3月現在、二つの緊急事態宣言が発令中である。コロナの緊急事態宣言は誰にも理解できるが、原子力緊急事態宣言は2011年に発令されてからもうすでに10年たっても、まだ発令中である。なぜかって? 福島第一原発が爆発して、大量に放出された放射性セシウム137は、大地と山中に降り積もり、放射能の半減期が30年なので、30年で半分にしかならない。セシウムの放射能が安全な1000分の1まで減るのに計算すると300年かかるんだ。今の科学では自然消滅を待つしかない。300年前というのは、江戸時代の第八代将軍・徳川吉宗の治世だ。このセシウムは永遠にゼロにならない。福島原発事故からもう10年もたったんじゃなくて、まだ10年しかたっていないから、緊急事態が続いているのだ。セシウムだけでなく、半減期28年以上のストロンチウム90も、どこにも消えないから、グルグルと日本の国内をまわっている。事故で避難した人にとって、放射能というのは背中に貼り付いたようにおそろしい言葉だという。福島県の住民は、震災の時にガソリンがなくて、放射能から逃れられなくなる恐怖を味わったから、いまだに自動車のガソリンを満タンの半分以下にできない。今も第一原発から出続け、漏れている放射能をおそれているのは、当然のことだ。  東京都+神奈川県+埼玉県+千葉県を首都圏と呼んでいるが、この1都3県をちょうど合計した面積が福島県で、福島県は、東京都の6.3倍だ。この広大な地域のかなりの部分が、放射能に汚染されて住めなくなり、住民は遠くに追い立てられ、戻れなくなった。日本がどれほど長い歴史をもっていても、こんなことは初めての出来事だ。言い換えると、農業県の福島県から、大量の食べ物を送ってもらって生きてきたのが、食料自給率1%、ほとんどゼロの東京都だった。そもそもオリンピックを、なぜ日本で開催するのかね。  10年前に自衛隊がフル装備で装甲車に乗ってきたのを見て驚愕(きょうがく)して逃げた人たちの自宅は、この10年の間に、野生のイノシシや猿やハクビシンや、泥棒の侵入によって、原野のように日々ますます荒れ果てていった。恋しい自宅を何度か訪れるうち、「こりゃダメだ」と感じて、最後は更地にするしか手がなかった。家も解体されて、更地になった。原発事故のために、帰る場所がなくなったのだ。  福島第一原発がある大熊町と双葉町で、避難指示が解除され、「3000億円もかけて除染したから、自宅に帰って下さい」という地域でも、若い人は放射能の寿命を知っているので戻らない。帰る人は数少なく、高齢者ばかりで、一番多いのは70代で、その中でも車の運転のできる人だけだ。除染したと言っても、里山は手つかずだから、よく言われるのは「除染したが、再び線量が上がってきた」という話だ。2019年10月の19号台風で福島県は大被害にあった。川は氾濫(はんらん)して決壊し、高濃度に汚染された山林の土砂が崩れて、道路へ、農地へ、住宅へと流れ出した。「安全です」と言ってくれるが、その後、何年過ぎても除染作業が続いている。放射能を取り除いたはずなのに、変だと思わない? コロナと同じかね。いや、コロナはいつか終息するけれど、放射能は永遠に消えないんだ。病院もないところへ若い娘や息子に戻ってこいと言えるかね。  避難者は10年前に、車を降りた時「ここで息していいの?」と言い合って、平均で6~7回も避難場所を転々としてきたので、精神状態は極限に追い込まれてきた。多くの高齢者は避難中に半身麻痺(まひ)になって歩けなくなり、時には死にたいと思うこともあり、自ら命を絶つ事件が続発する。この人たちが生きてきたことが不思議なくらいだ。1年前の2020年3月、警察庁がまとめた東日本大震災の死者は1万5899人・行方不明2529人だったが、思い返すと、まだ助けられた津波被害者を、放射能のために後ろ髪をひかれる思いで残してきたことは、悔やんでも悔やみ切れない、と言っている。震災関連死(昨年12月25日発表値)は岩手469人/宮城929人/福島2313人で福島が断トツだ。震災関連死というよりも明らかに原発関連死である。実際は3000人を超えている。地震津波だけではなく、原発事故が起こったからこうなった。  福島第一原発の汚染水はどんどん増え続けるので、国は海に流すことだけを考えているが、この汚染水の主成分トリチウムは、セシウムの放射能より質が悪くて、遺伝子の水素を消してゆくから、おそろしいことに、子供に伝える親の遺伝子DNAがバラバラになって、子供たちに重大な障害を起こす。それを風評被害と呼ぶのは科学的に間違いだ。  汚染土を公共事業で再利用する計画を目論(もくろ)んでいるのが環境省だ。安倍晋三内閣以来、菅義偉内閣でも環境大臣は小泉進次郎で、この男が全国へ放射性物質をバラまくのだ。全国の道路や防潮堤などの建設資材として再利用しようとしている。  われわれ日本人は内心で、いつまた同様の巨大事故が起きるかもしれないという、大きな不安を抱いている。何しろ2016年4月の熊本地震で最強の震度7を観測し、2018年の北海道胆振(いぶり)東部地震でも最強の震度7を観測し、日本列島の全原発と六ケ所再処理工場、東海再処理工場が、放射能のかたまりである行き場のない大量の使用済み核燃料を、不安定なプールに抱えているからだ。いつどこで大地震による大事故が起こってもおかしくない。なぜ、即刻、全原発を廃炉にして、完全な対策を講じないのだ。この愚かな国民は、いつまでこのような政治家を信頼して命を預けているのだ。愚かと言われたくなければ、頭を使えよ! ※週刊朝日  2021年3月19日号
【祝15周年!】KAT-TUNが「週刊朝日」の表紙&グラビア&インタビュー計9ページに登場!/コロナ・ワクチンの“タブー”も大検証
【祝15周年!】KAT-TUNが「週刊朝日」の表紙&グラビア&インタビュー計9ページに登場!/コロナ・ワクチンの“タブー”も大検証 週刊朝日3月19日号 表紙はKAT-TUN! ※アマゾンで予約受付中  3年ぶりとなるシングル「Roar」を発表するKAT-TUNの3人がカラーグラビアとスペシャルインタビューに登場。デビュー15周年を迎え、3月からは2年ぶりに全国でライブを行う予定です。現在の心境や、メンバーやファンに対する思い、コロナ禍での活動についてなど、たっぷりうかがいました。他にも、コロナワクチンの危険な「副反応」や放置される日本発の治療薬などのタブーに迫った特集記事、東日本大震災から10年後の被災地や原発問題の現状、東大合格名門校の40年の変遷など、豊富なラインナップでお届けします。  今年デビュー15周年を迎えるKAT-TUNの3人にスペシャルインタビュー。亀梨和也さんはコロナ禍での活動について「求めていただいているファンの皆さんに対して、どうお返しがでてきるかが大切。その中で自分が提示したいもの、自分らしさというもののバランスをとって発信していきたい」と語りました。上田竜也さんはジュニア時代、ジャニー喜多川さんに「ユー、芝居がすごくいい」と褒めてもらった言葉を今でも大事にしていると告白。中丸雄一さんは、「とにかく心の底から楽しむ気持ちを大事にしていきたいですね」と、これからについて語りました。メンバーお互いやファンについて3人がどう考えているのか、じっくり語っていただいた貴重なインタビューとなりました。  ほかの注目コンテンツは、 ●ワクチン「タブー」を大検証! 危険な「副反応」と日本発治療薬が放置される理由 コロナ禍から人類を救う切り札と期待されているワクチン。しかし、海外では米大リーグで活躍したハンク・アーロン氏(享年86)など、接種後に死亡したケースがいくつかあります。これらのケースでワクチンとの関連性は確認されていませんが、「ワクチン接種と突然死には深い関連がある」と指摘する専門家も。気になるワクチンのリスクについて取材しました。また、ノーベル医学生理学賞受賞者の大村智氏が発見した抗寄生虫薬「イベルメクチン」が、コロナ治療に効果が期待されているにもかかわらず見逃されている背景も取材しました。 ●忘れない「3・11」。東日本大震災被災地と原発問題の今を14ページ総力特集 東日本大震災からまもなく10年。被災地となった東北3県の地元誌が選ぶ「お取り寄せ18名品」や、当時の教訓を生かして入居者を守る「震災に負けないケアハウス」など、いまだ続く復興に向けた動きを追いました。一方、原発問題については、難航する福島第一原発の廃炉作業で実現可能か分からない作業に1兆円をこえる国費が投じられようとしている現状をリポート。ジャーリストの広瀬隆さんや元経産省官僚の古賀茂明さんによる寄稿も必見です。 ●東大合格名門校40年の変遷 合格者ランキングは全国有名私立163大学総集編 東大の一般選抜の合格発表は3月10日。過去40年の合格者数ランキングを見ると、数字を大きく伸ばした高校もあれば、長期の減少傾向からの復活を狙う高校も。有名進学校として知られる国公私立の4校を取り上げ、数字の裏側に迫りました。また、コロナ禍でも人気の私大「勝ち組」4学部も紹介。毎年恒例の大学合格ランキングは第2弾、全国有名私立163大学の総集編をお届けします。 週刊朝日 2021年 3/19増大号 発売日:2021年3月8日(月曜日) 定価:本体391円+税 ※アマゾンで予約受付中!
脳科学が解明したプロ棋士とアマチュアの差 「長考に妙手なし」の通りの結果に
脳科学が解明したプロ棋士とアマチュアの差 「長考に妙手なし」の通りの結果に 個性豊かな棋士たちの「脳内」を知りたくなるのは将棋ファンだけではないはずだ/2019年1月、朝日杯将棋オープン戦での糸谷哲郎八段(写真右)と藤井聡太七段(当時) (c)朝日新聞社 羽生善治九段は、4分割した盤面が脳内で高速スライドするイメージだった(本誌2012年9月17日号から)(写真:高井正彦) 渡辺明名人の脳内イメージは、ダークグレーの空間に駒の形や文字もはっきり浮かばない「暗黒星雲型」だった(本誌12年9月17日号から)(写真:高井正彦)  神秘ともいうべき棋士の頭脳は、これまでも長い時間をかけて研究されてきた。棋力に影響するものとは何か。天才たちの「脳」はこうしてできている。AERA 2020年10月5日号は専門家に取材。プロ棋士とアマチュアの差とは――。 *  *  *  いずれ劣らぬ天才たちの必死の攻防が感動を呼ぶ将棋世界。では、盤上で激しくしのぎを削り合う棋士たちの頭の中身はいったいどうなっているのだろう。将棋ファンならずとも気になるこの「脳内模様」は、脳科学の研究テーマとして存在し、AI(人工知能)全盛時代の今、新たな視点を加えて進化を続けている。 「将棋が強い人は、なんで将棋に強い興味を持つようになったのかという視点に注目しています。具体的には『尊敬』の感情がどう棋力に影響するのか、データを取るところから始めるつもりです」  東海大学情報通信学部の特任講師、中谷裕教さん(47)はこの10月から、東京大学と早稲田大学の将棋部員の協力を得て「将棋脳」科学の実験を再開する。中谷さんは2007年からの5年間、理化学研究所脳科学総合研究センターが日本将棋連盟や富士通などと共同で行った「将棋思考プロセス研究プロジェクト」で中心的役割を担った。将棋の駒の産地で知られる山形県出身で、自らもアマチュア初段の棋力を持つ、根っからの将棋ファンでもある。 ■糸谷八段は「9×9」  この時の調査では、70人のプロ棋士と115人のアマチュア高段者を被験者に、脳波測定やMRI検査で経験や知識に裏打ちされた棋士の「直観力」が、脳のどの部分の働きによるものかなどを解析。12年9月17日号の本誌でも「天才たちの『脳内パネル』」として特集し、羽生善治九段(50)や森内俊之九段(49)、渡辺明名人(36)らの頭の中で将棋盤がどう再現されているかを紹介した。  たとえば、羽生九段は81マスの盤面を4分割した部分図が高速スライドして脳内を動き回っていた。森内九段は盤や駒だけでなく対局室の小物までがオールカラーで脳内に浮かぶ超リアル型、渡辺名人は頭の中に盤自体がなくダークグレーの空間に駒の形や文字もはっきり浮かばない「暗黒星雲型」ともいうべきスタイルだった。  この暗黒星雲型に近い、暗い脳内に黒っぽい駒らしきものがうごめいているという共通項にくくられるのが、佐藤康光九段(50)、郷田真隆九段(49)、久保利明九段(45)、広瀬章人八段(33)、里見香奈女流四冠(28)の面々。最も個性的だったのは清水市代女流七段(51)で、色も形もそのとき次第で海の中を駒が泳いでいたり、動物が駒のお面をかぶって走る「ファンタジー型」だった。  ちなみに関西所属で同調査には参加していなかった糸谷哲郎八段(31)に「脳内パネル」をたずねてみると、こんな答えが返ってきた。 「私の場合は『9×9』のかっちりとした将棋盤が頭の中に出てきて、それを次々に動かしていきます。将棋中継みたいな感じですね」 ■プロアマで直観力に差  いずれにしても、棋士たちの脳内パネルにはかなりの個人差があった。中谷さんが言う。 「強い人には共通した何かがあるんだろうと思っていて、プロの方たちが違うふうに見えているとは想像できませんでした。しかし、人によって棋風や個性もあるし、研究は定量化しないと扱えないのでどう見えるかはあまり研究の材料にはならない。それより、MRI画像や脳波のデータでプロとアマチュアがどう違うかの方が重要でした」  理研の行ったこの調査で明らかになったのは、詰将棋課題などでのプロ棋士とアマチュアの「直観力」の精度の差だった。「長考に妙手なし」の諺(ことわざ)通り、思考時間が短いほど正答率が高い傾向は同じだったが、アマチュアの場合は正答率そのものが大幅に低かった。(編集部・大平誠) ※AERA 2020年10月5日号より抜粋
NHK朝ドラ「なつぞら」でなつの花嫁姿に草刈正雄が鼻水が出るほど泣いた理由
NHK朝ドラ「なつぞら」でなつの花嫁姿に草刈正雄が鼻水が出るほど泣いた理由    広瀬すずさん主演、大森寿美男さんオリジナル脚本の朝ドラ「なつぞら」で、頑固オヤジ泰樹を演じた草刈正雄さん。著書『人生に必要な知恵はすべてホンから学んだ』(朝日新書)で、なつの花嫁姿を見たときの涙はホンモノだったと明かしてくれました。草刈さんが他にも教えてくれた撮影裏話を、特別にお届けします。   *  *  * ■堰を切ったように涙があふれ出た  初夏、晩夏、秋、冬と4回くらいに分けて行われた北海道ロケでした。初回は6月に1カ月程滞在して、まだまだ寒い日も多かった。ロケには「炊き出し」の協力があり、地元の方々が食事をつくってくれました。小学生まで来てくれて、豚汁や牛乳でつくったスープを用意してくれたのです。これまた圧倒的に美味しくて。皆さんのでっかい優しさと一緒にジャガイモにしても豚肉にしても、いま居る大地の味をちゃんと教えてくれました。  それらが『なつぞら』のもうひとつの背景でした。北海道があって、地元の人々がいて、熟練スタッフが集まって、そこに芸達者の役者がずらりと集結して。さすがの役者陣、皆さん、化粧をしてそれぞれの衣裳を着たらもう自然にそのキャラで輝いている。素晴らしい光景です。  座長は、いうまでもなく、広瀬すずさん。主役のなつを演じるので出ずっぱりだったにもかかわらず、いつもへっちゃらの笑顔で並大抵じゃない根性の持ち主、天性の女優さんです。馬ともすぐに仲良くなったし、搾乳もうまかったなあ。最も忘れがたいのは、なつが嫁ぐ日のシーンでした。結婚式の当日、作業場からなかなか離れない泰樹を花嫁姿のなつが呼びに来る。  ハッとしました。  文字通り、息を呑みました。なつの生命力が白無垢に輝いていた。 <ありがとうな>、と泰樹。 <ありがとうはおかしいべさ。育ててくれた、じいちゃんが>と、なつ。 <わしもおまえに育ててもろおた。たくさん、たくさん夢もろおた>  突然、涙が溢れてきました。ぼろろ、ぼろろと堰を切ったように流れ出し、鼻水は出るわ涙は流れるわで止めようにも止められない。    理由があるんです。あとで知ったのですが、本番まで、演出の木村隆文さんがなつの姿を僕に見せないようにスタッフに指示していたのです。本番で初めてその花嫁姿を見た瞬間、驚きと同時に、喜びも寂しさもドォッと込み上げてきました。それにしても朝の番組です。じいさんの顔が鼻水でぐちゃぐちゃだったら、お茶の間には不快でしょう。すると木村さん、「あ、アレは消しますから」。ああそうか、いまはそういう時代なのか! 二度三度とその才腕にキメられました。  なつの結婚については、以前、泰樹は手痛い失敗をしています。  アニメーターを目指す以前のこと。なつを“本当の家族”にしたい余りに、清原翔くん演じる孫の照男と結婚させようとするのです。 <どして、そんなこと言うの! じいちゃんは、私から大事な家族を奪ったんだよ!>  泣きながら訴えるなつに狼狽する泰樹。以後、なつの東京行きの流れは止められようもなく、二人は別々の場所を“開拓”し続けることになるわけです。それから幾年月が流れての、なつの結婚でした。  泰樹はきっと知ったのでしょう。同志、仲間、血縁、家族。それぞれかたちの異なるつながりに見えても、人間同士のつながりに条件はないと。同時に僕も知りました。素直になれれば、自分以外は皆、師だと。感謝、感謝です。
滑り台みたいな道具はどう使う? パラ種目「ボッチャ」のうんちく4連発
滑り台みたいな道具はどう使う? パラ種目「ボッチャ」のうんちく4連発 パラリンピック・リオ大会のチーム戦で銀メダルを獲得した広瀬隆喜選手(左)/写真・朝日新聞社  話題になったニュースを子ども向けにやさしく解説してくれている、小中学生向けの月刊ニュースマガジン『ジュニアエラ』では、毎号、一つのスポーツを取り上げて、やっても見ても楽しくなるうんちく(深~い知識)を紹介。7月号は、ボッチャを取り上げたよ。 *  *  * 【競技の内容】  的となる白いボール(目標球)に自分のボールをどれだけ多く近づけられるかを競う。1984年からパラリンピックの正式種目となる。障害の程度や種類によって4クラス(BC1~4)に分けられ、各クラスの個人戦、3人制のチーム戦(BC1クラスの選手とBC2クラスの選手が一つのチームを組む)、2人制のペア戦(BC3クラス、BC4クラスそれぞれで実施)が行われる。 【ボッチャのうんちく4連発!】 (1)障害者のために生まれたスポーツ  ボッチャは、重度の脳性まひや四肢に障害がある人のためにヨーロッパで考案された。パラリンピックの正式種目で、五輪では実施されていないが、障害のあるなしに関係なく、老若男女すべての人が一緒に競い合えるスポーツとしても広まっている。「だれでも楽しめる」という障害者スポーツの理念を体現する競技だ。 (2)技術と戦略でボールを的に近づけろ!  2人が赤と青のボールを6球ずつ投げ、ジャックボールと呼ばれる的の白いボールにどちらがより近づけられるかを競う。的のボールの近くに投げるだけでなく、相手や自分のボール、的のボールに当てて位置を変えることも大切だ。正確な技術も、巧みな戦略も求められる。 (3)広瀬隆喜選手の得意技「ロビングボール」  日本のエース・広瀬隆喜選手の得意技は「ロビングボール」。ボールを転がすのではなく、空中から直接、ジャックボールに当てて動かす。技術的にとても難しいけれど、一発逆転も可能な大技だ。 (4)滑り台みたいな道具も使う!  ボールの投げ方は自由で、上から投げても下から投げてもいい。障害の程度や種類によって、足でボールを蹴ってもいいクラスや、「ランプ」と呼ばれる滑り台のような勾配具を使うクラスもある。高さを調節してスピードを速くしたり、遠い距離を狙ったりできる。手でボールを押し出せない選手は、「リリーサー」と呼ばれる補助具を頭や口に装着して投球を行う。アシスタントが投球をサポートするクラスもあるが、選手への助言や合図は禁じられている。 【東京パラで輝け! 広瀬隆喜 選手】 1984年、千葉県生まれ。先天性の脳性まひ(ボッチャのクラスはBC2)。現在は西尾レントオール所属。高校3年のときにボッチャを始める。日本選手権で優勝8回。パラリンピックは2008年北京大会から出場し、16年リオデジャネイロ大会ではチーム戦で銀メダルを獲得した。 【リオ大会で日本が銀メダル!】 2016年のパラリンピック・リオ大会(ブラジル)のチーム戦で、広瀬選手らの日本代表が、日本ボッチャ界初のメダル(銀)を獲得。もともと日本の強みであるチームワークと戦略に加え、技術や筋力も磨いた成果だ。 ※月刊ジュニアエラ 2020年7月号より
国生さゆり「バレンタイン・キッス」が34年の大定番になったのには理由がある
国生さゆり「バレンタイン・キッス」が34年の大定番になったのには理由がある アイドル時代の国生さゆり (C)朝日新聞社  2月14日はバレンタインデーだ。その盛り上がりに長年、貢献してきたのが国生さゆりのデビュー曲「バレンタイン・キッス」である。テレビのチョコレート特集では必ずというほど流れ、この時期の風物詩といっていい。  イベントソングとしての定番度では「クリスマス・イブ」(山下達郎)に匹敵するだろう。あるいは「冬の広瀬香美」「夏のTUBE」のように「バレンタインの国生」と呼ぶこともできそうだ。  そんな「バレンタイン・キッス」が発売されたのは、86年2月1日。つまり、34年にわたってこの時期に流れ続けているわけだ。この曲以外にもバレンタインものはあるのに、この強さは何なのか。そのあたりを検証してみたいのである。  まず、作詞者の秋元康はこんな分析をしている。 「彼女はそんなに歌が上手い方ではありませんでしたので、何かムーブメントと一緒に売り出さないと売れないなと思い、バレンタインデー用に書き下ろしました。(略)彼女の歌のあまり上手くないところが逆に効を奏して“バレンタインデー・キッス”という部分の、少々音をハズした不安定な感じがこの曲をヒットに導いたと言えます。アイドルの曲は通常、仮歌を入れる段階では音楽大学を出たおねえさんが譜面通りに歌ってくれるのですが、それをそのまま歌っても面白くない。つまり、彼女のあの不安定さがアイドルらしい“味”を出したと言えるんじゃないでしょうか」  02年に作詞活動20周年を記念して編まれたベスト盤「秋元流」の歌詞カードに記された彼自身のコメントだ。 ■秋元とそのスタッフたちの慧眼  国生はおニャン子クラブからソロデビューした3人目にあたるが、第1号の河合その子は歌唱力が高く、次の新田恵利は圧倒的人気があった。そこを補うべく、季節のイベントと結びつけたわけだ。  さらに、渡辺美奈代と白石麻子をバックコーラスとして参加させ、国生にはない正統的アイドル性を付け加えた。とまあ、使えるものは何でも使えという発想でヒットを狙ったのである。  ちなみに、秋元は「曲や振り付けなども含めてアメリカンポップスっぽい愛らしい感じになりました」とも語っているが、このメロディーは国生のために書かれたものではない。ミュージシャン志望だった瀬井広明が「バンドで出したい」とレコード会社に持ち込んだものを、本人了承のうえ、彼女のデビュー曲に回したかたちだ。途中に何度も繰り返されるドゥーワップ風のフレーズも、デモテープの段階から存在したという。  ただ、そのどこか懐かしくて親しみの持てるメロディーは、国生のたどたどしいボーカルやいい意味で野暮ったいキャラとも見事にハマった。これに目をつけた秋元とそのスタッフたちは慧眼というほかない。 ■「恋するフォーチュンクッキー」との共通点  そして後年、秋元はAKB48でもこの経験を活かしたふしがある。「恋するフォーチュンクッキー」を聴いたとき「バレンタイン・キッス」を思い出したものだ。スイーツと告白という題材、誰でも歌って踊れる古めのサウンド、そして何より、これは指原莉乃の初センター作品だった。歌唱力や正統的アイドル性ではない持ち味でブレイクした女の子を輝かせるにあたって、彼は国生での成功をヒントにしたのではないか。  さて、おニャン子はAKB以上に「女子高生」や「学園」というコンセプトにこだわったグループである。シングルでは、デビュー曲の「セーラー服」から「教師」「卒業」「チカン」といったテーマを続けて繰り出していった。  そこには阿久悠が70年代にフィンガー5で展開した世界からの影響が見てとれる。こちらは「卒業前の告白」「女教師への恋」「席替え」といったテーマを歌にしてみせた。  また、阿久は80年に柏原よしえ(現・芳恵)のセカンドシングルとして「毎日がバレンタイン」を書いた。阿久が亡くなったとき、秋元は交友こそなかったものの尊敬しているということから、自らを「遠くの弟子」だと表現したが、ある意味「バレンタイン・キッス」で「遠くの師匠」を超えたともいえる。  なお、秋元も阿久も作詞家としては企画型に分類できる。一方、芸術型の代表が松本隆だ。「バレンタイン・キッス」と同じ週には、松本の世界を受け継ごうとしたシングルが発売された。坂本龍一の曲に松田聖子が詞をつけた「くちびるNetwork」(岡田有希子)だ。  オリコンチャートでは後者が1位となり、前者は2位に甘んじた。ただ、レコード店での光景を見る限り「バレンタイン・キッス」のほうが明らかに売れていた印象で、これは当時も今も謎である。  また、のちの時代への残り方でも、さらには日本の文化にもたらした変化を考えても、前者が一枚上だろう。たとえば、松任谷由実がスキーやサーフィン、クリスマスの楽しみ方を広めたように、この曲はバレンタインというイベントを一気にメジャー化した。いわば、企画が芸術に勝利したのである。  とはいえ、秋元にすればこれも数あるヒットのひとつにすぎない。では、国生にとってはどうだろう。 ■長渕剛との不倫を経て  彼女は高校時代に、ミス・セブンティーンコンテストの全国大会に出場。ここでレコード会社に声をかけられたものの、デビューの確約はなく、自慢の快足を活かしたレコード会社対抗運動会くらいしか活躍できなかった。卒業後は就職も内定していたが、おニャン子のメンバーに選ばれたことで運命が一変する。 「バレンタイン・キッス」の勢いでその半年後には、カネボウのCMソングを自らも出演して歌うまでになった。翌年には映画「いとしのエリー」に主演するなど、女優としても活躍。ただ、90年代に入ると、別のイメージが加わり、失速してしまう。  長渕剛との不倫だ。91年のドラマ「しゃぼん玉」で出会い、恋に発展した。それが終わったのは、95年に長渕が大麻取締法違反で逮捕されたときである。彼女自身にもクスリ疑惑が浮上したが、 「長渕さんの奥さんと対面し、関係を清算することを約束しました」「尿検査を受けて無実です」  と、会見で語った。  00年には、一般人と結婚するも離婚。12年には、別の一般人と再婚したが、また離婚してしまう。15年には、メッセンジャーの黒田有との熱愛を報じられたが、破局した。  ただ、こうした恋愛遍歴によって加わったイメージが、よくも悪くも彼女を芸能界で生き延びさせてきたともいえる。特に、バラエティでは、恋多き女というキャラや自由で正直な物言いが重宝されてきた。もともと、おニャン子時代からヤンキーっぽいイメージでその系統の男子に人気のあった人だ。 ■「一生一度のチャンス」をものにした  18年には「梅沢富美男のズバッと聞きます!」で、過去を振り返り、 「自分の責任なんだけど。ちょっとやらかしすぎでしょ。恋愛も周りの人は止めたもん。だから、人のいうこと聞いておけば良かった」  と、反省の弁。こういうところが案外、憎めない魅力になっているのではないか。  さらにいえば、現在のイメージが面白がられるのも「バレンタイン・キッス」の成功が大きい。たったひとつであっても、特大の一発を持っていることが、彼女をひとかどの芸能人として一目置かせることにもつながっているのだ。 「バレンタイン・キッス」は他のアイドルやアーティストにもちょくちょくカバーされているし、彼女自身も何度かセルフリメイクしている。それほどの名曲にデビューでめぐりあえたのは、ひとつの奇跡である。それこそ「♪一年一度のチャンス」どころか「一生一度のチャンス」をものにしたわけだ。  そうは言っても、そろそろ新しいバレンタインソングの定番にも出現してほしい気がする。ただ、秋元自身、手持ちのアイドルで何度となくバレンタインソングに挑戦しているが、目を見張るような成果は上がっていない。「バレンタイン・キッス」の壁はとんでもなく高いのだろう。  実際、新たな定番が出現しても、国生が忘れられることはないはずだ。新旧のバレンタインソング共演みたいな企画に呼ばれて、嬉々として歌う、そんな姿が目に浮かぶようである。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。
岩井俊二と松たか子は共犯関係? 最新作に込められた「生きること」へのメッセージ
岩井俊二と松たか子は共犯関係? 最新作に込められた「生きること」へのメッセージ 岩井俊二(いわい・しゅんじ、右):1963年、仙台市生まれ。94年「undo」で映画監督デビュー。「Love Letter」(95年)が大ヒット。他に「スワロウテイル」(96年)など多数/松たか子(まつ・たかこ):1977年、東京都生まれ。主な出演映画に「告白」(2010年)、「夢売るふたり」(12年)、「小さいおうち」(14年)、「来る」(18年)。アニメ「アナと雪の女王」シリーズでエルサの声を担当(撮影/植田真紗美) 「ラストレター」は全国東宝系で公開中。出演はほかに広瀬すず、森七菜、神木隆之介、福山雅治など (c)2020「ラストレター」製作委員会  ヒット作品を次々と生み出す岩井俊二の最新映画「ラストレター」が公開中だ。SNS時代に「手紙」を題材にした意図とは? 監督の岩井と主演の松たか子が語り合った。 *  *  *  映画「ラストレター」は監督、岩井俊二の出身地、宮城が舞台。手紙の行き違いをきっかけに2世代の男女の恋愛と、それぞれの心の再生と成長を描く。主人公の裕里を演じるのは松たか子。岩井映画への出演は、ヒロイン・卯月を演じた「四月物語」(1998年)以来だ。 岩井俊二(以下、岩井):裕里に松さんというキャスティングは自然に浮かびました。でも、最近ふと、裕里は「四月物語」の卯月によく似ていると気づいたんです。裕里は卯月の20年後のような、延長線上にいる人物みたいな気がして。それもあって松さんというイメージが浮かんだのかなと。 松たか子(以下、松):私は最初、卯月と似ていることに気づきませんでしたが、お声掛けいただいた時は、私でいいのかなと思いつつもすごくうれしかったです。 岩井:「四月物語」は僕が無理やり「短編を撮らせてくれ」と事務所に頼んで実現させた作品なので、松さんとは共犯的な関係で作っていたという思いがあるんです。今回久しぶりに松さんと一緒に仕事をして、僕の中では勝手にアットホームな気分になっていました。すごく支えられた感じがします。 松:ありがとうございます。でも、卯月も裕里も恋は報われないんですよね……。本人たちはハッピーなんですが、端から見れば「それでいいんだ?」っていう感じのキャラクターです(笑)。 岩井:そうだね(笑)。裕里は娘時代から変な嘘をついたり、ポジションの取り方が最後まで報われないんだけどかわいらしい。夫役の庵野秀明さんとも良い雰囲気を出してくれました。 松:庵野さんがダンナさんと聞いた時は想像がつかなかったのですが、面白そう! と。実際撮影していくと、この人だったら全部正直に言っちゃうし、いろいろあっても戻ってくるなと思いました。ご一緒していて、とても楽しかったです。 岩井:裕里の初恋の相手、鏡史郎を演じるのが福山雅治さんだし、生々しい三角関係にならない方がいいなと思っていました。(裕里の姉の元恋人役の)豊川悦司さんが夫だったら、絶対にバトルになって物語が簡単に進まなくなるよなと(笑)。そこのさじ加減はありました。  SNSの時代にあえて「手紙」をモチーフにした。裕里は、鏡史郎に亡くなった姉と勘違いされたことで、姉になりすまして手紙を書く。真実が明らかになった時、裕里が鏡史郎に「お姉ちゃんの人生がまだ続いているような気がちょっとしました」と言うように、見る者は改めて、手紙が単なる伝言手段ではないことに気づく。 岩井:人が手紙というものを書いたり読んだりする姿は、時に神々しくも見える。撮影しながら素敵だなと感じることが多かったですね。 松:便箋に向かっている間、その人のために時間を割いて、その人のことを考え、思って綴っていく。やっぱりそれは心のこもったものになると思います。裕里が姉になりすまして手紙を書くことで、姉の人生が続いているような気がするというのは、もちろん「そんな気がする」であって、実際には「人生を終えた」という現実は変わらない。それでも、一生懸命生きた姉のことを思う裕里なりの表現の一つなのかなと思いました。「姉を大切にしてあげたい」という裕里の最後の嘘。そういう嘘はとても優しい愛情に溢れていると思います。 岩井:人の死について、僕は東日本大震災の時に強く思うところがあったんです。それ以前からも人の死って何なんだろうと考えていました。生きていても会っていない人もいる。それってお互いの間では死に匹敵することなのに、あまり問われないのが不思議だなって。そんなことを思っている時期に、SNSで懐かしい友達を見つけたのでメッセージを送ったんだけど、返事がなかった。それでプロフィルを追いかけたら、1年前に亡くなっていたんです。 松:知らぬ間にご友人が亡くなっているということが本当に起こっていたんですね。 岩井:そう。僕は震災後に石巻に行っていろんな話を伺いました。話の中に亡くなった方々がたくさん出てきたんですが、その数が尋常ではない。衝撃でした。その時、記憶ってすごいんだなと思ったんです。覚えているからその人は生きているんだなと。死んでいても気づかなければ生きていることになってしまうことも含めて。逆に、記憶がないと、自分の身は生きていると証明できても、他の人の生を認定できないことがある。そうした思いが、裕里のそのセリフに反映されたのかもしれません。ところで、松さんは普段、手紙を書きますか。 松:お礼状を書くくらいですね。私は母が一年中お礼状を書いている姿を見てきました。誕生日に「カードだけでも書いてね」と言われたり。だから、書くことは嫌いではありません。岩井さんはどうですか。 岩井:僕も手紙は上の世代の方々からいただいたお手紙へのお返事とかですね。久しぶりに書くと慣れてないので一字間違えては書き直し。気がつくと便箋1冊を使い切っている(笑)。「か」と書くつもりが「お」と書いちゃったりしますから。指が勝手に違う文字を書いちゃう。 松:えー、嘘!? 岩井:自分でも「なんでだよ」という間違いが多い。たまに書くとそういうことが起こります。 松:今回改めて岩井さんとまた出会えたこと、ご一緒したみなさんが素敵な方たちばかりで幸せでした。宮城の空気を感じながら撮影できたこともとてもよかった。撮影のための時間を贅沢に使えた現場だったなと思います。 岩井:僕がいつも映画づくりで思うのは、自分が完成品を作っているわけではないということ。あくまで材料を仕込んでお客さんが見て残ったものが多分、僕にとっての作品。なので、見た人の数だけ作品が残る気がするんです。この映画もどんな作品だったかをぜひ教えてください、という気持ちです。 (フリーランス記者・坂口さゆり) ※AERA 2020年1月27日号
電子書籍にはない「触感」を 装幀家・菊地信義のドキュメンタリー映画公開
電子書籍にはない「触感」を 装幀家・菊地信義のドキュメンタリー映画公開 菊地信義(きくち・のぶよし)/1943年、東京生まれ。77年に装幀者として独立。以来、中上健次や古井由吉、吉本隆明などの書籍の装幀を担当してきた。映画「つつんで、ひらいて」は12月14日から全国で順次公開(撮影/写真部・小山幸佑) 右から『サラダ記念日』(俵万智)、『決壊』(平野啓一郎)、『AMEBIC』(金原ひとみ)。「小説としての体=ものとしての紙の本なんです」(菊地さん)[撮影/写真部・張溢文(『サラダ記念日』)、マジックアワー提供(『決壊』、『AMEBIC』]  山口百恵の自叙伝『蒼い時』や俵万智の『サラダ記念日』など約1万5千冊の本の装幀を手掛けてきた装幀家・菊地信義さん。その仕事ぶりを追った映画が12月半ばに公開される。ヒット作の背景や紙の本への思いを聞いた。 *  *  * 「以前にもテレビ局から依頼はありましたが、『装幀家・菊地信義ありき』の提案ばかり。へそ曲がりの僕は、そういう枠から自分を撮られることが照れくさくて、嫌だったんです」  ドキュメンタリー映画「つつんで、ひらいて」について、装幀家の菊地信義さん(76)は言う。当初、広瀬奈々子監督(32)の依頼も断ったが、何度か会ううちに、ある共通点を見つける。 「僕のドキュメンタリーに対する考え方とは、意味やイメージで汚れた対象や物を、素っ裸にすること。広瀬さんには僕をもっと裸にしてみたいという興味を感じた。あ、僕と同じだなと」 「酒と戦後派」と書かれた紙をしわくちゃにしてコピーし、文字のカスレ具合を確認したり。タイトルの文字をはさみで切り、ピンセットで並べ、テープで留めて並べ方を調整したり。映画は菊地さんが手作業で丁寧にデザインする手元から、印刷や製本に至る工程を描いていく。本づくりもデジタル化が進む中、紙の本やアナログなものに対する菊地さんと広瀬監督の愛着が、ひしひしと伝わってくる。 「僕は言葉も『もの』だと思います。たとえば『愛』という言葉は、その意味と、愛という言葉の印象によって織り上げられた織物。それを入れる容器が本という『もの』。紙の本の魅力とは、『もの』の魅力です。僕の仕事はその『もの』の表層を作り、『読んでみたい』という思いを生み出し、言葉という『もの』に出会わせることです」  菊地さんが手掛けてきた本の中でも有名なものの一つが、俵万智さんの『サラダ記念日』(1987年)だろう。当時、一般書として短歌の本が出版されること自体がめずらしかったという。「とにかく売れるものに」という版元からの要請にひと思案した菊地さん。ある白黒写真の中の俵さんの顔に注目した。 「とても印象に残るお顔でしょ。文芸書のカバーに著者の顔を使うなんて例がなかったけど、これでいこう、と」  タイトル文字も、これまた文芸作品では異例の蛍光ピンクのローマ字表記にした。 「どこかの外国で出た日本人の文芸作品が、あまりにもそこでヒットしたので逆輸入され、日本語版を出しましたっていう風情にしようと。それが、ヒットの仕掛けのすべてです(笑)」  装幀は読者が本を手に取るきっかけになるもの。映画では「触感」というキーワードが何度も出てくる。ある紙の質感を「愛しい彼女の肌」と菊地さんが表現したり、印刷工場ではお気に入りの紙クロスに思わずある行為をしてしまう驚きの姿も。 「本を手に取り、『え? 何この紙、ただの紙に見えたけど少しザラついてる』と。そういう感覚が発生する一瞬に、その人の『私』が立ち上がり、言葉の世界に入っていく。その本の世界を読み始める最初のスイッチが、実は『触感』なんです。無意識の領域ですが、そこがとても大事です」  触感。電子書籍には、むろん望むべくもないものだろう。 「僕は、紙の本は絶対に消えないと思いますよ」  取材中、何度もきっぱりと、強く口にしたのが印象的だった。(編集部・小長光哲郎) ※AERA 2019年12月16日号
「ただ言葉が好き」 1万5千冊以上の装幀を手掛けた菊地信義の“仕事”
「ただ言葉が好き」 1万5千冊以上の装幀を手掛けた菊地信義の“仕事” 『つつんで、ひらいて』は12月14日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開 (c)2019「つつんで、ひらいて」製作委員会  装幀の力。それは、人の心に強く響く本の「顔」――。  装幀界の第一人者、菊地信義の創作現場に、一台のカメラが入った。約3年にわたり撮影された映画『つつんで、ひらいて』が、2019年12月14日にいよいよ公開される。「一冊の本」12月号(朝日新聞出版)に掲載された、広瀬奈々子監督の寄稿を、特別にお届けする。 *  *  * ■ルーティンを守りまっさらに  2018年3月。菊地信義さんと初めてお会いして4年、ドキュメンタリーを撮り始めて3年の時が経っていた。まだまだ撮りたい私と、もうそろそろ撮り終えてほしい菊地さんの我慢比べもいよいよ最終章。最後に、通勤風景を撮影させてほしいとお願いした。銀座の松屋ビルの出口で待ち合わせ、少し離れたところからカメラを構える。菊地さんは午前10時きっかりに現れた。回してますよ、とアイコンタクトをとる。通り過ぎた菊地さんの背中を追いかけ、通い詰めた仕事場までカメラを回した。  菊地さんの自宅は鎌倉にある。毎朝同じ時間の電車の同じ車両に乗って、約2時間かけて銀座の事務所に通う。仕事をする前に「樹の花」という喫茶店に立ち寄り、いつもと同じ奥の席でフレンチ・コーヒーを二杯飲む。服は頭から足のつま先まで全身真っ黒。仕事机は整理整頓され、その日に取り組む作品だけ出して机に向かう。玄関に置かれた大きな壺に、季節の花や実のなった枝が品良く生けてある。昼食も毎日同じ時間に取り、作業が終わっていなくても、17時か18時には事務所を後にする。  常にきちんとこのルーティンを守る菊地さんの律儀さは、デザイナーというより、まるでサラリーマンのようである。自分の決めたルールに従い、同じ関係性を維持し、淡々と仕事をこなしていく作家然としない態度の一つひとつに、装幀という仕事の本質を見ているような気がした。そうやってそれぞれの作品と対峙するために、毎日自分をまっさらにしていると菊地さんは言っていた。無理をしている風ではない。おそらく元来、気っ風がいいのだ。 ■自分ではなく言葉のために  ほとんどの装幀家がパソコンに移行して久しいが、菊地さんは従来通り、台紙に紙を切り貼りして本のデザインをしている。ピンセットで文字を置き、定規で線を引いて、幾度となく触り、凝視する。この文字があるべき位置を探り、0.1ミリまで微調整を繰り返す。 「ひらがなの、『の』を1ミリ左にしてくれる?」  振り返りもせずに背中でそう言うと、敷居の壁の向こうから、ややぶっきらぼうに「はぁい」という声が返ってくる。今や、紙でデザインする、このアナログな方法を続けるには、菊地さんの右腕であるアシスタントの神保博美さんがいなければ成立しない。納品自体はデータなので、菊地さんの版下をもとに神保さんが最終仕上げをする段取りだ。  30年以上、この関係性は変わっていない。アシスタントといっても仕事内容は徹底して装幀のフィニッシュワーク。例えば来客があったとき、神保さんがお茶汲みをするわけではない。主従関係というより、プロフェッショナルな関係といった方が近い。打ち合わせ場所はたいていの場合、毎朝通勤前に立ち寄る、おなじみの「樹の花」である。フリーになって40年、ちょうど同じ頃事務所の近くにオープンした。  最も多忙を極めた80年代、中上健次や古井由吉、粟津則雄、吉本隆明、吉増剛造といった作家たちの装幀で注目を浴び、年間400冊から500冊の本を手がけていた頃、各出版社の編集者たちが菊地さんとの打ち合わせのために、店内で列をつくって待っているのが日常の風景だったそうだ。 「当時人気だった別の装幀家がいて、彼を訪れる編集者はみんな女性だったのに、僕の担当編集者はみんな男だった」  そう言って、菊地さんは他人事のように笑った。撮影最終日だからだろうか、どこか開放的な表情をしている。最後のインタビューの中で、「1万5千冊もの本を手がけてきて、どうしてこんなにも常に楽しそうに仕事を続けることができるのか、そのモチベーションはどこからくるのか」と質問すると、菊地さんはこう答えた。 「ただ言葉が好きなんですよ、僕は。自分のためにじゃなくて、言葉のために、だろうね」 ■ミスターキクチはこれからも  あれから、あっという間に1年半。完成した映画を携え、お隣の韓国の釜山国際映画祭でのワールドプレミアを経て、はるばるドイツのライプツィヒ国際ドキュメンタリー・アニメーション映画祭にやってきた。ライプツィヒは、ベルリンから電車で約1時間半。第二次世界大戦以前まで国内の半数の出版を担っていた有数の本の街で、市内に装幀家のための大学まであるのだとか。  初日の朝は一番寒く、0度を下回っていた。霧に包まれた中世の建築物。楓の並木が葉を落とし、石畳をおもちゃのようなトラムが滑る。  ファーストスクリーニングは22時からだった。ショッピングモールの中にある、いわゆるシネコンの映画館なのに、建物が旧式だからだろうか、不思議と地元感が漂う。小さなライブハウスを寄せ集めたみたいに、中二階や中三階が複雑に入り組んでいる。  スタッフの挨拶があって、消灯。赤い目玉がデザインされた映画祭のムービングロゴが流れる。ぎりぎりに駆け込んできたルーズな客が何人かいる。さりげなく客入りを確認しながら、ほっとマフラーをほどく。ほとんどが地元の観客らしい。  後方の端の座席に体を埋め、改めて自分の映画を観た。完成後すでに10回は観ているはずだけど、それでも海外で現地の観客と観るのは新鮮なものだ。どこで笑いが起き、どこで頷き、どんな姿勢で観ているのか。彼らの反応を横目に、いちいち腰を浮かせてしまう。  明かりがつき、席を立つと優しい拍手を向けられた。20分程度の観客との質疑応答が行われる。150席ほどの小さな小屋なので観客の一人ひとりの表情がよく見える。質問は控えめでも、じっと興味を持って見つめられているのがわかる。謙遜ではなく私に対してというよりも、映画の中の菊地さんに対する視線だと感じる。最後に、若い女性から「ミスターキクチはこれからも仕事を続けますか?」と質問があった。 「もちろん彼は言葉がある限り、装幀し続けると思います」  私は安心してもらおうとそう答えてから、思わずハッとした。今日は10月31日。この日を境に菊地さんは事務所を畳み、仕事場を自宅に移すことになっている。  翌日、観客のひとりに勧められた印刷博物館を訪れてみた。重厚な扉を開くと、板橋の印刷所と同じインクの匂いがした。カメラで装幀の世界をのぞき、黒い服の菊地さんの背中に導かれてスクリーンをくぐり抜け、気づけばドイツの印刷所までやってきてしまったかのような、妙な感慨に襲われる。 ■より市場のことを考えながら  帰国すると、一枚の葉書が届いていた。 「十月末をもって、銀座の事務所を仕舞います。以後、ご用の向きは下記へお願いします。お話は、『樹の花』にて。菊地信義」  感傷的になっているのは私だけだった。菊地さんは驚くほどさっぱりしている。むしろ、やる気に満ち満ちている。今後は作品数を絞り、より市場のことを考えながら作品に注力するつもりだと意気込む。  手作業の時代の終わりが近づいている。菊地さんはそれすらもポジティブに受け止めている。「樹の花」や神保さんとの関係が変わっても、本はなくならない。呆れるほど、そう信じている。菊地さんが手がけた作品を見ると、静かに主張もせず文章を盛ることに徹しながらも、その反面、装幀を知ってほしい、語ってほしいと力強く語りかけられているように感じるときがある。  本作『つつんで、ひらいて』の日本公開は、今年12月14日。ふと、あの整理された作業机のことを思い浮かべる。これから鎌倉で、菊地さんはどんなルーティンの日々を送るのだろう。私が銀座に通うことはもうないだろう。その代り、本と会いに書店に通おうと決めた。(文/映画監督・広瀬奈々子) ※「一冊の本」12月号より
沢尻代役の川口春奈に不安 わずか2週間で戦国時代の所作が身につくのか?
沢尻代役の川口春奈に不安 わずか2週間で戦国時代の所作が身につくのか? 長崎県五島列島出身の川口春奈 (C)朝日新聞社  来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で沢尻エリカ容疑者(33)に代わって、川口春奈(24)が織田信長の正妻、帰蝶(濃姫)役を演じることが発表された。  6月から始まった撮影で、すでに10話分は収録済みだというが、沢尻は主演の長谷川博己(42)演じる明智光秀と絡むシーンが多く「編集やカットでどうにかできるレベルではない」(NHK関係者)ため、初回から撮り直すことになるのだという。  NHKは川口の起用理由について「確かな演技力があり、戦国武将の娘としての気高さと強さを表現していただけると考えた」と説明。大河初出演、時代劇も初挑戦だが、それ以上に川口の演技力への期待が大きく、役柄のイメージにハマったということのようだ。  芸能リポーターの川内天子さんは「NHKとしても、とにかく代役を決めることが最優先だったと思います」とし「初時代劇ということは、これからその分野で大きく成長するという意味でもあるので、NHKも彼女の今後にそれだけ期待を寄せているということでしょう」と話す。  川口に決定するまでネットでは代役候補の女優の予想で盛り上げっていたが、「どのメディアにも川口の名前はあがっていませんでしたから、大穴だった」(スポーツ紙記者)という。 「12月上旬から撮り直しを始める予定だそうで、なんとか当初の予定通り1月5日からの放送開始を目指しています。ただ撮り直しと通常の撮影の同時進行ですから、どうなるかは今後の進行次第でしょう」(同)  12月からの撮影を前に、出演者やスタッフの負担はもちろんだが、川口が越えなければならないハードルはかなりのものだ。台詞を覚えることから、衣装合わせ、顔合わせや本読みなどを2週間足らずでこなすというのは相当の荒業だ。  だが「もっとも心配されているのが、時代劇の所作だといいます」  と話すのはドラマ制作関係者。 「NHKのドラマの時代考証はしっかりしていて、特に時代劇の所作のレベルが高いと言われています。衣装を着た時の歩き方、手の使い方、裾捌きなど一朝一夕にできるものではありません。まして時代劇が初めてというなら、想像を絶する苦労が待ち受けています」  今年のNHK正月時代劇「家康・江戸を建てる」で時代劇に初挑戦した広瀬アリスは、撮影前には舞や所作の練習を積んだそうだが、その時の苦労を会見でこう明かしていた。 「手を開くと自然と小指だけが離れてしまい、くっつけようとすると、手の平が浮いてしまう。所作指導の先生が厳しくて、『その汚い手は何?』とずっと言われていた」という。 「そもそも現代の日本人は昔とは体形が変わり、脚が長いので着物の帯を結ぶ位置が高すぎます。ですから和服の着こなしとしては、あまり美しくないんです。それを補うのが立ち居振る舞いや裾さばき、いわゆる所作です。若い女優さんは和服とは対極の所作であるモデル立ちやモデル歩きになるので、川口さんも身体で覚えるまでは大変だと思います」(同前・ドラマ制作関係者)  大河で共演することになる岡村隆史は21日深夜放送のラジオ番組「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」(ニッポン放送)で「結束力が強くなって、長谷川さんもしっかりサポートする、って言っていました」と、現場が団結している様子を語った。  代役という重圧だけでなく、せりふ、所作、スケジュールなど、川口が訪れた大チャンスをモノにするためには、いくつもの大きなハードルがあるが、座長・長谷川を筆頭にワンチームで乗り越えていけそうだ。(坂口友香)
野田秀樹「クイーン」の名作で新作舞台「Q」 松たか子、広瀬すずらが魅せた「極限の愛」
野田秀樹「クイーン」の名作で新作舞台「Q」 松たか子、広瀬すずらが魅せた「極限の愛」 NODA・MAP第23回公演「Q」:A Night At The Kabuki(撮影/篠山紀信) NODA・MAP第23回公演「Q」:A Night At The Kabuki(撮影/篠山紀信) NODA・MAP第23回公演「Q」:A Night At The Kabuki(撮影/篠山紀信)  世界的な英ロックバンド「クイーン」のアルバム「オペラ座の夜」の全12曲に不即不離で触発された劇作家野田秀樹の最新舞台「Q:A Night At The Kabuki」(野田作・演出・出演)が8日夜、東京・池袋の東京芸術劇場プレイハウスで開幕した。観客約900人は3時間近い大作に見入り、聞き入った。カーテンコールで、役から日常に戻って来られないような表情の俳優陣に大きな拍手が送られ、感動の渦は長らく鎮まらなかった。英日の才能が切り結び、融合して特筆すべき舞台を生み出し、「極限の愛の姿」を立ち上がらせた。  企画の実現には「オペラ座の夜」の出版権を持つソニー・ミュージックパブリッシングなどの尽力があった。2年ほど前、ソニー側がクイーン側に「アルバム全曲使用による新たな芸術作品の制作」をアイデアとして提示。クイーン側は興味を持ち、ソニー側が野田に打診、野田も引き受けた。クイーン側は野田の構想を聞いて喜んだ。公演に寄せた野田の一文によると、「私は半信半疑ながら、半身半着の汗だくでワークショップを重ねて、私なりに『オペラ座の夜』から得たインスピレイションを文字に起こして」制作を進めたという。  源平の戦乱の世に、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」とそのシークエル(続編)が織り込まれてゆく。年代の異なる2組のロミオ(上川隆也、志尊淳)とジュリエット(松たか子、広瀬すず)が登場。もし2人が生きていたら……という発想が膨らんだのだ。若者たちの美しい死は、半ば強引に回避され、猶予を与えられる。争いの絶えない対立陣営に引き裂かれた男女の、春の芽吹きのような純白の急速な愛と、秋の実りのような紅紫の円熟した愛が俳優4人によって二重写しになる仕立てだ。  フレディ・マーキュリーの異国の妖しい花蜜のような歌声、ブライアン・メイの華麗にひずむ暖流のようなギターサウンド、ロジャー・テイラーの尖鋭的でパンキッシュなドラム、ジョン・ディ-コンの恭順で堅実なベース。クイーンの曲を単純に劇伴に使うと、舞台は大抵圧殺される。まして「オペラ座の夜」には名曲「ボヘミアン・ラプソディ」など、多種多様な思い出に彩られた曲たちがひしめく。大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディ」に感涙した観客も少なくないだろう。舞台化は壮挙だった。しかし、今回の野田の戯曲は、クイーンの曲に、詞に、じっくり耳を傾け、そこから紡ぎ出される物語を掬い上げたせいか、クイーンの曲は野田の戯曲と手をとりあって、結果、前代未聞、視覚化された舞台の「オペラ座の夜」が誕生したのだ。 ■2項がシンメトリックに配置  1幕は若き日のロミジュリの物語が中心。「言葉遊び」が活躍する「拡散」の原理が目立つ。2幕は生き延びた2人の物語が主に描かれ、終幕に向けて一直線に進む「集中」の原理が際立つ。  シェークスピアの原作ではロミオは激情にかられ、ジュリエットの従兄弟を殺してしまう。「ボヘミアン~」には「ママ、今、僕は人を殺してしまった」という詞があり、野田は「僕」=ロミオと読み替えた。ロミオが人をあやめるシーンとこの曲はシンクロし、あざなえる緊密さを示す。両世代のロミジュリの場面にはフレディが想い続けたメアリー・オースティンのために書いた「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」がテーマ曲のように流れる。  平家と源氏、赤と白、ヒロイズムとテロリズムなど2項がシンメトリックに配置され、舞台空間を左右、上下に分割して対比する(美術は堀尾幸男)点も特徴的だ。手紙、名前、記憶なども重要なタームになる。 「『歌舞伎の夜』という副題も、勢いでつけただけで、芝居は全然カブキじゃない」と公演に寄せた一文で野田は書いた。  とはいえ、近作には、タッグを組んで「野田版歌舞伎」を作ってきた故十八代目中村勘三郎へのオマージュが随所に現れる。「俊寛」「寺子屋」のリミックス、迅速な場面転換を可能にする回転扉、割り台詞的な手法などはまさに歌舞伎の趣向だ。フレディのボーカルの音源だけを取り出した「マイ・ベスト・フレンド」に恍惚とする瞬間も。クレジットはないが、フレディが語り部として声で出演している錯覚も起きた。  2人が一晩を共に過ごす場面では、「ラヴ~」が奏でられるが、いくたびも白い大布が翻るたびに、両世代のロミジュリが入れ替わり、動的かつ幻想的で比類ない光景が広がった。白い手紙の紙飛行機と俳優が能のすり足的速度で共に歩む演出も「ラヴ~」のイントロに溶け込むようだ。  生き延びたジュリエットの松は愛をかみしめる悲喜をただ佇むだけで表現し、ロミオの上川は極限から絞り出す真情に悲痛な響きがある。広瀬と志尊は早春のせせらぎのようにまぶしい。伊勢佳世が酷薄な復讐の鬼をよく演じた。竹中直人、橋本さとし、羽野晶紀らも硬軟こきまぜて好演している。  争いの世は続き、生き延びた2人は別離を強いられることになる。ロミオの手紙はジュリエットの元に決して届かない。命が危機に瀕したロミオの極限の愛の叫びは、いわば、紅く激しい刀傷ではなく、白く深い彫り跡で描かれる。“君は覚えていてくれるだろう、離ればなれに吹き飛ばされてもすべては一緒なのだと。どれだけ年をとっても、僕はずっと君の側にいて愛していると告げよう”――。このように歌う「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」は、ロミオが最後に出した手紙の内容とも呼応し、喜びも悲しみも縫いとって、愛の懐かしさを間断なく奏でてゆく。(文/朝日新聞社・米原範彦)
大阪、京都がズラリ 高校別「ラグビー日本代表輩出数」ランキング
大阪、京都がズラリ 高校別「ラグビー日本代表輩出数」ランキング ロシア戦でハットトリックを達成した松島幸太朗(c)朝日新聞社 ラグビーワールドカップ日本代表の出身高校ランキング(2019年第9回) ラグビーワールドカップ日本代表の出身高校ランキング1位~26位(1987年第1回~2019年第9回 延べ人数)  第9回ラグビーワールドカップが始まった。日本代表に選ばれた精鋭31人を含む、歴代のワールドカップ日本代表(1987年第1回大会~2019年第9回大会)の高校時代を探り、出身高校ランキングを作ってみた。  まず、2019年日本代表を見てみよう(カッコ内は現校名)。  大学入学、またはトップリーグのチームに加入するときに、来日した外国人選手が増えたことによって、日本の高校出身者は大会ごとに少なくなっている。今大会では日本国内17の高校出身者19人がいた。伏見工業(京都工学院)、東海大仰星が2人ずつ、そのほかは1人ずつだ。  全国高等学校ラグビーフットボール大会(通称「花園」)で日本一になった経験があるのは、山中亮平(2006年度、東海大仰星)、松島幸太朗(2010年度、桐蔭学園)の2人。松島の父親はジンバブエ人、母親が日本人である。  国内の高校出身者19人のうち16人が花園に出ており、高校日本代表も多い。花園を経験していないのは、木津悠輔(由布)、具智元(日本文理大付属)、堀江翔太(島本)である。  なお、国内17高校のうち15校が花園に出たことがあるラグビー強豪校だ。花園未経験の大分県立由布は、県内に大分舞鶴という絶対王者(2018年度まで33年連続、通算57回出場)が君臨していることもあり、全国大会への道は険しかった。木津は無名校のラグビー部員に勇気を与えた。こう話している。 「確かに自分のなかでも無名校から上がってきたことにプライドを持っている部分もありましたが、行ったチームではそこに入ってからの(動きで)評価(される)。無名校から入ってそこにいるのがいいのではなく、そこでしっかりとやることが評価につながる」(ウェブサイト「RUGBY REPUBLIC 2019」2019年2月21日)  17高校中、公立は6校。新潟工業、伏見工業、島本、福岡、由布、荒尾(岱志)だった。  歴代のワールドカップ日本代表(1987年第1回~2019年第9回)の出身高校上位校の特徴、出身選手を見てみよう(高校のあとのカッコ内が現校名。選手のあとのカッコ内はワールドカップ代表選手に選ばれた年)。  1位大阪工業大学高校(常翔学園)は、明治大と同志社大とのラグビー界の「高大接続」がしっかりできあがっている。明治大に河瀬泰治(1987年)、藤田剛(1987、91年)、元木由記雄(1991、95、99、2003年)、赤塚隆(1995年)、松原裕司(2007年)が進んだ。同志社大では宮本勝文(1987、91年)、弘津英司(1995年)が活躍した。花園37回出場、5回優勝。  2位伏見工業(京都工学院)はテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルとして有名だ。1980年代、90年代は伏見工業→同志社大→神戸製鋼というラグビーのエリートコースが成立しており、平尾誠二(1987、91、95年)、大八木淳史(1987、91年)、細川隆弘(1991年)などが活躍した。田中史朗(2011、15、19年)は身長160センチメートル台ながら、海外の巨体選手を翻弄する俊敏さを持っている。花園20回出場、4回優勝。  3位東海大仰星。同校ウェブサイトは、ワールドカップ代表のOBについて記している。「本校卒業生の山中亮平選手(22期 神戸製鋼コベルコスティーラーズ所属)、北出卓也選手(26期 サントリーサンゴリアス所属)の両選手が選出されました。日本代表として精一杯頑張ってくれると思います。本校としても両選手をはじめとして東海大学出身の選手も多数選出されていますので、精一杯応援したいと思います」(9月9日)。歴代の日本代表で東海大に進まなかった者が半分いる。山中は早稲田大へ。京都産業大に進んだ大畑大介(1999、2003年)は、元読売ジャイアンツの上原浩治と同級生である。花園18回出場、5回優勝。  4位啓光学園(常翔啓光学園)。常翔学園グループの大阪工業大学高校と兄弟校になったが、こちらの進路は法政大、早稲田大、京都産業大、同志社大、大阪体育大とバラけている。花園で2001~04年度まで4連覇を果たしている。花園19回出場、7回優勝。  5位秋田工業は花園出場67回、優勝15回を誇る。いずれも全国最多記録だ。明治大に吉田義人(1991、95年)、法政大には桜庭吉彦(1987、95、99年)を送り込んだ。2人ともワールドカップでは先発出場が多いレギュラーだった。  5位島本は激戦区大阪の府立高校ながら、花園には4回出場している。伊藤義孝校長は「校長ブログ」でこう報告した。「今年日本で行われるラグビーW杯の代表選手が昨日発表されました。4年前には南アフリカを破り大きな話題なりましたが(ママ)、今年は日本大会です。もうみなさんも知っていると思いますが、その代表選手として、再び堀江翔太選手が選ばれました」(8月30日)  7位新田は花園45回出場。向井昭吾(1987年)は、2003年のワールドカップで日本代表監督を務めたが、全敗に終わった。坂田正彰(1999、2003年)は花園で1年から3年までレギュラー選手として活躍し、法政大、サントリーに進んでいる。  7位東福岡は花園に19年連続29回出場している。優勝6回。藤田慶和(2015年)は1年時からレギュラーで活躍して早稲田大に進み、前回のワールドカップでトライをあげている。  ほかに注目すべき高校をいくつかあげよう。  13位慶應義塾。生田久貴(1987年)、村井大次郎(1987年)は花園には出場していないが、慶應義塾大に進んで、生田は大学選手権優勝、村井は準優勝を経験している。生田は三菱商事、村井は丸紅に就職したあと、日本代表に選ばれている。商社にやたら強い慶應らしい。花園は34回出場、2回優勝。  13位佐賀工業は花園に37年連続47回出場している。五郎丸歩(2015年)、山村亮(2003、07年)を生んだ。五郎丸のペナルティーキック、コンバージョンキックを蹴るときの拝むようなポーズは全国的に有名となり、多くの子どもたちがまねをしていた。  26位札幌山の手は日本代表キャプテン、リーチマイケルの出身校である。2004年、ニュージーランドから来日して札幌山の手に入学した。花園は17回出場。  公立進学校出身の日本代表がいる。  中村直人(1999年、京都府立洛北→同志社大)、広瀬俊朗(2015年、大阪府立北野→慶應義塾大)、山田章仁(2015年、福岡県立小倉→慶應義塾大)、福岡堅樹(2015、19年、福岡県立福岡→筑波大)、今泉清(1999年、大分県立大分舞鶴→早稲田大)。このうち、花園経験者は福岡、今泉のみ。  福岡が2010年度に花園に出場したときの監督が、高校の先輩の森重隆だった。森は福岡高校から明治大、新日鉄釜石に進んでいる。新日鉄釜石時代は日本選手権4連覇を果たした。2019年、森は日本ラグビーフットボール協会会長に就任している。福岡は東京五輪終了後、医師の道に進むと公言している。  広瀬は最近、TBSドラマ「ノーサイド・ゲーム」にラグビー選手役として出演して話題になった。山田はファッションモデルの妻と「踊る!さんま御殿!!」「行列のできる法律相談所」などのバラエティー番組に出演している。今泉は宝塚出身の女優、涼風真世と夫婦だったことがある。  ワールドカップの歴代日本代表の出身高校はさすがにラグビー強豪校が多いが、大学ほど一極集中する傾向は見られない。帝京大、少し前の同志社大のように。 そして、もっとも特徴的なのが、上位校に大阪、京都といった関西勢が多いことだ。高校ラグビーの世界では西高東低がくっきり示されている。  一方、歴代日本代表の出身大学ランキングは、早稲田大、明治大、法政大、関東学院大、そして帝京大が上位に並んでおり、東高西低となっている。これは、関西、九州のラグビー強豪校の優れた選手が関東の大学に流れたことを意味する。  最近、関西勢の大学が大学選手権優勝から遠ざかっている。1984年度に同志社大が優勝したのが最後だ。ラグビーの強い関東の大学に進みたいと望む高校生ラガーマンが増えたことと、東高西低は十分に関係がありそうだ。  日本代表が高校生だったころの活躍を知るのは興味深い。原点を高校時代に見ることができよう。エピソードもたくさんあるはずだ。ワールドカップの一つの見方として日本代表を出身高校から見るのもおもしろい。 (文=教育ジャーナリスト・小林哲夫/選手名は敬称略)
広瀬隆「原発ゼロを実現するクリーンな石炭火力発電」
広瀬隆「原発ゼロを実現するクリーンな石炭火力発電」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 石炭火力発電で煙もでないほどクリーンな最高水準の環境技術が使われている磯子火力発電所=Jパワー(電源開発)のホームページから  前回までに「CO2によって地球が温暖化する説」の間違いと、その説を生み出した犯人が原子力産業であることを述べてきたが、それでも日本人は、科学的な実証より、テレビに出るコメンテイターの「事実、猛暑を体験しているじゃないか!!」という意味不明の乱暴な言葉のほうに流れることぐらいは、小生も承知している。  そこで、IPCCが気温データを捏造したクライメートゲート・スキャンダル(前回参照)の結果、全世界にどのような認識が広まったかを紹介する。ドイツのシュピーゲル誌(Der Spiegel)2010年3月27日号によれば、同年3月22~24日におこなったドイツ人の意識調査で、「地球温暖化はこわいと思うか?」という質問に、58%が「Nein(ナイン)」(=英語の「NO」=「いいえ」)と回答した。環境保護運動が最も盛んでCO2温暖化説のリーダーだったドイツ人の過半数が、ついにCO2温暖化説を信じなくなったのである。ほぼ同じ時期にアメリカ・ヴァージニア州の大学の調査(George Mason University, Center for Climate Change Communication 2010年3月29日発表)で、同年1~2月にアメリカ気象学会と全米気象協会のテレビ気象予報士にアンケートをとった結果でも、571人の回答者のうち63%が「気候変動の主因はCO2ではなく、自然現象である」と回答し、26%が「地球温暖化論は詐欺の一種である」とまで回答した。  しかし昨年2018年11月のアメリカ西部カリフォルニア州の山火事が、同州の山火事で史上最多の犠牲者を出したことをもって、温暖化が原因だと騒ぎ立てる人間がゾロゾロ出てきたので、こういう現象は解説しておくべきであろう。  山火事というのは、日本で報じられているような温暖化による異常現象ではない。カリフォルニア州は大きな植物帯が存在するので、落雷によって森林火災が起こることは自然現象で、夏に山火事が発生するのは毎年のことだ。2018年は秋に入っても雨が少なく、そこに電力大手「PG&E」社の送電線の火花から山火事が起こったので、例年以上に燃え広がった。近年に人口が増加したカリフォルニア州では、1990年代以降に新たに建てられた住宅の6割が山火事の発生しやすい場所にあるので、そこでの人口が増えて、数字の上で犠牲者が多くなったのである。  一方、共和党のトランプ大統領が「CO2温暖化説を信じない」と発言してパリ協定から脱退したので、民主党の太鼓持ちで、トランプ嫌いの俳優レオナルド・ディカプリオらが、「カリフォルニア州の山火事は温暖化が原因だ。トランプが悪い」と騒ぎ出し、政治問題にしていることが、そもそもの騒動の原因であった。  最近のアメリカで山火事が増え、大災害化していると騒ぐ人間が多いが、これはまったくの嘘である。1988年のイエローストーンの山火事は焼失面積158万エーカーを記録して温暖化のせいだと言われたが、それよりはるか昔の1910年の山火事(Great Idaho wildfire)ではその2倍の300万エーカーが焼失している。アメリカ合衆国火災局の報告書によれば、19世紀の1894年の山火事(Wisconsin wildfire)で数百万エーカー、1871年の山火事(Peshtigo wildfire)で378万エーカーと、はるかに大規模の山火事が頻発した。ところが、大騒ぎした2018年11月のカリフォルニア州の山火事は、それらの数十分の1のわずか15万4000エーカーである(鎮火後のロイター・ニュースによる)。  私がCO2温暖化説を否定するのは、「CO2が気候変動に無関係である」ことがはっきりしているので、先進国で使用されている“最新の石炭火力”が発電法としてコストが最も安く、利用を推奨できるからである。現在のヨーロッパ、アメリカなど先進国の石炭火力発電は、中国やインドのように粉塵(ふんじん)巻きあげ、大気を汚染する老朽化した石炭火力発電とはまるで違うのである。日本では横浜市磯子(いそご)にあるJパワー(電源開発)の石炭火力発電所のように、煙も出ないほど世界一クリーンになっていることを、ほとんどの日本人が知らずに、石炭火力に昔のような偏見を持っている。横浜を訪ねてごらんなさい。ここまでクリーンになった高度な石炭の燃焼技術は広く活用するべきである。  最近、「原発を続けるべきか、それとも再生可能エネルギー(自然エネルギー)に切り換えるべきか」という二者択一の設問を掲げる人間が多く、市民運動でも最近の主流になっているが、原発と自然エネルギーは、いずれもよくない、という事実が抜けている。  何もかもまとめて自然エネルギーと呼ぶのは間違いで、私が日本で推奨できる自然エネルギーは、住宅や工場の屋根に設置するソーラーパネルと、小水力発電ぐらいである。メガソーラーや風力発電が、広大な山林を伐採して日本の自然破壊を進めていることに、どれほど多くの人間が迷惑しているかということも知らないのが、最近の心ない大都会の人間と市民運動かと思うと、愕然とする。  地熱発電は、日本では温泉を枯渇させたり、地震を誘発する。バイオマスも、福島原発事故で山林が放射能を浴びた東日本では、廃物木材を燃焼させると放射性セシウムをまき散らすので、危険である。  日本では、原発をゼロにするのに、自然エネルギーも不要だから、あわてて普及させる必要はない。東日本大震災後、2013年9月15日に福井県の大飯(おおい)原発が運転をストップしてから、2015年8月11日に鹿児島県の川内(せんだい)原発が再稼働されるまで、ほぼ2年間、真夏の猛暑期も、真冬の酷寒期も、「完全に原発ゼロ時代」を達成したのが日本であった。その2年間の電力を、どのようなエネルギーが供給してくれたかを、自ら大電力消費者であるテレビ報道界は、国民にしっかり伝えるべきである。  この表の通り、2014年度の原発はゼロ%で、自然エネルギーもゼロに等しい3・2%、つまりクリーンで資源量が豊富なガスと石炭と、少々の水力発電で日本全土の電力をほとんどまかなったのだ。10%近く石油が使われているが、これは工業界がガソリンやプラスチックなどに使った残りの重油を火力に使った廃物利用だから、実質的にはゼロ%とみなしてよい。この数字は、当てにならない「目標」ではなく、「実績」なのである。  おわかりになりましたか? (広瀬隆) ※週刊朝日オンライン限定記事
広瀬隆「なぜ人類は二酸化炭素を悪者扱いするようになったか?」
広瀬隆「なぜ人類は二酸化炭素を悪者扱いするようになったか?」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 縄文海進(東京湾は栃木県近くまで広がっていた)  前回で「CO2による気温上昇論」の明白な間違いを実証したが、IPCC集団が、明らかに間違った主張を取り下げない理由を説明する。あれだけ大騒ぎした以上、「CO2による気温上昇論」が嘘だと知られては立つ瀬がないので、「温暖化」ではなく、山火事や台風、竜巻などの自然現象を一緒くたにまとめて「異常気象が広がっている」という情緒論で、自然の脅威として煽(あお)れば、大衆なんてすぐにだませるという戦略に切り換えたところ、共犯者のマスメディアがそれに乗ったのである。  そこで昨年末12月15日に採択された現在の「パリ協定」の運用ルールでは、従来の「ホッケースティックの図」で主張していたような20世紀に入ってからの気温上昇ではなく、「産業革命以後の1800年代の気温と、現在の気温」を比較して、気温上昇を2度未満におさえることを目標にする、と決めたのだ。なぜかって? 人類が産業革命によって石炭を燃やしてCO2を出し始めた時代に戻らないと、地球の気温上昇を主張できなくなったからである。ところが笑止、その産業革命時代にはCO2放出量が現在の1億分の1程度の微々たるものだから、石炭のCO2によって気温上昇が始まったという科学的根拠になるはずがない。さらに人類が石炭を使い始めた産業革命の前、つまり1600年頃から地球の温暖化が始まっていて、世界中の氷河の融解もスタートしていたことを、ありとあらゆる自然界のデータが示していた。かくして「1900年代の20世紀、しかも後半になって、工業界でCO2の放出量が急増したことと、地球の温度変化は無関係である」ことも科学的に明白であった。  こうなると、なぜ人類はCO2を悪者扱いするようになったか、というIPCC説の起源を知りたくなるはずだ。誰がこの詐欺を仕組んだか? アメリカの原子力産業は、1979年にスリーマイル島原発事故を起こす前、1976年にGE(ゼネラル・エレクトリック)のトップエンジニアが原発の大事故の危険性を訴えて辞職し、反原発運動をスタートしていたので、アメリカ政府の原子力委員会傘下のオークリッジ国立研究所の前所長だったアルヴィン・ワインバーグが、原発推進にとって起死回生の策を探し始めた。  ちょうど同年、スクリップス海洋研究所のキーリングらが、ハワイなどにおいてCO2が漸増している測定値を発表したので、ワインバーグがこれに飛びつき、地球の気候変動の要因のうち、複雑すぎて科学的に計算できるはずがない温暖化現象だけを取り出して誇大に喧伝すれば、原子力の危険性を忘れさせることが可能だと気づいて、原発推進に利用し始めたのが、ことの起源であった。つまり「CO2温暖化論」を原子力産業の手先として育てあげ、無理を通して道理を引っ込ませようとしたのが動機だったので、今になってボロボロと大嘘が暴かれているのだ。  IPCCがCO2を悪者にした結果、最近「低炭素社会」という言葉を使うアホが増えている。植物は炭酸ガス(CO2)を吸収して炭水化物の糖分を合成し、水を分解しながら酸素を大気中に供給してくれ、動物がその酸素を吸って生きているって、中学で習わなかった? 炭素からエネルギーを得ることによって貴い生命をこの世に授かった生物である人間が、台所のガスコンロで炭素を燃やして料理しながら、生命の素である炭素を自ら否定するような言葉を使うことは、間違ってる!  誤解のないように申し上げておくが、私は地球が温暖化することを否定しているのではない。CO2が地球を温暖化させるという説が間違っていると言っているのだ。科学者が知る通り、温暖化および寒冷化は、地球上で太古の昔からたびたびくりかえされてきた自然現象であって、日本では、考古学で「縄文海進(じょうもんかいしん)」として知られるように、人間が石油も石炭も使わなかったほぼ6000年前の縄文時代に、東京湾の海が栃木県あたりまで広がるほど海面水位が高く、現在よりはるかに温暖化していたことは、関東地方各地の縄文人の貝塚の遺跡から明らかになっている。  数千年前には、今よりはるかに地球が温暖化して、海面水位は5メートルも高かった。したがってこのような「地球の気候変動」と「工業化によるCO2排出」を関連づけることが嘘であることは、はっきりしている。地球に気候変動を起こす要因は数々あって、エルニーニョやラニーニャもあればミランコヴィッチ・サイクルもあり、火山の大噴火もあり、私の著書にそれらを列挙しておいたが、主に太陽の活動のような宇宙の変化が、気候変動を起こしていることは明らかである。したがって、気候変動は、人間には手の届かない現象なのである。  IPCCは気候変動を研究する科学の専門家ではないので、独自の調査研究は実施せずに、温暖化説に合致する研究成果だけを集めているグループで、背後には原子力産業があって、彼らがCO2温暖化説を悪用して原発建設を進めてきた。その結果、2000年にIPCCが公表した100年後の気温シミュレーションは、高度コンピューターを使った採用データの全員が「気温上昇」を予測していたが、わずか10年後の予測で全員が外れて、前回示したグラフのように気温が低下してしまったのだ。  読者は、IPCC専属の「専門家」が10年後の予測もできないのに、100年後を予測することができるとお考えであろうか。IPCC専属の専門家は小学生並みの頭脳なのである。  科学的な反証データを次々と突きつけられたIPCCは、地球の気温が上昇しているように見せなければならないため、大量の温度データを改竄(かいざん)・捏造(ねつぞう)し始めた。ところが10年前の2009年に、その改竄・捏造が暴露されてしまった。このグラフのように温度データに理由もなく手を加えて、気温は上昇していると主張する悪質きわまりない例が世界中で山のように見つかったのだ。以来、私はIPCCが発表する気温データをまったく信用せず、使わなくなったが、クライメート(気候)をもじって呼ばれたこの世界的なクライメートゲート・スキャンダルによって、「IPCCは詐欺師」と呼ばれるようになった。ところが日本では、驚くべきことに、すべての大新聞とテレビ局がこの巨大スキャンダルをまったく報道しなかった。なぜなら自分たち報道界が、IPCCの片棒をかついできた共犯者だったからだ。 (広瀬隆) ※週刊朝日オンライン限定記事
広瀬隆「二酸化炭素温暖化説の嘘が警告する地球の危機」
広瀬隆「二酸化炭素温暖化説の嘘が警告する地球の危機」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。  今回は、これまで述べてきた韓国/北朝鮮問題ではなく、地球の自然に関して二酸化炭素温暖化説が科学的に間違えている、というテーマで、みなさんの頭に一撃を加えてみよう。 「二酸化炭素温暖化説が警告する地球の危機」ではなく、それが大嘘だという話なので、間違えないように。  昨年は、西日本の大水害と関西を襲った大型台風と北海道の大地震に苦しめられ、同時に夏の猛暑を体験した。そこでテレビ報道に出演するコメンテイターたちは、出てくる人間ほぼ全員が、「2018年の夏は異常な猛暑だった。災害の原因は地球温暖化である」と口にした。彼ら彼女らは、「地球温暖化は、もはや議論する必要もない」とまで、言いたそうであった。ところが彼ら彼女らは、ただの一人も「二酸化炭素(CO2)の放出によって地球の温暖化が加速している」という自分たちの簡単な主張を、科学的に実証しようとはしなかった。どうも日本人は、他人の噂話に惑わされやすく、子供でもわかる科学を議論することが苦手なようだ。  私は『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書)の著者として、CO2による地球温暖化説が間違いであることを科学論によって実証したが、同書を2010年に発刊してから、すでに10年も経とうとしているので、わかりやすく要点を本稿に記述する。CO2による地球温暖化説の嘘について説明するのに、私の講演は普通4時間だが、本稿3回にわたってエッセンスを述べる。  石油や石炭を燃やした時に発生するCO2によって地球が温暖化するという説を流布してきたのは、国連のIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change──気候変動に関する政府間パネル)で、その名の通り、いかにも怪しげな政治集団である。このIPCCは、過去に人類が明らかにしてきた考古学、文化人類学、生物進化学、気象学、地質学、宇宙科学のすべてのデータをまったく無視して、根拠のない「疑似科学」を人類の頭にすり込んできた。  2015年までこのIPCC議長だったラジェンドラ・パチャウリは、アメリカ副大統領だったアル・ゴアと共にCO2温暖化説を煽(あお)って、ノーベル平和賞を受賞した人物である。CO2温暖化説が、ノーベル物理学賞に値する科学的真理ではなかったので、平和賞が与えられたのである。このパチャウリ前議長は、温室効果ガス(CO2)の排出権取引で莫大な利益を得る銀行の顧問をつとめ、この取引で多国籍企業とエネルギー業界が生み出す資金を、パチャウリ自身が理事長・所長をつとめる「エネルギー資源研究所」に振り込ませていたことが、2010年1月に発覚した。IPCCは、CO2を食い物にする詐欺グループだったのである。  実は、1988年にIPCCが設立された時、初代議長に就任したバート・ボリンが、「2020年には海水面が60~120メートルも上昇し、ロンドンもニューヨークも水没している」と予測して、CO2温暖化説を煽ったのだからたまげる。2020年とは、来年である。120メートルというのは、新幹線5輌分の長さを縦に立てた高さである。来年に東京オリンピックを開催している時に、天を見上げるほどの海水でロンドンもニューヨークも水没している、と信じるのは、もはや新興宗教である。テレビ報道に出演するコメンテイターたちは、「2018年の夏は異常に暑かった。地球温暖化が原因だろう」と、つい口にしたが、まさか彼らも、IPCCの詐欺師集団やCO2学説を信じる新興宗教のために、そのようなことを主張するほど愚かではあるまい。  しかし今年も5月に北海道で猛暑を記録したので、CO2温暖化説の信奉者たちが勢いづくことが心配だ。  実は、この問題を真剣に考えてきた賢明な読者であれば、1998年頃まで「温暖化、温暖化」と騒いでいた人類が、最近は「異常気象、異常気象」と言葉を変えてきていることに気づいているはずだ。IPCC集団が、なぜ表現を変えたかという理由は、科学的にはっきりしている。  このグラフのように、1998年をピークとして、それ以後10年間も地球の気温が上昇せず、むしろ温度が下がる期間が続いた。その間に、驚異的な経済成長を続ける中国でもインドでも、CO2の排出量が猛烈に増え続けて、地球の大気中のCO2濃度の最高値が毎年更新されていたのである。したがって、CO2が増加しても地球は温暖化しないことが、誰の目にも明らかとなった。CO2温暖化説は科学的に崩壊したのである。  気温上昇が続いた1998年まで「CO2地球温暖化説の誤り」に気づかない人間が多かったことは仕方ないにしても、2010年になってもその過ちを認めなかったので、現在のように虚構の地球科学が横行しているのである。  地球の気温が上昇していた1990年代には、NHKテレビがニュースの冒頭に「南極」の氷が崩れ落ちる映像を流して、「温暖化対策は待ったなし」と叫んでいた通り、「南極の氷が溶けて地球が水没する」という説は、地球温暖化の脅威を煽る目玉であった。ところが、現在では誰一人、南極を口にしない。どうしたわけなのか? それは、南極では2010年代に入って氷が溶けるどころか、逆に分厚い氷と大量の積雪に、南極観測隊が四苦八苦する寒い年が続いた上、「南極の氷が崩れ落ちるのは、分厚い氷の重さのためであり、太古から続いてきた自然現象だから、人類によるCO2の排出とは無関係なんだよ」と指摘されて恥をかいたからである。  IPCCがCO2による温暖化を強調するために「第3次評価報告書(2001年1月)」に明示し、全世界を欺いてきた有名な「ホッケースティックの図」(IPCCが主張してきたグラフの青線→で示される地球の温度変化)は、実際にあった“中世の温暖期”もその後の“小氷期”も抜けている「誤りだらけのデータ」であることが暴露されて、IPCC第4次評価報告書(2007年11月17日)から削除されてしまった。つまり「1900年代の20世紀に入って、工業界のCO2放出量が急増したので、地球が急激に温暖化した」と主張していたIPCCは、「ホッケースティックの図」が真っ赤な嘘だと認めたのである。 (広瀬隆) ※週刊朝日オンライン限定記事

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