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広瀬隆「南北朝鮮が平和になれば問題は解決する」
広瀬隆「南北朝鮮が平和になれば問題は解決する」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 2018年2月の平昌冬季五輪開会式では「統一旗」を掲げて韓国と北朝鮮の選手たちが合同入場した=(C)朝日新聞社 2019年、日本は報道の自由度「世界67位」=「国境なき記者団」のホームページから(撮影・堀井正明)  前回で、北朝鮮のミサイルをおそれる必要がないことを述べた。私は北朝鮮に住んだことがないので、北朝鮮の民衆の感情は知らないが、日本国内にいる北朝鮮系の人とも付き合ってきたので、われわれ日本人と同じ人間であることを知っている。北朝鮮政府がどうであろうと、北朝鮮に対して国連が経済制裁を加えて民衆を苦しめることは、人間としてまったく知恵の足りない、非道で野蛮な行為だと憤りを覚える。在日朝鮮人/コリアンに対する日本人の偏見といやがらせも、恥ずかしくてならない。  韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権は非常に知性レベルが高いので、北朝鮮は自分たちと同じ民族だから、一刻も早く国連制裁を解除して、南北朝鮮の統一に向けて確かな一歩を踏み出したいと願っているのだが、どこの国にも紛争と戦争を求める危険分子がいて、朝鮮半島の和平に待ったをかけている。その正体は軍需産業である。  アメリカでは、巨大軍需産業がホワイトハウスの大統領を操るほど肥大化しているので、ドナルド・トランプも自在には動けない。今年2月27~28日のベトナムのハノイにおける第2回・米朝首脳会談を前にしてトランプ大統領が「非核化を急がない」と声明を出したのは、アメリカと北朝鮮が友好・和平関係を結ぶ方向に進めば、核兵器は意味もない道具になるからであった。ところが首脳会談の蓋をあけてみると、そうはならなかった。  首脳会談に急遽割りこんで参加した大統領補佐官(国家安全保障問題担当)のジョン・ボルトンが「核兵器・ウラン濃縮プラント・ICBMの全面廃棄要求」を突きつけて金正恩(キム・ジョンウン)を怒らせ、会談をめちゃくちゃにしたからである。ボルトンは、1964年の大統領選で「ベトナム戦争で核兵器を使え」と狂気の核攻撃論を展開した共和党大統領候補のユダヤ人バリー・ゴールドウォーターの支援活動に従事した根っからの悪人で、2003年にイラク攻撃を主導し、数十万のイラク人を殺戮した極悪ユダヤ集団「ネオコン(新保守主義者)」の頭目であった。  日本のテレビ報道界は、2003年3月20日に米軍が狂気のイラク攻撃を開始した発端が、その半年前の2002年9月8日にニューヨーク・タイムズのピューリッツァー賞受賞者、ユダヤ人女性記者ジュディス・ミラーが、根拠もない「イラクの核兵器開発」をあたかも事実であるかのように大報道した記事(フェイクニュース)であったことを知らないであろう。  2006年のジョンズ・ホプキンズ大学などによる調査では、このイラク攻撃開始から3年後の2006年6月までの「イラク人の死者数は60万人以上」とされている。被害者はその10倍の数百万人に達するであろう。イスラム教徒に対するこの米軍の大量虐殺に怒って決起したイスラム教徒がテロリストに変貌し、テロ集団“イスラム国(IS)”が生み出され、難民・移民が大量発生して、全世界の混乱が続いているのである。  ジュディス・ミラーが書いた当時の記事をいま読むと、ボルトンが北朝鮮の核兵器を非難している言葉とそっくり同じである。  このように危険な戦争屋ボルトンが、北朝鮮に喧嘩を売って憎悪を煽(あお)っているというのに、日本のテレビ報道に出てきたコメンテイターは全員が、「北朝鮮非難」に終始し、ボルトンのオウムであった。  こういう世界情勢も読めない人間たちが日本のテレビ報道に従事して、アジアに平和が訪れるはずがない。  安倍晋三ときたら、トランプとゴルフをしてはしゃぎ回り、日本の海上自衛隊の艦艇にトランプを乗せて喜び、莫大な金をアメリカ軍需産業にみつぐ約束に明け暮れ、沖縄の軍事基地建設に熱中しているというのに、テレビ報道が一喝もしない。  日本では、現在のマスメディアに対する信頼性が示すように、世界的にきわめて低い水準にランクづけされるほど、報道内容が落ちているのはなぜだろうか。2016年4月20日に国際ジャーナリスト組織である“国境なき記者団”(RSF─Reporters Sans Frontières)が発表した各国の報道機関のランクづけによると、この時に韓国は、朴槿恵(パク・クネ)政権がテレビ報道界を大弾圧していた最悪の時期だったので報道の自由度が「世界70位」というひどい評価を受けたが、その後は、報道界が決起して報道改革がスタートした。ところが日本は、韓国よりさらに低い「世界72位」という自由度であり、2019年になっても「世界67位」であった。これが、日本のテレビ報道に対する国際的な評価だという事実は、すべての日本人が認識しておかなければならないことである。  つまり「日本のテレビ視聴者は、日本のテレビ報道は信用できないほどレベルが低いということを知ってからテレビに向かい合う必要がある」と“国境なき記者団”は言っているのである。  私が韓国の民主化運動の人たちと共に行動した時代に、1980年の光州虐殺事件について現地の光州で韓国の市民からくわしく話を聞いた時には、夜に、車座になって十数人の韓国の知識人と、朝鮮の酒マッコリを飲み交わしながら、どのようにすれば韓国と日本が、「米軍の軛(くびき)」から解放されるかを語り合った。その時、私がふと「この中で牢獄に入れられた人がいますか?」と尋ねると、まるで当然のように、全員が笑顔で手を挙げたのである。活動する知識人であれば、ほとんどの人が牢獄生活を体験していた。それが1988年のソウル・オリンピック後、盧泰愚(ノ・テウ)大統領~金泳三(キム・ヨンサム)大統領時代の韓国であった。この人たちが現在までの韓国の民主化を引っ張ってきた主役であり、当時彼らは「まだたくさんの知識人が投獄されている」として、救出活動を続けていた。ところが日本に帰国すると、「韓国では民主化が進んでいる」と、大新聞がまったくの大嘘を書き立てていた。  現地に飛びこんで多少の危険を冒さなければ、現実問題を体得し得ないというのが真のジャーナリストの直感である。現在で言うなら、シリアしかり、パレスチナしかり、北朝鮮しかり、である。 (広瀬隆) ※週刊朝日オンライン限定記事
広瀬隆「北朝鮮とどのように付き合うべきか」
広瀬隆「北朝鮮とどのように付き合うべきか」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 1983年、北朝鮮との軍事境界線の南側で警備中の韓国陸軍の兵士=(C)朝日新聞社 南北境界の板門店で6月30日、金正恩朝鮮労働党委員長(右)と歩くトランプ米大統領(gettyimages)。軍事境界線の北朝鮮側から韓国側へわたった  北朝鮮のミサイルがこわいと思っている日本人に教えてあげたいことがある。  反共宣伝に熱中してきた日本のテレビ解説者たちが、あまりに史実を知らないので、私は驚いている。韓国の首都ソウルで夏季オリンピックが開催されたのは今を去るほぼ30年前の1988年で、その翌年、ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終わった時期に、私が韓国を訪れたことを述べる。  原子力発電は核兵器に通じるテクノロジーなので、当時の韓国では“原発反対運動は死罪になる”と言われた時代だったが、その時、私は韓国の市民運動に招かれて、生まれて初めて韓国に入った。  当時、東京の私の自宅に「韓国電力公社」から脅迫めいた電話がかかってくる関係にあったので、「広瀬隆は入国できない」と言われながら、韓国の諜報工作機関である恐怖組織の国家安全企画部(安企部=あんきぶ)が、私を泳がせるために入国させたに違いなかった。事実、韓国内に入った私は、安企部に監視されて尾行され、走って尾行をまきながら移動して講演をたびたびおこない、“韓国最初の”原発に反対する市民デモの先頭を歩かされた。最後には私も身の危険を感じてホテルを変えたが、私の行動はすべて安企部に把握されていたので、ホテルを変えても意味がなかった。  その間、韓国内に米軍の核ミサイルが大量に配備されている図面を見せられた私は、南北朝鮮の軍事的対立の実情を知るため、列車に乗って北緯38度線近くの北朝鮮国境まで連れてゆかれた。途中で列車の乗客がほかに誰一人いなくなって心細くなるうち、やがて北朝鮮との危険な国境の板門店(パンムンジョム)に着き、北朝鮮に向けて配備されている「米軍の核ミサイル基地」近くまでタクシーで行った。その時、タクシー運転手から「これ以上近づけば殺される。絶対に基地の写真を撮らないでくれ」と警告を受けた。  このように過去半世紀以上にわたって、韓国側から北朝鮮をおそろしい核兵器で威圧してきた張本人はアメリカだったのである。  北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長と韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、昨年の南北首脳会談で謳(うた)った「核なき朝鮮半島」とは、北朝鮮とアメリカの両国が共に核兵器を放棄することだったのである。日本のテレビ報道界が常識として考えている「北朝鮮は核兵器を放棄しなければならないが、アメリカは核兵器を持つ権利がある」という話は、幽霊屋敷ほどにも奇々怪々な理屈であって、誰が考えても通らないストーリーである。したがって、北朝鮮だけは核兵器を放棄せよ、という軍事的な選択肢は、現在でもあろうはずがないのである。  まずここに、人間の常識を欠く日本のテレビコメンテイターが勘違いしている非核化と、南北朝鮮の首脳が謳った非核化が、まったく違う意味のものであることを、テレビ報道界は肝に銘じて、アメリカの非核化を平等に俎上(そじょう)に載せなければならない。  そう考えれば、誰でもアメリカの軍需産業が核兵器を放棄するはずがないことに思い至り、ならば北朝鮮も核兵器を放棄しないことを知るはずである。1945年に広島・長崎に原爆が投下されて以来、政治体制が変わった南アフリカ共和国のような国を例外として、「核保有国は核兵器を手放さない」という不文律が、人類の認めてきた常識であるなら、その現実を認識して議論することのほうが人類にとって重要なのである。  そうした状況の中で、実は、北朝鮮の3代にわたる首脳の金日成(キム・イルソン)→息子・金正日(キム・ジョンイル)→孫・金正恩は、東西冷戦時代のある時期から、独善的な共産主義国家・ソ連が本心では好きではなくなり、北朝鮮の後ろ楯となってきたモスクワのクレムリンを信用しなくなった。そのため裏では、「北朝鮮の存続にとって重要なのはアメリカである」という政治戦略をもって、いかにしてアメリカを味方につけるかという独自の政策を進めてきた、と言われているのである。  その北朝鮮がことあるごとに「ソウルを火の海にしてやる」と叫んできた言葉は、韓国の首都ソウルに人口が集中し、南北国境のすぐ近くにあるので、脅しではなく半ば本気であった。ところが、その北朝鮮軍部にとって“最大の軍事作戦”は、ソウル攻撃ではなかった。北朝鮮に向けて核ミサイルを配備してきたアメリカに対抗して、北朝鮮も原水爆を保有し、合衆国本土に到達する大陸間弾道ミサイル(ICBM)を開発することにあったのだ。したがって、北朝鮮にとっては日本も眼中にない。ミサイル発射実験でミサイルが日本の上空を横断しても、北朝鮮の標的は日本ではなくアメリカ本土なので、日本人はまったく心配する必要はない。日本がそれで空騒ぎするのは、安倍晋三らの軍国主義一派が日本を軍事国家に変える口実に北朝鮮を悪用し、事情を知らないテレビ報道界が騒ぐからである。  こうして北朝鮮は世界最大の軍事国家アメリカ政府に対して、「余計なことをすると、ニューヨークかワシントンに一発お見舞いするぞ」という脅迫に成功して、トランプ大統領を首脳会談の場に引きずり出すまで手なずけたので、現在はアメリカの出方待ちの状態にある。  よって私が日本のテレビ報道界に尋ねたいのは、アメリカとIAEA(国際原子力機関)は、なぜ北朝鮮やイランの核兵器だけを非難するのか、ということなのである。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の国連5大国が核兵器を持っていることをほとんどの人間が常識だと考えていると共に、紛争地域であるイスラエル、インド、パキスタンの核兵器が放任・黙認されているのはなぜなのか? おかしいではないか。この質問に答えられない人間は、北朝鮮の非核化などに言及する資格がないことこそ、むしろ人間の良識であろう。  したがって国際社会は、あり得ない北朝鮮の非核化を議論して時間を浪費するより、現実の敵対的武装を解除するという和平に向けての議論を進め、互いに「友好関係を深める」だけで必要十分なのである。その目的を達成したのが、今年6月30日に南北国境の板門店をトランプ大統領が電撃的に訪れて、金正恩委員長と握手を交わし、軍事境界線を越えた行為であった。この出来事は、文在寅大統領が語った通り、「文書上の署名ではないが、これでアメリカと北朝鮮の敵対関係が事実上、終息して新しい平和時代の本格的な開始が宣言された」のである。  なぜなら北朝鮮は、「アメリカが北朝鮮の友好国になるなら、われわれに核兵器は一発も要らない。核の全廃は簡単なことだ」と全世界に向かって宣言しているからだ。 ※週刊朝日オンライン限定記事
広瀬隆「なぜ朝鮮戦争が起こったか」
広瀬隆「なぜ朝鮮戦争が起こったか」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 国連軍と北朝鮮軍による占拠、奪回の繰り返しで破壊されたソウル=1952年(C)朝日新聞社 オープンカーで閲兵する朴正熙・韓国大統領(当時)= 1977年、ソウルで(C)朝日新聞社  前回に続いて、1965年の日韓国交正常化がどのようにおこなわれたかを説明する。当時、日韓国交正常化の交渉内容が発表されると、植民地支配時代の侵略者・日本に対してまったく賠償を求めていない日韓条約に、韓国民は激怒し、「日本との屈辱外交に反対する全国民闘争委員会」が結成され、ソウル大学では多くの学生が断食闘争に突入するなど、反対の声が爆発的に韓国全土に広がった。  当時の大統領・朴正熙(パク・チョンヒ)は、この世論に追いつめられたので、非常戒厳令を発布して、学生をはじめ1000人以上を逮捕し、内乱罪などで弾圧を続けて、反対の声を鎮圧したのだ。  このように軍事独裁者・朴正熙が戒厳令下に強権をふるって、韓国民の声を圧殺して日韓条約を締結したのだから、そもそも、ほとんどの韓国民は、日韓基本条約も請求権協定も認めていなかったのである。  そして昨年2018年10月30日に韓国最高裁の賠償命令判決が出された時点でも、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の与党「共に民主党」だけでなく、与党の政策を支持する少数党「正義党」と、反対勢力であるほかの野党も含めて、韓国民のほぼ全員が、韓国最高裁の「賠償金支払い命令」判決を支持したのだから、判決は「韓国民の総意」であり、現在の論争の原因は文在寅政権の政策とは関係がなかった。  日本のテレビ報道界が叫んだ文在寅批判はまったくの見当違いであった。1965年から現在まで、韓国民の意見が変わっていないことは明白である。これまで日本と韓国の民衆は仲良くしていたが、こうして日本のテレビ報道界の恥ずべき間違いによって日韓関係が悪化したのである。  このような戦時中の賠償問題で日本と比較されるドイツでは、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領(当時)が、「過去に目を閉ざす者は、現在をも見ることができない」という格調高い演説をドイツ連邦議会でおこない、ドイツ人がナチス時代におこなった過去の行為について、被害国と被害者に対して誠実に謝罪し、賠償もし、国内法によってネオナチ的行為を禁止できるようにしてきた。その結果、ドイツに対する戦時中の批判はまったく起こっていない。  ところが、戦後に周辺諸国に対して誠実に謝罪せず、賠償責任を積極的に正しく果たそうとしてこなかった日本人は、「金を払えばいいのか?」という程度のレベルの低い認識しかなく、戦時中の行為を心から反省もしていない。特にテレビ報道界は、何か言われるとすぐに開き直って「それは反日だ」というキャンペーンを続けてきた。これからアジアの外国人労働者を数多く受け入れようとしているのが日本であるならば、「いつまでも人権を無視して、恥ずかしくないのか?」と尋ねたくなる。  だがしかし、日本人の中に、韓国や北朝鮮が嫌いな「嫌韓」人間がいることを問題にする前に、戦後にどのようにして韓国と北朝鮮という国家が生まれ、なぜ同じ朝鮮民族が南北に分断されて戦争させられたかという歴史を日本人が知らないことに、親しくすべき隣国・韓国と北朝鮮との感情の行き違いがあるのだ。  問題は、朴正熙大統領が日本の植民地統治時代に「日本の軍人になろう」と志して、満州で軍官学校に自ら志願して入学した人間だったことにある。卒業後の彼は、大日本帝国の陸軍士官学校に留学して、満州軍の副官という肩書きで“日本軍人・高木正雄という日本人名に改名”し、大日本帝国のアジア侵略を正しいと教える悪しき日本式の軍人教育を受けた人物であった。  朴正熙は、こうして出世街道を直進し、朝鮮人から見れば売国奴の日本軍人だったので、1945年8月15日に日本が降伏した時、朝鮮人が解放されるという災難に見舞われてしまった。そこで戦後は、自分の過去を隠して寝返り、軍事クーデターを起こして1963年に大統領となった“親日派”であったのだ。彼の娘が2013年に大統領となった朴槿恵(パク・クネ)であった。  かような戦時中の売国奴であれば、「個人に対する賠償を日本に請求する権利など認める必要はない」という日韓条約を結んだ経過は、必然と言えば必然の結果である。  では責任者は誰なのか。  どうしてこのような戦後の韓国史が生まれたかと言えば、1945年に米軍が南朝鮮に進駐して以来、北朝鮮に進駐した共産主義国家・ソ連とのイデオロギーの対立から冷戦が始まり、その時アメリカ軍政がアジアでの共産主義撲滅のために“親日派”を採用して韓国という国家を創ったからなのである。  したがって、発足した韓国の情報機関が国家保安法のもとで大日本帝国の特高警察から拷問技術を受け継ぎ、また一方で、賠償を受けるべき強制連行被害者が切り捨てられてきたのは、すべて東西冷戦による南北対立から始まった朝鮮戦争と表裏一体になった出来事であったのだ。  私は現在76歳だが、この高齢者でさえ、このような朝鮮半島の歴史を学校でまともに習ってこなかったのだから、私よりずっと若いテレビ報道界の人間が知らないのは当然である。  われわれ日本人が、ここで思考を止めてはいけないと強く感じるのは、さらに現在の北朝鮮のミサイル問題の真相を知ろうとすれば、行き着くのが、この朝鮮半島の戦後史だからである。  北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長と韓国の文在寅大統領が、昨年4月から南北首脳会談を3度も開いて、いまだに両国のあいだで休戦協定さえ結んでいない1950年代の朝鮮戦争を完全に終わらせ、南北朝鮮が平和統一に向かっていこうとしている姿勢に対して、足を引っ張っているのが、日本の全テレビ報道界なのだ。若いので歴史を知らないからといって、許される態度ではない。だからこそ、ここまで、報道に従事する人間が必ず見ておくべき韓国映画の名作を紹介してきたのである。  安倍晋三が、無条件で北朝鮮の金正恩委員長に首脳会談を求めても、北朝鮮がその申し出を一笑に付したのは当然である。北朝鮮で強制連行した労働被害者たちに対する巨額の賠償についても、日本は国交正常化の第一歩からやり直さなければならないというのに、「韓国の強制連行被害者に対して日本企業は賠償金を支払うな」と叫ぶような安倍晋三が、戦後処理の国交正常化交渉をしていない北朝鮮に対して、戦時中の大きな罪の償いに踏み切るはずがない。加えて、国連を通じて、声高に北朝鮮制裁を叫んできた人間が安倍晋三なのだから。 ※週刊朝日オンライン限定記事
広瀬隆「キム・ヨナが歌った『3456』の意味」
広瀬隆「キム・ヨナが歌った『3456』の意味」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 「3456」を歌うキム・ヨナ(youtubeから)。3は三・一独立運動(1919年の反日国民総決起)、4は四・一九学生革命(1960年の李承晩政権打倒運動)、5は五・一八光州事件(1980年)、6は六月民主抗争(1987年6月10日から) ソウルの西大門刑務所跡で開かれた3・1独立運動100年の記念集会=2019年3月1日(C)朝日新聞社  みなさん、キム・ヨナを知ってますよね。2010年のカナダ・ヴァンクーヴァー・オリンピックのフィギュアスケート金メダリストで、2018年平昌(ピョンチャン)オリンピックの最終聖火ランナーをつとめた韓国スポーツ界で人気№1の女王です。  彼女は、もともと音楽の才能が抜群だからフィギュアの女王になったので、歌唱力も一流で、反政府ブラックリストを作成した朴槿恵(パク・クネ)前大統領とは“犬猿の仲”だった。今年3月1日、韓国民にとって一世紀の歴史を振り返る重要な記念日に「3456(スリー・フォー・ファイヴ・シックス)」という曲を彼女が素敵な声で歌ったのはそのためだ。  今年の100年前、1919年3月1日に、朝鮮を植民地化する日本に憤激する「三・一独立運動」が起こって、この日が現在の韓国の実質的建国記念日とみなされているのである。3月1日から5月まで激烈な反日運動が朝鮮全土に拡大したのだが、日本の原敬(はら・たかし)内閣が軍隊を派遣して徹底的に弾圧し、7509人が大量虐殺されて独立運動は鎮圧されてしまった。朝鮮人死者は、朝鮮各地の記録を合計した正確な数字である。日本人は、実におそろしいことをした民族だ。  キム・ヨナの歌の最初の「3」が、この三・一独立運動の3である。「4」は、国家保安法の拷問国家を生み出した李承晩(イ・スンマン)政権を打ち倒すため1960年4月19日に起こされた学生革命運動の「4」月である。「5」は、光州虐殺事件の1980年「5」月18日で、「6」は盧武鉉(ノ・ムヒョン)と文在寅(ムン・ジェイン)が投獄された1987年の「6」月民主抗争だ。つまり3456の数字は、韓国の独立運動と、本稿で紹介してきた民主化を実現するために韓国民が命を懸けて闘った貴重な歴史を物語っていた。  そのような完全に政治的な歌をフィギュアスケート界の女王が歌うところに、韓国人の反骨精神を感じるのは、私だけではあるまい。その時、日本のテレビ報道界は改元なんかで騒いでるんだからね。  どこぞの国の総理大臣が「令和」は万葉集に由来するので初めて日本の古典に基づく元号だと言ったらしいが、そもそもその万葉集の原典は、岩波書店が出版した『新日本古典文学大系』の『萬葉集一』の注釈によれば、中国南北朝の詩文集『文選』に含まれた後漢の人、張衡の詩が本来の出典なので、中国、つまり外国の古典に由来しているんだぜ、おい、安倍君。  なぜこんな当たり前の史実を、日本のテレビ・新聞お抱えの知識人が指摘しないのかねえ。  こういう正論を言う私に対して、韓国人はこう言うのです。「広瀬さんは、日本では過激な人間だと思われているようだけど、全然過激じゃない。韓国の人はあなたよりずっと感情が強いですよ」って。  その通り、非常にはっきり意志を表明する韓国人に比べれば、ここに記述していることなどは、ごく穏当な見解にすぎないので、テレビ報道界は激昂(げっこう)せず、冷静に自分の行為を観察したほうが賢明である。  さて、日本人に強制連行されて働かされた朝鮮人(現在の韓国人)に対して、韓国大法院(最高裁)が日本企業に賠償を命じたことにかこつけて、日本のテレビ報道界が、「日韓国交正常化の時に、日本は韓国に金を払ったではないか」というトーンで一斉に韓国政府の文在寅政権を批判し始めたのはなぜか、という理由を知らない人もいるので、説明しておく。  戦後におこなわれた日韓国交正常化という外交事業は、1965年6月22日に日韓請求権協定が締結されて、日本は韓国に経済協力資金を支払いながら、35年の長きにわたって朝鮮を植民地支配したことを罪と認めなかった。その間、日本は、70万人以上という朝鮮人を主に農村地帯で強制的に拉致(らち)して、炭鉱や金属鉱山での採掘、道路やトンネル建設の土建業、鉄鋼業などの重労働に駆り出しておきながら、今日現在まで、大被害に遭って人生をめちゃくちゃにされた朝鮮人労働者個人に対して、まったく賠償してこなかった。  これは国際労働機関(ILO)条約に定める強制労働や、1926年の奴隷条約に記述されている奴隷制に当たるものであり、重大な人権侵害であった。ナチス・ドイツがユダヤ人をアウシュヴィッツ強制収容所に送りこんだのと何ら違わないことを、日本人が朝鮮人に対しておこなったのである。  膨大な数の被害者たちは高齢になって次々とこの世を去ったが、被害者が日本企業に賠償を求めたのは当然である。日韓基本条約を締結した当時の外相・椎名悦三郎(しいな・えつさぶろう)が1965年11月19日の国会で、「協定によって韓国に支払った金は、経済協力でありまして、韓国の経済が繁栄する気持を持って、また新しい国の出発を祝うという点において、この経済協力を認めたのでございます」と語り、賠償ではなく“独立祝い金”だったと明言した。  1965年の協定そのものが損害賠償とは無関係であることは、1991年8月27日に、外務省条約局長だった柳井俊二(やない・しゅんじ)が参議院予算委員会で日韓基本条約の請求権協定について「いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」と明言していた通りだから、韓国大法院判決が日本企業に賠償を命じたのは、当たり前も当たり前の経過である。  ところが、日本の首相・安倍晋三と外相・河野太郎が日本企業に「賠償金を払うな」と指導してきたのだ。それはおかしいと批判すべきテレビ報道界が、あべこべに率先して韓国批判をスタートしたわけである。  このおかしな経過を見ていて私が気づいたのは、強制労働被害者に対する個人補償を定めずに日韓国交正常化の条約を結んだ韓国の大統領・朴正熙(パク・チョンヒ)が、軍事クーデターで権力を握って、ヒットラーと同じように反対勢力を全員投獄した男だったという歴史を、日本のテレビ報道界がまったく知らないのだ、ということであった。 ※週刊朝日オンライン限定記事
広瀬隆「韓国の民主化闘争の軌跡とは?」
広瀬隆「韓国の民主化闘争の軌跡とは?」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 植民地支配の拠点だった京城(現ソウル)の朝鮮総督府庁舎=1935年撮影(C)朝日新聞社 韓国大法院(最高裁判所)の判決は日本でも大きく報じられた(撮影・堀井正明)  前回までに紹介した3本の韓国の大ヒット映画『タクシー運転手』『弁護人』『1987、ある闘いの真実』は、1980年代に起こった韓国の一連の民主化闘争の悲劇と勝利を描いて、それがどれほど烈しく燃え上がったかを、韓国のすべての世代に伝えてきた。このような史実に取り組む韓国の映画人の気概は、世界でも一頭地を抜いているとほれぼれする。  これらの作品が教えた意味は、韓国人であれば知らぬ者のない光州事件、学林事件~釜林(プリム)事件、六月民主抗争を通じて、人権弁護士だった盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領と、彼と共同で法律事務所を開いていた相棒弁護士の文在寅(ムン・ジェイン)大統領の人生の軌跡を映し出していたところにある。二人とも投獄されながら、国民のためにどれほど身を挺して闘ってきたかを再認識させる作品群であった。  ところが、これほどの常識を知らずにテレビ報道をしているのが、隣国のわが国なのだから、驚きませんか? だって、昨年10月から、文在寅大統領に対する批判に熱を上げてきたのが、日本の全テレビ局なのですよ。テレビだけではなく、どの新聞もほとんど同じレベルであった。  改めて言っておくと、韓国には、現在も人間の思想を裁くおそろしい「国家保安法」という法律があって、この法は、北朝鮮を「反国家組織」、つまりこの世に存在してはならないものと規定し、韓国の国民が許可なく(家族であっても)北朝鮮の人間や資料に接することを禁じ、最高刑は死刑という時代錯誤の法律である。国家保安法が公布されてから、1年間で逮捕者が11万人に達したことを、日本のテレビ報道界の何人が知っているだろうか。  この法を廃絶するため闘ってきたのが盧武鉉と文在寅なのである。それが、韓国の民主化闘争、つまり軍事独裁政治を終わらせた闘いだったのである。  では、拷問を駆使するこの国家保安法を生み出したのが誰か知っていますか? 悲しいかな、日本人なのである。大正時代の日本で、反政府思想を取り締まるために制定した治安維持法が生みの親であった。作家の小林多喜二たちを拷問によって虐殺した日本の特高警察をそっくりまねて、韓国の初代大統領・李承晩(イ・スンマン)が、1948年に国家保安法を施行して、「米軍の撤退と南北朝鮮の統一」を主張する平和主義者をすべて犯罪者にしたのだ。  1948年?  そう、この2年後に北朝鮮と韓国のあいだで朝鮮戦争が始まった、と言えば、初歩的な歴史を知らない現代日本の若いテレビ報道人も、知識の一滴を飲んで、自分たちが見ている北朝鮮と韓国の関係について、多少は目が覚め始めるだろう。  韓国は、1993年まで軍事独裁政治がおこなわれてきた国である。日本は戦後にGHQが乗り込んできて、治安維持法を廃止したため、やむなく民主化されたが、韓国は日本より後進国だったのだ。そこで2003年の盧武鉉政権時代から、国家保安法を廃止させようとしながら、朴槿恵(パク・クネ)=前大統領=たちの保守派が抵抗して、いまだに廃止できない。日本人も韓国映画『弁護人』を必ず見なさいと私が言うのは、この世に拷問なんてあってはならない、というとても分かりやすい話だからである。文在寅大統領を批判するような日本のテレビ報道界には、人間の血が通っていないと私が感じるわけがそこにある。  安倍晋三たちが、特定秘密保護法を制定して国民の目をふさいでも平然としている日本人と、日本人が生み出した国家保安法をいまだに廃止できない韓国と、どちらがいいかって? どちらもおかしいんだろ? 問題は北朝鮮ではないんだろ? ならば、他国の悪口はいい加減にして、もう喧嘩はしないようにしたらどうかねと、言ってるんだよ。軍国主義なんて、もうたくさんだ、と言ってるんだよ。  軍事力というのは、いきなり使われるのではない。「わが国を守るため」と宣言して戦争が始まるのが不文律だ。その開戦のレールを敷くのは、国民を戦場に駆り出す目的のため、人間を洗脳する報道界なのだから、軍人の血気を諫(いさ)めるシビリアン・コントロールの役割がどれほど重要であるかについて、私のような人間が、頭のいい報道界に説教する必要はないはずだ。  文在寅大統領がめざしてきたのは、昨年韓国の平昌(ピョンチャン)オリンピックに「南北合同チーム」が参加した通り、同じ民族同士が対立させられてきた南北朝鮮の平和的統一という、最大の難しい問題なのだから、韓国政府批判はやめなさい。  加えて、日本のテレビ報道界は、歴史を知らなすぎる。ここまでは、韓国の国内事情を中心に話を進めてきたが、そもそも、日本のテレビ報道界が文在寅批判をスタートしたのは、昨年2018年10月30日に、日本の植民地統治時代に日本企業が朝鮮人に強制労働をさせたことに対して、韓国大法院(最高裁判所)が賠償を命じる判決を出してからだ。その時、テレビ報道界は一斉に「賠償する必要はない」というトーンで、韓国を非難した。  いいかね、1939~1945年の強制連行労働者は、『朝鮮人強制連行の記録』(朴慶植著、未來社)では72万人以上、『太平洋戦争下の労働者状態』(法政大学大原社会問題研究所編、東洋経済新報社)では82万人以上としているが、日本政府の計画では初期にこの朝鮮人労働者を「供出」させたとある。辞書を引いてご覧なさい。供出っていうのは、物資に使う言葉だよ。朝鮮人は、日本人によってモノ扱いされたんだ。日本のテレビ・新聞は徴用工(ちょうようこう)と呼んでいるが、徴用なんて生やさしい話ではない。  それをやったのが、私の祖父たちの世代なのだから、賠償を拒否する日本人を私が一喝したくなる気持は分かるだろう。1910年に日本の韓国統監・寺内正毅(てらうち・まさたけ)が韓国と日韓併合条約を締結して朝鮮を植民地化し、自ら初代・朝鮮総督に就任した当日、朝鮮の首都・京城(けいじょう)=現ソウル=で写真館を経営していた私の祖父が寺内に呼ばれて、韓国併合の祝賀会を撮影した。その後、祖父は京城商工会議所議員にトップ当選しているのだ。  幸いにも、1945年8月15日に日本が白旗を掲げて無条件降伏したので、わが祖父は無一文になって日本に帰国したが、日韓併合も強制連行も知らなかったわれわれの世代が、「私は赤ちゃんで何も知らなかったので、日本は賠償する責任はありません」なんて言ってはいけない。
広瀬隆「韓国映画『弁護人』が描いた国家保安法」
広瀬隆「韓国映画『弁護人』が描いた国家保安法」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数。 故盧武鉉大統領(右)と文在寅氏=2017年5月の韓国大統領選前に文在寅陣営提供(C)朝日新聞社 韓国で大ヒットした映画「弁護人」(C)2013 Next Entertainment World & Withus Film Co. Ltd. All Rights Reserved.  前回の最後に、光州虐殺事件翌年の1981年に、学生たちが新たな民主化運動を始めようと動き出した時、韓国の軍事独裁全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が何の罪もない学生たちに襲いかかった、と書いた。  これは韓国で有名な学林事件であった。学林とは、首都ソウルの繁華街にあって、学生たちが集まったカフェの学林茶房のことで、クーデターで権力を握った軍部が、光州事件で爆発した学生運動を弾圧しようと警察力で襲いかかったのがこのカフェであった。  共産主義者の取り締まりを名目に、すべての学生運動団体を反国家団体と規定するほど国家の圧政的暴力が横行していたので、それに反発した全国の学生連盟が学林茶房で最初の会合を持ったところで、参加者が逮捕されたのだ。  警察が、学生と労働運動家24人を連行し、水や電気で拷問を加えた後、彼らに「国家保安法」違反の罪で懲役2年から無期懲役までを科して投獄したのだ。  ソウルに続いて、南部最大の都市・釜山(プサン)でも読書会を開いていただけの学生が投獄されるという似た事件が起きたので、こちらは「釜山の学林事件」、略して釜林(プリム)事件と呼ばれた。  近年2013年に公開された韓国映画『弁護人』はこの事件を描いて、観客動員数が1100万人を超える大ヒットとなった。  なぜこの映画が多くの韓国人を呼び寄せたかといえば、これらまったく無実の民主化運動の学生に対して、釜山で無償で弁護を買って出たのがのちの大統領で、若き弁護士時代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)であり、彼をモデルにした伝記映画が『弁護人』だったからである。  加えて、映画で盧武鉉がモデルの弁護士ソン・ウソクを演じた俳優ソン・ガンホが、前回に紹介した『タクシー運転手』の主演俳優でもあった。  この作品が正直に描いた通り、盧武鉉は釜山で弁護士を開業した若き時代、農家生まれの高卒で、日本より激烈な韓国の学歴優先社会で馬鹿にされながら、税務弁護士として金稼ぎに熱心な売れっ子であった。後年に国民の人権を守るために国家と闘った盧武鉉とはまるで正反対に、豪華ヨットを買って楽しむ優雅な世界に生きていたのだ。  ところがある日、行きつけの食堂の女主人の息子が読書会を開いただけで警察に拘束され、行方不明になったというので捜し出し、拘置所に面会に行くと、見る影もない姿で全身がアザだらけであった。この学生には、かつて「国家と闘うなんて無駄なことをするな」と諭(さと)したことがあったが、それが拷問のアザであると知って頭に血がのぼったソン弁護士が豹変し、すべてをなげうって国家の不法に挑戦しはじめる。  そこから先が圧巻で、警察で犯罪の捏造が日常のようにおこなわれている冤罪と、さらに、いとも簡単に学生を「貴様は北朝鮮のスパイだ!」と有無を言わせず思想を裁いて有罪にできる恐怖の法律「国家保安法」を警察が駆使していることを初めて知って、「すべての権利は国民にある」ことを、この国に知らしめなければならないと、裁判所で事実を次々と暴いてゆくソン弁護士。  この映画のラストシーンは、学林事件から6年後の1987年、デモ参加の労働者が催涙弾で死亡した時、熱血弁護士ソン・ウソクが労働者側で行動し、法律違反で被告席に坐って裁かれる場面であった。しかし彼が犯罪者でないことは誰もが知っている事実である。釜山の弁護士99人が「ソン・ウソク無罪」の弁護を買って出た感動的な出来事で映画は幕を閉じた。  これらのことが映画の脚本ではなく、すべて事実であるから、韓国人が映画館に殺到したのである。  一連の「学林事件」ですさまじい拷問を受け、有罪となった無実の学生たちに対して、ほんの10年前の2009年に開かれた韓国の再審で、彼らは「無罪」の宣告を受けた。さらに翌2010年12月には、ソウル高等法院が学林事件の再審で「無罪」および「免訴」を判決し、判決文の中で「司法部の過誤によって被告人に苦痛を負わせたことに対して謝罪する。この判決がわずかでも慰めになることを願う」と裁判所が冤罪を謝罪し、2012年6月の最高裁(大法院)でこの事件に対する再審判決が下され、「無罪が確定」したのである。  その時、盧武鉉はこの世にいなかった。2009年5月に、夫人らの不正資金問題を検察に問われ、自分は何一つ過ちを犯していなかったが妻に対する責任を感じ、自宅近くで飛び降り自殺したからであった。  一方、盧武鉉と共同で弁護士事務所を開いていた文在寅(ムン・ジェイン)が2017年から大統領になり、人権弁護士だった彼も「私は人権弁護士になるつもりはなかった。ただ自分たちに依頼された事件から逃げることなく、依頼人の言葉に共感しながら一所懸命に弁論していたら、いつのまにか人権弁護士になっていた」と語っている通り、拷問が横行する韓国情報界が人権弁護士を必要としたために、やむなく立ち上がらざるを得なかったのである。  こうして盧武鉉と文在寅が活動の半径を広げてゆき、情報課の刑事に常に尾行される中、弁護士事務所が労働者人権センターのようになって反「軍事独裁」闘争の拠点になった。その頃、大学街では連日反政府デモがおこなわれ、大学のキャンパスは常に催涙弾の刺激臭に包まれていた。  ところが1987年1月14日に、釜山出身のソウル大学生・朴鍾哲(パク・ジョンチョル)が警察で取り調べ中に拷問で死亡する事件が起こった! この事件も、ドキュメンタリー映画『1987、ある闘いの真実』に描かれ、わずか1カ月で観客動員700万人を超えた。盧武鉉と文在寅はこの学生を追悼する会を準備して警察に連行されながら、6月10日から盧武鉉と文在寅の二人が設立した釜山民主市民協議会が中心となって民主化運動を全国的に展開し、およそ1カ月にわたって韓国全土で500万人余りが参加し、韓国史上で歴史的な「六月民主抗争」を巻き起こした。  この抗争の結果、10月に「軍部独裁ではなく、大統領を国民が直接選ぶ」という権利を勝ち取って、大統領直接選挙制と、基本権・人権の保障の拡大・強化を規定した新憲法が公布されることになり、20年後の2007年に、韓国の民主化が始まった日として「6月10日を国家記念日とする」ことになったのだ。  このような熱血弁護士二人を大統領府・青瓦台(チョンワデ)に迎えることになるとは、韓国の国民自身も想像した人は誰もいなかったであろう。  現在の朝鮮半島で何が起こっているかを知るため、すべての日本人がこれらの名作映画を見ておくべきだと思う。  映画館の観客も一体になって、政界を変えてゆく力を持っているのが韓国民である。彼らのダイナミズムは、果てしない。 ※週刊朝日オンライン限定記事
広瀬隆「韓国映画『タクシー運転手』に対する熱狂と感涙」
広瀬隆「韓国映画『タクシー運転手』に対する熱狂と感涙」 広瀬隆(ひろせ・たかし)/1943年、東京生まれ。作家。早稲田大学理工学部卒。大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』『第二のフクシマ、日本滅亡』などで一貫して原子力発電の危険性を訴え続けている。『赤い楯―ロスチャイルドの謎』『二酸化炭素温暖化説の崩壊』『文明開化は長崎から』『カストロとゲバラ』など多分野にわたる著書多数 1980年5月に起きた光州事件=東亜日報提供 光州事件を描いた映画『タクシー運転手』(c)2017 SHOWBOX AND THE LAMP. ALL RIGHTS RESERVED.  今年でちょうど100周年を迎えた韓国映画界に対して、5月のカンヌ国際映画祭が最高賞のパルムドールを与えた。受賞作品の監督ポン・ジュノは、主演俳優ソン・ガンホと組んで、これまで多くの傑作映画を世に送り出し、2人で韓国の観客動員記録を塗り替えてきた。  加えて、このポン監督と俳優ソン・ガンホの名コンビは、2人とも、朴槿恵(パク・クネ)政権時代に韓国の芸能界を襲った「反政府ブラックリスト」事件の被害者でもあった。2人が、韓国の庶民の感情をストレートに代弁する映画人だったので、韓国政府にとって“気に入らない人間”であり、弾圧しなければならない文化人のブラックリストに入れられたわけである。  それにしても、このように映画人に非人間的な圧力を加える韓国政府にはあきれて言葉も出ないが、3年前の2016年にその朴槿恵大統領が女友達の「操り人形」だったことが暴かれると、史上空前の韓国民のロウソク・デモが燃え上がって、2017年5月、人権弁護士の現在の文在寅(ムン・ジェイン)新政権が生まれた。  その年、ソン・ガンホ主演のセミドキュメンタリー映画『タクシー運転手』が公開されると、韓国内で観客1200万人というとてつもない数の人間を映画館に動員したのだ。韓国の人口は、日本のほぼ半分で、5100万人なので、日本でいえば2400万人が映画館におしかけた、というほどの名作であった。  本稿を『テレビ報道の深刻な事態』と題したのは、日本のテレビ報道に携わる大半の人が、こうした韓国政治文化界の激動とも言える重大な事実を知らずに生きていることを知った小生がビックリして、同名タイトルの原稿をアンダーグラウンドの世界で発表したところ、大きな反響があったので、週刊朝日にその原稿を紹介しろと言われて書いているわけである。  映画『タクシー運転手』が描いた大事件をくわしく述べると、今を去る40年ほど前、1980年5月18日から韓国南部の大都市・光州(クァンジュ)市で、民主化を求める地元出身の政治家・金大中(キム・デジュン)=のちの大統領=が内乱陰謀罪で拘束されたことに抗議する反政府デモがこの写真のように激化した時、大量の市民が機動隊と衝突し、その後、韓国政府軍に虐殺されたのである。戦後の韓国史の中でも特筆されるべき大事件であった。  私が、民主化を求める市民運動に招かれて韓国訪問中に、虐殺現場で市民から何度も光州事件の説明を受け、市民側の証言で驚くべき2000人以上と言われる累々たる死者の墓を見てきたので、この光州事件を描いた大ヒット映画『タクシー運転手──約束は海を越えて』を昨年、日本の映画館で見た時、目から涙があふれて止まらなかった。  映画は、全斗煥(チョン・ドゥファン)の軍政に反対して民主化を求める大規模な学生・民衆デモが起こった時、市民を暴徒とみなした軍が厳戒態勢を敷く中、ソウルのタクシー運転手キム・サボクが、ドイツ人記者ピーターことユルゲン・ヒンツペーターを乗せて光州に運んだ実録を基に、ドラマに脚色した作品である。 「通行禁止時間までに光州に行ったら大金を支払う」というドイツ人記者の約束を信じて、タクシー代を受け取りたい一心で機転を利かせて検問を切り抜け、時間ギリギリにピーターを光州まで送り届け、たまたま光州虐殺事件に遭遇したタクシー運転手マンソプは、それまでは学生の反政府デモを批判していた。ところが、無防備の市民が軍人に虐殺されているすさまじい真実を知ってから、自ら私服警察に命を狙われても命懸けで市民を助けようと動きだし、病院内部の負傷者と死者について真実を全世界に伝えるようピーターに頼んだ。最後には、光州のタクシー運転手たちが総力をあげ、次々と殺されながら、この市民虐殺の実写記録を持つドイツ人記者ピーターの乗ったタクシーを光州からソウルに脱出させるまでが描かれた。  かくしてドイツ人記者が当時のすさまじい実写映像を全世界に放映し、それが韓国に逆輸入され、全斗煥たち独裁軍人の悪事を初めて知った韓国民が衝撃を受けた史実である。タクシー運転手マンソプを、カンヌ映画祭パルムドール俳優ソン・ガンホが迫真の演技で演じ、実在のドイツ人記者ピーターを『戦場のピアニスト』でドイツ人将校に扮したトーマス・クレッチマンが演じた。  現在の朝鮮半島で何が起こっているかを知るため、すべての日本人にこの映画を見てほしいと思う。  なぜ、そう思うかって?  政治家やテレビ評論家の言葉を百回聞くより、この世に実際に起こった出来事の現場にわれわれが立ち会って、感情を体験したほうが、ものごとを深く理解できるからである。映画は、あくまで過去の事実を脚色して再現したものだから、実写ではないが、名作は、監督と役者が、核心に触れる史実を観客に伝える。  この『タクシー運転手』の場合、映画人が伝えようとした歴史に、なぜ膨大な数の韓国民が熱狂し、感涙にむせんだかといえば、光州市民とタクシー運転手たちが殺されても殺されても軍人に刃向かって動いたからこそ、民主的な国家の基礎が築かれ、現在の韓国が生まれたことを知っているからである。  いや、それほど簡単に、韓国の民主化が実現したわけではなく、正確には光州事件は、韓国の民主化運動の重大な一里塚であった。事件によって軍事政権のおそろしさを知った韓国人の中で、翌年の1981年から学生たちが新たな民主化運動を始めようと動き出した時、大統領に就任した全斗煥の独裁政権が、今度は何の罪もない学生たちに襲いかかったのである。  何しろ、その当時の韓国の情報機関は、1980年末に、韓国中央情報部(KCIA)が国家安全企画部(安企部<あんきぶ>)と改称されて組織の再編がおこなわれ、アメリカのCIAやソ連のKGBから民衆弾圧法を学び、1945年まで朝鮮半島を植民地にした日本の特別高等警察(特高)から拷問の技術を受け継いでいた。  その情報機関がすさまじい「アカ狩り」を展開し、学生たちを殴る蹴るは日常茶飯事で、水の中に頭を突っこむ水拷問や、全身に電流を通じる電気拷問を加えては、思想犯罪を裁く「国家保安法」のもと、軍事独裁政権に反対する人間を、有無を言わせず、すべて犯罪者にしたのだ。 ※週刊朝日オンライン限定記事
「松井シフト」に「イチローシフト」 強打者は“包囲網”にどう挑んだのか?
「松井シフト」に「イチローシフト」 強打者は“包囲網”にどう挑んだのか? 巨人時代の松井秀喜 (c)朝日新聞社  2019年シーズンが開幕して約1カ月が過ぎ、毎日贔屓チームの勝敗をチェックする今日この頃だが、懐かしいプロ野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、80~90年代の“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「シフトに挑んだ男たち編」だ。 *  *  *  今季は日本ハム・栗山英樹監督の吉田正尚シフトが話題を呼んでいるが、過去にも“王貞治シフト”に代表されるように、強打者をターゲットにした〇〇シフトが何度となく敷かれているのは、ご存じのとおりだ。  パリッシュといえば、ヤクルト時代の1989年にセ・リーグの本塁打王に輝き、“ワニを食べる男”としても話題になった。この“ワニパワー”を封じるべく、“パリッシュシフト”を敷いたのが、藤田元司監督率いる巨人。  同年8月1日の試合(東京ドーム)で、左方向への打球が多いパリッシュが打席に入ると、ショート・川相昌弘が三遊間に、セカンド・篠塚利夫がショートに移動。サード・岡崎郁とともにニ、三塁間を野手3人で守るシフトで対抗したのだ。しかも、マウンドにいたのは、パリッシュの天敵・斎藤雅樹とあって、まさに“鬼に金棒”の布陣だった。  ところが、これだけ用意周到のシフトにもかかわらず、9回の4打席目、パリッシュは斎藤の外角スライダーを左手1本だけで左越え二塁打を放つ。これまで20打数2安打0本塁打とほぼ完璧に抑えられていた天敵から放った初の長打でもあった。 「手を伸ばすだけ伸ばした。とにかく、これからは左手だけで打つようにするよ」とご機嫌のパリッシュだったが、阪神移籍後の翌90年は、斎藤から1本も安打を記録することができず、せっかく編み出した“秘打”もご利益なし。最初からシフト要らずだったような気もするが……。  ID野球で知られる野村克也監督も、南海のプレーイングマネジャー時代に打球方向を分析し、長池徳二シフトや永淵洋三シフトを試みているが、ヤクルト監督時代にそのターゲットになったのが、巨人ルーキー時代の松井秀喜。  9月18日、東京ドームでの試合、1回表1死二塁の場面で、この日まで打率は1割9分7厘ながら7本塁打を放っている3番・松井が打席に入ると、ショート・池山隆寛が二塁ベース寄りに移動し、セカンド・ハドラーが一塁方向に位置を変えた。一、二塁間を野手3人が守る“松井シフト”である。  ベンチの野村監督の指示と思われたが、実は、池山独自の判断だった。その野村監督も「松井のあの打ち方では、三遊間に飛ぶ確率はないからね。指示じゃあないが、悪けりゃ戻しとる」と追認。若芽が伸びる前にひと叩きしておこうと、状況を見守っていた。 「池山さんが二塁に近寄っていたのは知っていましたが、意識はしなかったです」という松井は、この打席こそ四球で出塁したものの、3回の第2打席ではヒット性の当たりがハドラー正面をつき、まんまとシフト網の餌食に。第3打席は左飛、第4打席は三振に打ち取られ、3打数無安打と音無しで終わった。  それでも長嶋茂雄監督は「1人前と認められたということです」とポジティブにとらえ、翌19日のヤクルト戦でも松井を3番で起用した。  そして、5回に中越え先制タイムリー二塁打を放った松井は、7回にも池山の逆をついて三遊間に転がし、ついにシフト破りに成功。ベース上で「頭の勝利!」と言いたげに自身の頭をツンツンと指差すパフォーマンスを見せた。  高卒ルーキーに1本取られた形となった野村ID野球は、この日0対8と大敗する羽目になった。  “松井シフト”の翌年、94年には、“イチローシフト”がお目見えする。  開幕から安打を量産し、59試合で98安打を記録したイチローは、6月25日の日本ハム戦(東京ドーム)で、プロ野球新記録の60試合での100安打(それまでの記録は南海・広瀬叔功の61試合)に挑戦した。  初回に左越え二塁打を放ち、リーチをかけたイチローだったが、日本ハム・大沢啓二監督はショート・広瀬哲朗を二塁ベース寄りに守らせる“イチローシフト”で対抗する。  そして、「もう1本打とうと思って打席に入りました」と記録更新を狙ったイチローは、3打席凡退後の9回の5打席目、マウンドの金石昭人の頭上を抜ける打球を放つが、ふつうなら外野に抜けてもおかしくないのに、皮肉にも広瀬の前でバウンド。シフトの餌食になったかに思われた。  だが、持ち前の俊足で広瀬の一塁送球がシューのミットに届くよりも一瞬早くベースを駆け抜け、見事内野安打を記録。この瞬間、史上最速の100安打が達成された。これには大沢監督も「あいつはプロ野球の財産や」と脱帽するしかなかった。  さらに同28、29日の近鉄戦(日生)でも、内野安打を警戒する鈴木啓示監督が、セカンド・大石大二郎、ショート・吉田剛に中間守備、ファースト・石井浩郎、サード・金村義明に前進守備をとらせるイチローシフトを敷いた。  28日は3打数1安打に終わったイチローだったが、翌29日は第1打席で石井の頭上を越える右前安打、第2打席は大石のすぐ横を抜けるセンター返しのタイムリー、第3打席は前進守備の逆をつく中前安打、第4打席はセーフティバントで石井の逆をつく内野安打といった具合に、シフト破りの4打数4安打。この結果、打率を4割7厘まで上げ、6月以降では史上4人目の4割打者となった。  これもボールをギリギリまで引きつけ、野手の動きを見ながら、バットコントロールすることが可能な振り子打法の勝利と言えるだろう。 ●プロフィール 久保田龍雄 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2018」上・下巻(野球文明叢書)。
まもなく葉室麟さん一周忌 ゆかりの作家3人がしのぶ
まもなく葉室麟さん一周忌 ゆかりの作家3人がしのぶ 葉室麟(はむろ・りん)/1951年、北九州市生まれ。地方紙記者などを経て、54歳のとき『乾山晩愁』でデビュー。以来12年間で約60冊の小説・エッセーを出版。2012年『蜩ノ記』で直木賞。16年『鬼神の如く 黒田叛臣伝』で司馬遼太郎賞。「曙光を旅する」は15年4月から朝日新聞西部本社版に連載。週刊朝日で「星と龍」を連載中だった17年12月に病気のため亡くなった (撮影/加藤夏子) 【左】朝井まかて(あさい・まかて)/1959年生まれ。『恋歌』(直木賞)、『阿蘭陀西鶴』(織田作之助賞)、『雲上雲下』(中央公論文芸賞)など。「グッドバイ」を朝日新聞で連載中 【中央】東山彰良(ひがしやま・あきら)/1968年生まれ。『路傍』(大藪春彦賞)、『流』(直木賞)、『僕が殺した人と僕を殺した人』(読売文学賞)など 【右】澤田瞳子(さわだ・とうこ)/1977年生まれ。『孤鷹の天』(中山義秀文学賞)、『満つる月の如し』(新田次郎文学賞)、『若冲』(親鸞賞)など (撮影/写真部・小山幸佑)  作家・葉室麟さんが他界し、もうすぐ1年になる。<歴史の主役が闊歩する表通りではなく、裏通りや脇道、路地を歩きたかった>。そんな思いでつづられた遺作エッセー『曙光を旅する』(朝日新聞出版)が刊行された。眼光鋭く、情に厚い。そんな兄貴分を思い、朝井まかてさんと東山彰良さんが語り合った。澤田瞳子さんも飛び入りし、盛り上がる対談会場は、いっそう熱を帯びた。 *  *  * 東山:葉室さんと初めてお会いしたのは2015年、ぼくの作品『流』が直木賞候補になった頃です。酒席となり、よく呑みました。電車で帰る方向が一緒でしたが、葉室さんはとても遠くまで乗り過ごしてしまった(笑)。 朝井:わたしも初めてお目にかかったのは3年ほど前。「月刊葉室」と言われるほど忙しくされていて、編集者からの電話もほぼ鳴りっぱなしでした。でも、その忙しさを楽しんでおられるような、とても充実しているふうでした。 東山:意気投合したぼくは、福岡久留米界隈で葉室さんと呑むようになりましてね。関西在住のまかてさんや澤田瞳子さんのことをよく話題にしていたなあ。 朝井:あれでしょう。わたしが執筆しているとき、血行を悪うせんよう「しめつけへん」格好しているってこと、知らぬ間にネタにされていた(笑)。でもわたしたち後輩作家にもいつもユーモア交じりで、垣根を構えない人でしたね。 東山:知り合いになり、普段は海外の作品ばかり読んでいるぼくは、『蜩ノ記』から読みました。自分がやろうとしていることが書かれていて、やられたな、と痛感しましたね。 朝井:『蜩ノ記』は、最期の日が決まっている、その日までどう生き尽くすか、という生の美学だと思います。『曙光を旅する』に筑豊の記録文学作家の故・上野英信さんのご長男を訪ねる場面があるでしょう。炭鉱労働者とともに生きた上野さんの姿を、葉室さんはお若い頃から鏡のように見ていたのでは、と感じるんです。自分は何ができるのかと、ご自身に問い続けたのではないでしょうか。 東山:ぼくは年に1、2冊ですが、葉室さんは年に何冊も本を出し続けました。それは自分でも消化しきれない葛藤があったからだと思うんです。新聞記者をされていた頃から、いろんな葛藤が蓄積していたのではないでしょうか。 朝井:『曙光』で小倉を旅したときに、「国破れて山河あり」で知られる唐の詩人、杜甫(712~770)の詩にふれていますね。<時代を詠(うた)う詩人は、今でいうジャーナリストの側面も持っていたのではないか>と喝破しておられるくだりが印象的です。 ■孤独な小説執筆、後輩引き合わせ 東山:葉室さんは新聞記者の目で社会を見ていましたね。いろいろと憤っているお話を聞いていると、作家というよりも、記者の視点だと思いました。2年前に司馬遼太郎賞を取り、ようやく自分がやりたいことができるようになった、ノンフィクションにも挑戦したい、と言っていました。でも実現する前に……。 朝井:記者出身の司馬遼太郎さんを尊敬しておられましたものね。『曙光』は担当の記者さんに触発されたんでしょうか、原稿にも4回、5回と随分と手を入れられたとか。作家のエッセーというのは、どちらかと言えば瞬発力で書くものと思いますが、それを聞いて意気込みを感じました。 東山:『曙光』を読んでいると、葉室さんのことをとても身近に感じてしまいます。思い出すことが多くて、読み進めるのが大変です。 朝井:わたしも読むたびに立ち止まります。作家として生きる、日本に生きるとは……投げかけられることが多い。葉室さんの声や気配を思い出して、胸もいっぱいになるし。 東山:思い出は尽きませんね。葉室さんと対談する機会が結構あって、テッパンのネタがあるんですよ。これを出すと、会場がどっかんどっかん受ける、という。「そろそろパス出すぞ」というサインが来て、ぼくがシュートを決めたものですが、それももうできなくなりました。 朝井:酔ったときのひがみ系のネタもおもしろかった。「ぼくのところにくる女性編集者も女性記者も、みんなニコニコしているけど、本当にモテているんだろうか」とかわたしに聞くんですよ。そんなん、聞かれても(笑)。 東山:それも酔っ払いながら計算ずくで笑いを取っていましたね。 朝井:小説の執筆は孤独だし、しんどい仕事です。だから後輩を励まそう、というお気持ちが強かったのでは。『曙光』で大分の日田を訪れ、儒学者、広瀬淡窓が文化年間から幕末にかけて教えていた私塾を訪問しています。門人を励ました詩の一節「君は川流(せんりゅう)を汲(く)め我は薪(たきぎ)を拾わん」という言葉は、まさに葉室さんらしい。群れたがる人じゃないんです。共に進もうという心。 《ここで、後輩の作家仲間として、会場にいた澤田瞳子さんが促され、壇上へ》 澤田:わたしも3年ほど前に、葉室さんと出会いました。お酒は呑めないのですが、電話魔の葉室さんに突然声をかけていただき、朝の5時までご一緒したことがあります。お酒だけでなくて、甘いものもお好きでした(笑)。 朝井:人と人を引き合わせる方でしたよね。君はあの人に会っておくべきだ、と電話で説得されたことも(笑)。 東山:その強引さでぼくら3人は知り合いになれました(笑)。 澤田:明治150年を深く意識されていたことが、すごく印象深いです。大久保利通や西郷隆盛の話をされ、今という時代の歪みは、明治から始まるものであると。病気で体調を崩され、わたしが葉室さんの代わりに、解説文を書かせていただいたこともありました。あれでよかったのかと思いますが、ぼくの明治維新についての考えは澤田にすべて話しているから、と言ってくださって。 東山:ぼくも機会をいただきました。幕末を舞台にした『夜汐』という、初の時代小説を刊行したのですが、その連載開始の頃、背中を押してもらいました。ぼくの国籍は台湾なのですが、「東山さんみたいな人が日本の歴史を書けば、アジア的な広がりが出る」と。日本の近代や現代を、葉室さんのように歴史の観点から相対化してみたいです。 朝井:わたしも葉室さんに教示を受けて、日本の近代化とは何だったのか、を考え続けています。皆、それぞれ書くべきものを書くだけですが、志を受け継ぐことはできる。昨今、言葉の力が弱くなったと言われますが、葉室さんは(言葉の力を)信じていたし、わたしも信じています。自分なりに書き続けることで、葉室さんと、そして歴史と対話し続けたいと思います。 (構成/朝日新聞文化くらし報道部・木元健二) ※週刊朝日  2018年12月14日号
野村克也、“喧嘩上等”だった現役時代 本塁突入の相手に…
野村克也、“喧嘩上等”だった現役時代 本塁突入の相手に… 南海時代の野村克也 (c)朝日新聞社  2018年シーズンも終盤戦に差し掛かり、ペナントの行方が気になる今日この頃だが、懐かしいプロ野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、現役時代に数々の伝説を残したプロ野球OBにまつわる“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「怒れる野村克也編」だ。 *  *  *  野村克也とラフプレー。一見ご縁がなさそうだが、意外なことに、現役時代は一度ならず“怒りの番外プレー”を披露している。  1969年7月12日の近鉄戦(日生)。南海は0対2の3回に野村の14号2ランで同点とし、再び1点をリードされた5回にも広瀬叔功の右前タイムリーで追いつく粘りを見せる。  だが、その裏、近鉄は2死二塁と再び勝ち越しのチャンスをつくり、3番・永渕洋三が二塁内野安打。捕球の際にブレイザーの体勢が崩れたのを見た二塁走者・岩木康郎は一気に本塁を突いた。  タイミング的にはアウトだったが、1977年に“登録外選手の退場処分”という珍事の主役にもなったファイター・岩木は、捕手・野村に体当たりしてきた。「オレを潰そうとしている」と直感した野村は、「反対に潰してやる」といきり立ち、タッチの際にひじ打ちを食らわせた。直後、本塁上で両軍ナインが入り乱れる騒ぎとなったが、その代償も大きかった。  試合は南海が9対3で勝ったものの、問題のプレーで左肩を脱臼した野村は、8月まで13試合も欠場する羽目になり、12年連続出場していたオールスターや連続試合出場、シーズン30本塁打、シーズン100安打など「連続」と名のつく記録すべてが途切れてしまったのだ。 「冷静に体当たりをかわしてタッチしていれば……」。まさに「後悔先に立たず」を地でいったような結果になった。  だが、同年、チームは2リーグ制以降初の最下位に沈み、飯田徳治監督がわずか1シーズンで引責辞任。その後任人事でプレーイングマネジャーとして再建を託され、後の“名将野村”が誕生するのだから、人間どこでどうなるか本当にわからない。  それから4年後、1973年7月29日の阪急戦(大阪)で再び“怒れるノムさん”の姿が見られた。  6回までゼロ行進の阪急は7回、代打・当銀秀崇の右前タイムリーでようやく1対1の同点に追いつき、なおも1死一、三塁、1番・福本豊の二ゴロで三塁走者・平林二郎が本塁を突いた。  スライディングした平林が捕手・野村の右手を蹴った際に、スパイクが右手親指に突き刺さった。判定はアウトだったが、怒った野村は、うつぶせになっている平林の腹のあたりを足蹴にした。 「(親指に)ゴボっと穴が開けば、カッともなるよ。退場?考えなかったね」  これを見て激高した阪急・西本幸雄監督がベンチを飛び出し、野村につかみかかったのを合図に、本塁上で両軍ナインが押し合いへし合い。試合は17分間中断した。  西本監督は「あれが暴力でなければ、暴力行為などなきに等しい」と野村の退場を要求したが、審判団は「故意に蹴ったのを見たと思う」(野村)にもかかわらず、暴力行為とは認めなかった。ツイていたとしか言いようがない。  しかし、ツキがあったのはここまで。試合再開後、8回に森本潔の決勝2ランを許し1対3と無念の逆転負け。「オレ一人で負けた」とボヤく羽目に。  引き続き行われたダブルヘッダー第2試合も、2点リードを9回に追いつかれ、7対7の引き分け。同年から導入された2リーグ制で前期優勝をはたした南海は、後期はこの2試合も含めて阪急に0勝12敗1分と完膚なきまでに叩かれたため、「死んだフリ」などと言われたが、指揮官がこれだけ熱くなっているのだから、ガチで勝ちにいっていたことがわかる。  そんなノムさんにも、ついに野球人生初の退場宣告を受ける日がやってきた。  阪神監督時代の1999年8月7日のヤクルト戦(神宮)。両チーム無得点で迎えた3回、阪神は無死一、二塁、湯舟敏郎が三塁前に送りバントした。  打球を処理したサード・池山隆寛の一塁送球がそれ、ファースト・ペタジーニがかろうじてキャッチしたが、捕球より一瞬早く足がベースを離れたように見えた。  ところが、小林毅二一塁塁審の判定は「アウト!」。平田勝男一塁ベースコーチが怒りをあらわにして、「離れてるじゃないか!」と詰め寄った。  続いて野村監督もベンチを飛び出し、「タイミングはアウトや。それはオレにもわかる。でも、足が離れるのが早いやないか」と理詰めで抗議した。  だが、何を言っても小林塁審が聞く耳を持たないため、つい「このバカ!」と声を荒らげたのが命取り。現役時代も含めて通算4361試合目で初の退場を宣告されてしまった。  同年は7月16日の巨人戦で、坪井智哉がガルベスから死球を受けると、「故意死球は許されるのか」と息巻き、同18日の巨人戦でも、メイの一塁ベースカバーのセーフ判定をめぐって「(疑惑の判定は)巨人戦に多いな」と批判するなど、審判との対立がエスカレート。これらの言動が伏線になっていた感も否めない。 「まあ、いずれやられるとは思っていたよ。あいつはなぜかオレに対しては、ムキになりよる。反野村のキャプテンや」とボヤきつつ退場した野村監督だったが、せっかくの先制機も無得点に終わり、その裏、2点を先行される悪い流れに。  だが、まさかの人生初退場劇がナインの闘志を呼び覚まし、阪神は同点の7回に2点を勝ち越し、7対6で逃げ切り。7月下旬から続いていた連敗も「9」でストップし、「よう勝ってくれた」と一転大喜びのノムさんだった。 ●プロフィール 久保田龍雄 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。
「理想のママNo1」松嶋菜々子が私生活で見せる素顔
「理想のママNo1」松嶋菜々子が私生活で見せる素顔 松嶋菜々子  (c)朝日新聞社 「ママ友とも気さくにランチをしますし、学校行事にはご夫婦揃って参加されて、ごく普通のきれいなママという感じです」  ある芸能関係者は普段の松嶋菜々子(44)の様子をそう語る。  「イマドキのパパ・ママのくらしと子育てに関する調査2018」(メディケア生命調べ)の「理想の芸能人ママランキング」では1位に輝き、同時に発表した「パパランキング」では、夫で俳優の反町隆史(44)が4位にランクイン。夫婦揃って、理想のパパ・ママに選ばれた。  松嶋は来年4月から始まるNHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」ではヒロインの広瀬すず(20)の義母役で出演する。 「100作目の記念すべき朝ドラとあって、すでにロケも始まっています。ここ最近は母親役を演じることも多くなってきましたが、松嶋にとっても二度目の朝ドラになりますから、最初から気合が入っています」(NHK関係者)  プライベートでは2人の娘を持つ母親で、反町と一緒に学校行事に参加する仲むつまじい姿が毎年のように女性週刊誌で取り上げられる。 「仕事のスケジュールも、あくまで家庭を優先しながら決めるというのが方針で、反町もよく家のことをサポートしてくれるようですね。子どもたちのしつけも彼女が厳しく、反町は優しく、という役割だそうで、パパは常に優しいそうです」(前出・芸能関係者)  SNSなどで発信することもなく、トーク番組などでもあまり私生活のことは明かさないが、あるテレビ局スタッフは「漏れ伝わる素顔は普通の感覚を持った母親という感じで、その姿がママたちから支持される理由なのかもしれません」と語る。  一方でこんな話も。松嶋は2013年に映画『藁の楯』でカンヌ映画祭のレッドカーペットに登場したが、当時の様子を映画ライターがこう振り返る。 「松嶋はウェストにピンクのリボンをあしらったドルチェ&ガッバーナの水色のロングドレスで登場しましたが、観客は彼女に見とれていましたね。身長が高くスタイルも抜群、それ以上にものすごくオーラがあり、海外の大女優と並んでも全く見劣りしませんでした。現地の関係者も絶賛していました」  芸能リポーターの川内天子さんも、松嶋について「器用な女優さんではないが存在感がある」と話す。 「『家政婦のミタ』(日本テレビ系、2011年放送)が一つの転機になったのだと思います。それまではどちらかと言えば、カッコいいキャリアウーマンのイメージが強かったですが、あのドラマ以降、すんなりと母親役がなじむようになりました。自然体のまま年齢を重ね、それでいて生活感を感じさせないのに、きちんと生活している。そういう地に足が着いたところが、演技にもにじみ出るのだと思います」  松嶋&反町夫妻を取材したカメラマンは「どんなに地味な格好をしていても、あの夫婦のオーラは消えない。ドラマの撮影をしているのではと思うほど、目立つ」という。  「なつぞら」では、また新しい母親の顔を見せてくれそうだ。(ライター・黒田翔子)
昔のプロ野球が“血気盛んすぎ”  金田正一は大暴れ!
昔のプロ野球が“血気盛んすぎ”  金田正一は大暴れ! 金田正一・ロッテ元監督=1976年(c)朝日新聞社  各地でオープン戦も真っ盛りだが、懐かしいプロ野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、80~90年代の“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「退場編」だ。 *  *  *  ひとつの判定をめぐり、監督、選手、コーチの3人が退場処分になるという珍事が起きたのが、1980年7月5日の阪急vs南海(大阪)。1点を追う南海は7回2死二塁と一打同点のチャンスに、3番・片平晋作はカウント2-2から今井雄太郎の6球目、内角高めを見逃し三振。  判定に納得がいかない片平が「今の球は頭のところを通っている」と寺本勇球審に抗議すると、ベンチから広瀬叔功監督も憤怒の形相で飛び出してきて、寺本球審に体当たり。本塁ベース付近に南海のコーチ陣も集まり、審判団を取り囲む騒ぎになった。  実は、広瀬監督は6回1死満塁のチャンスでも、岡本圭右がカウント1-2から外角低めの際どい球をストライクにとられ、抗議したばかり。  「ストライクゾーンがまちまち。努めて辛抱してきたが、ミスジャッジが多過ぎる」とついに怒りを爆発させたというしだい。  ところが、広瀬監督に退場が宣告されると、今度は片平が「親分の仇」とばかりに寺本球審の首をつかんで暴行。だが、混乱のさ中の寺本球審が暴行を認識できなかったため、片平はそのままファーストの守備に就いた。  しかし、ネット裏で一部始終を見ていた堤パリーグ大阪事務所長から「片平も暴行した」と物言いがつき、審判団は協議の末、遅ればせながら、片平も退場処分にした。  すると、今度は「一度守備に就いてから退場を宣告するのはおかしい」と怒った新山隆史投手コーチが寺本球審の顔面にパンチをお見舞い。当然、新山コーチにも退場が告げられ、プロ野球史上初の1試合3人の退場劇となった。  時間差で3人から相次いで暴行を受けた寺本球審にとっては、厄日としか言いようのない一日だった。  監督の退場というと、広島時代に通算8度の退場を記録したブラウン監督を思い浮かべる人も多いはずだが、ロッテで通算8年間指揮をとった金田正一監督も“元祖退場王”として知られている。  1990年6月23日の西武戦(西武)、6対5と1点リードのロッテは7回裏、2死二、三塁のピンチ。ここでマウンドの園川一美は9番・田辺徳雄に対し、カウント1-1から3球目を投げようとしたが、三塁走者・デストラーデが本盗の動きを見せたことに慌てふためき、セットポジションで静止せずに投げてしまった。  「ボーク!」。高木敏昭球審が宣告し、三塁からデストラーデが同点のホームを踏んだ。  直後、ベンチから金田監督が血相を変えて飛び出し、「何であれがボークや!」と叫ぶと、両手で高木球審の体をドーンと突いた。問題のシーンで、伊原春樹三塁コーチがデストラーデよりも早く本塁に向かってスタートを切ったフェイントまがいの行為に、「(あんなことをしたら)投手はビックリしてホームに放るよ」というのが言い分。怒り心頭の金田監督は、さらに高木球審に右キック、続いて左キックをお見舞いした。  そして、通算7度目となる退場宣告を受けると、金田監督は「ちょっとこっちへ来い!」と審判団をマウンドに呼集。園川からボールとグラブを奪い取ると、自らボークシーンを再現し、「これのどこがボークや!」と訴えた。  それでも審判団が聞く耳を持たなかったため、金田監督はナイン全員をベンチに引き揚げさせ、放棄試合をほのめかす騒ぎに発展したが、8分間の中断の後、連盟への提訴を条件に試合再開。ボーク騒動が尾を引いて、ロッテは6対13と大敗した。  その後、金田監督には出場停止30日間、制裁金100万円という重い処分が下り、高木球審も事件のショックからシーズン途中で辞職するなど、後味の悪さを残すことになった。  数ある退場劇の中でも、審判にボールを投げつけるというとんでもない暴挙を起こしたのが、巨人のガルベス。  1998年7月31日の阪神戦(甲子園)、5回までに5点を失ったガルベスは、6回にも先頭打者・坪井智哉に右越えソロを浴びる。2ストライクと追い込みながら、2球続けて微妙なコースを「ボール」と判定され、カッとなった直後の被弾だった。  池谷公二郎投手コーチが交代を告げるためにマウンドに向かうと、ガルベスは突然「お前が悪い!」とばかりに橘高淳球審に激しく詰め寄り、止めに入った同僚のダンカンを180センチ、107キロの巨体で弾き飛ばした。  たまらず長嶋茂雄監督がマウンドに駆けつけ、「お前、何やってるんだ!早く戻れ!」と肩で背中を押すようにして、ベンチ前まで連れていった。  ところが、直後、ガルベスはあろうことか、約30メートル離れたマウンド付近にいた橘高球審に向かって、ボールを投げつけた。幸いボールは頭上約2メートルの高さにそれたが、もし頭を直撃していたら、大惨事になりかねないところだった。  さらにガルベスは目を血走らせながら同球審につかみかかろうとしたが、ナイン総出で取り押さえられた。もみ合いの際に吉原孝介がガルベスから顔面に肘打ちを食らい、口から出血してうずくまるなど、騒動の余波が続いた。  ボールを審判に投げつけるという侮辱行為で退場処分になったガルベスには、無期限の出場停止(翌年復帰)と球界最高の制裁金4千万円が科せられた。長嶋監督が遺憾の意を表明し、事件後に頭を丸めたことも、ファンの記憶に強く残っている。 ●プロフィール 久保田龍雄 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。
藤井聡太六段をAIが分析 驚異的な強さの秘密とは?
藤井聡太六段をAIが分析 驚異的な強さの秘密とは? 2月17日、決勝に臨む藤井聡太六段(当時は五段)。準決勝で羽生善治竜王、準々決勝では佐藤天彦名人も破った。朝日杯は八つあるタイトル戦に次ぐ棋戦で優勝賞金は750万円。「特に使い道は決めていないですけど。それで遊ぶことのないようにがんばっていきたいと思います」 (c)朝日新聞社  将棋の藤井聡太六段(15)が新たな歴史をつくった。名人、竜王らを連破し 初優勝した朝日杯将棋オープン戦から見えてくるものは。 *  *  *  藤井将棋には「華」がある。  朝日杯将棋オープン戦の本戦1、2回戦の名古屋対局、そして東京・有楽町での準決勝、決勝の現場で、そう実感した。  例えば、決勝でA級棋士・広瀬章人八段(31)を相手に放った、飛車で取られる地点にただで桂馬を捨てる手(4四桂)。準々決勝、佐藤天彦名人(30)戦では、左側中段にいた飛車を右側下段に大転換。飛車や角のダイナミックな動きも特徴だ。  プロでさえすぐには気づかない妙手で、かつ「美しい」。つまり、駒の機能が最大限に発揮され、無駄のないフォルムを体現しているのだ。しかも、指された後にその前の手の積み重ねをさかのぼると、一貫した論理、あるいは意志が浮かび上がってくる。  盤上の宇宙の中から最も美しい星を瞬時に見つける。しかも気づくと星座が広がっている、とでもたとえられるだろうか。  藤井将棋の一つの原点には、幼少期から親しんできた「詰将棋」の存在が間違いなくある。創作では、11歳で専門誌「詰将棋パラダイス」に初入選。解くほうでは、一流棋士も参加する「詰将棋解答選手権」で3連覇中だ。  詰将棋は、玉を詰めるパズルで、将棋から生まれたものではあるが、将棋とは別の独立したジャンルだ。作者は初めに駒を自由に配置できるため、現実に対する実験室、あるいは盤という画布の上に描く絵画ともたとえられよう。詰将棋を解くことは将棋の終盤を鍛えるトレーニングになるが、一方で、「美しさ」や「意外性」を追求する芸術性の高い作品を解いたり作ったりするのに夢中になると、将棋がおろそかになるという通念もある。  準決勝・決勝を生放送したCS「テレ朝チャンネル2」に出演した加藤一二三九段(78)は「詰将棋はほどほどにしたほうがいいという考え方がある」と言及。解説の佐藤名人が「でも藤井さんは詰将棋が趣味なんですよね」と返すと、「そうか、趣味をやめさせるのもかわいそうですね」と笑いを誘った。  現代を代表する詰将棋作家の一人で英米文学者の若島正さん(65)は少し違う見方だ。 「広瀬戦の4四桂のように、普通の人には見えない手が見える。これは詰将棋から来ている感覚なのかもしれません。つまり、詰将棋では普通『ありえない』手がありえるということ、将棋の可能性として、盤にはとんでもない手が眠っているということ、そういう認識がどこかで藤井くんの読みの中に感覚として身についているのではないかと思っています」  藤井六段を小学生時代から知る若島さんは、こうも話す。 「詰将棋とは関係なく、自然に強いということも感じます。実は、詰将棋慣れした人間にはこれがなかなかできません。だから、わたしの目からすると、藤井くんは将棋の才能もあるのだなあ、という感じです」  CS放送では、将棋のAI(人工知能)「Ponanza(ポナンザ)」による形勢判断も随時、画面に表示された。準決勝、決勝を通じて、「藤井劣勢」とされた局面はなかった。ポナンザが常駐するアプリ「将棋ウォーズ」を運営する「HEROZ」の林隆弘社長(41)はプロ棋士の棋譜をポナンザにかけて分析している。強い棋士には、ポナンザの推す有力な手との一致率の高さだけではなく、もう一つの特徴があることに気づいたという。 「それは、急所の局面で踏み込むことです。藤井六段は派手な手も多い一方、極めてミスが少なく、そして急所ではリスクをとっています」  藤井六段は次回の朝日杯は本戦(ベスト16)から登場する。一段と美しく強くなった「華」を見るのが今から楽しみだ。(朝日新聞文化くらし報道部・山口進) ※AERA 2018年3月5日号
原発事故“予言”の広瀬隆が再び警告「近く大事故が起こる」その場所は…
原発事故“予言”の広瀬隆が再び警告「近く大事故が起こる」その場所は… 広瀬隆さん(撮影/工藤隆太郎) 西日本の原発大事故で風下となる日本列島全土(週刊朝日 2017年12月1日号より) 中央構造線が起こした慶長三大地震と南海トラフ地震と慶長三陸地震の関係(週刊朝日 2017年12月1日号より) 「3.11」の約半年前に地震による原発事故が迫っていると著書で警鐘を鳴らした作家・ジャーナリストの広瀬隆さんが今、改めて原発の危機を“予言”している。いわく「私の予感はいつも当たってきた」──。 「自然の脅威を忘れてはいけない。巨大地震が次々に起こる過去の歴史について調べれば調べるほど、そう思います。そこに54基もの原発を建て、人類が経験したことのない原発4基同時事故から学ぼうとせず、安倍政権は原発再稼働を推し進めている。このままいけば巨大地震がきて、末期的な原発の大事故が起こる。この予感が外れるよう祈りますが、今まで私の予感はいつも当たってきたので、本を出版して、大声で警告することにしたのです」  そう語る広瀬隆さんはこのほど、『広瀬隆 白熱授業 日本列島の全原発が危ない!』(DAYS JAPAN)を緊急出版した。 「気象庁や多くの地震学者は、将来の大地震について『おそれがある』『可能性がある』と控えめな発言でごまかすから、大被害が出る。地震発生のメカニズムを学び歴史を振り返れば、『大地震は絶対に起こる』と確信を持って言える。これは予言ではなく、科学的な警告です。『絶対に起こる』前提で、しっかりと備えを固めて、初めて被害を最小限に抑えられる」  2010年8月、世界各地で頻発する大地震を受けて、『原子炉時限爆弾──大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)を著した。大地震によって原発が過酷事故を起こし、地震災害と放射能被害が複合的に絡み合う「原発震災」の危機が迫っている、と警鐘を鳴らした。しかし、大きな反響を呼ぶことはなかった。約半年後、「3.11」の惨事が起こった。  同じ轍(てつ)は踏まない。  新刊はB5判のオールカラー。今年4月の東京・中野での講演を基に、3部構成で168枚もの図表を使い、平易な言葉で書いた。多くの人に原発の危険性を理解してほしい、という祈りが込められている。  本の冒頭は「超巨大活断層『中央構造線』が動き出した!」。再稼働した愛媛・伊方原発と鹿児島・川内原発で「近く大事故が起こると直感した」理由として、16年の熊本大地震の話から書き起こす。 「震度7を2回(16年4月14日と16日)も記録した熊本大地震は、余震が伊方原発の目の前の大分県と川内原発近くの鹿児島県に広がり、九州縦断大地震と呼ぶべきもの。多くの余震も含めて地図にプロットしてみると、すべて中央構造線に沿っている。日本一の超巨大活断層、中央構造線がついに動き始めた」  広瀬さんは西日本の原発大事故がもたらす被害の大きさについて、こう話す。 「台風は西から東へ偏西風の流れに沿って進みますが、原発の大事故のときに放射能が流れやすい進路も同じ。福島第一原発の事故で出た放射能は8割が太平洋に落ちたと見られています。残り2割でも深刻な被害が出ている。川内原発と伊方原発から偏西風の向きに放射能が流れれば、日本列島全域が汚染される。川内原発の事故のシミュレーションによれば海洋汚染は九州の西から瀬戸内海に広がり、対馬海流や黒潮に乗って日本近海の海が広範囲にわたって汚染されます」  日本列島では、大地震や火山の噴火が相次ぐ「激動期」と「平穏期」が交互に続いてきた。広瀬さんは中央構造線が動いた地震の例として、400年ほど前の豊臣秀吉の時代の「慶長三大地震」を紹介する。1596年9月1日の愛媛県の伊予地震から大分の豊後地震、京都の伏見地震と、中央構造線に沿って大地震が立て続けに発生した。 「5日間で400キロにわたる中央構造線が動いた巨大連続地震ですが、それだけで終わらなかった。9年後に南海トラフが動く慶長東海地震・南海地震があり、その6年後には東北地方の海底で超巨大地震の慶長三陸地震が起き、津波の大波被害をもたらした。東海地震・南海地震がいつ起きてもおかしくない今、順序が違うだけで400年前と同じ巨大連続地震が始まっているように見えます」  巨大地震が発生するのは活断層が明らかになっている地域だけではない。造山運動によってできた成り立ちを考えると、「日本列島は『断層』と、地層がひん曲がった『褶曲(しゅうきょく)』のかたまり」と広瀬さんは説く。  その実証例として、福島第一原発事故の3年前、08年6月に発生したマグニチュード(M)7.2の岩手・宮城内陸地震を挙げる。 「山がまるごと一つ消える大崩落が起こった地震として記憶している方も多いと思います。地震で記録された人類史上最大の揺れとしてギネス世界記録に認定されたこの地震は、活断層が『ない』とされた地域で起こりました。もはや日本に原発を建設・運転できる適地は存在しないということを知らしめたのです」  地震の「講義」は視野を広げて大陸移動説や地球表面を形成するプレートという岩板の動きを解説。ユーラシア・プレートの両端、ほとんど地震が起こらないフランスと韓国で16年にM5超の地震が発生したことも紹介(韓国では今月15日にもM5.4の地震が発生)し、東日本大震災がユーラシア・プレートに及ぼした影響が大きいという。  本では、原発の致命的な欠陥にも言及している。  大地震に襲われた原発が緊急停止しても、電気が途絶えて冷却できなくなれば核燃料の崩壊熱のためにメルトダウンの大事故が発生する。停止中の原発も決して安全ではないということは福島第一原発の事故で得た教訓だが、広瀬さんは「多くの人は原発敷地内のプールに保管されている使用済み核燃料の危険性に気づいていない」と言う。  福島第一原発事故当時、4号機のプールには1535体の使用済み核燃料が保管されていた。この使用済み核燃料に含まれる放射能の量は、福島第一原発事故で放出されたセシウムやヨウ素などを含めたすべての放射能の量(原子力安全・保安院推定値)の27倍に相当する天文学的な量だった。政府が想定した東京都を含む半径250キロ圏内の住民が避難対象となる最悪シナリオは、4号機のプールから放射能が大量に放出されるケースだった。 「使用済み核燃料は原子炉の何十倍もの危険性を持ちながら、何の防護もない“むきだしの原子炉”といえます。原発が運転中か停止中であるかは関係ない。使用済み核燃料を抱えている原発は、すべて大地震の危機にさらされている。これが『日本列島の全原発が危ない!』の意味です」  全国の原発から出た使用済み核燃料は青森県六ケ所村にある再処理工場に輸送され、全量再処理される計画だったが、ガラス固化に失敗して操業不能に陥っている。3千トンのプールがほぼ満杯になったため、各地の原発で保管せざるをえない状態が続いている。  使用済み核燃料を持っていく先がないため、電力会社はプールの設計変更を行い、ぎゅう詰めにし始めた。燃料棒集合体を収めるラックの間隔を狭める「リラッキング」によって貯蔵量を増やしているのだ。 「これは絶対にやってはいけない。核爆発の連鎖反応を防ぐ安全対策として、燃料と燃料が一定の距離を保つように設計されていたのです。リラッキング実施状況を本に掲載しました。日本中の原発で危険なリラッキングが行われている実態を知ってもらいたい」  本の最後では「使用済み核燃料と再処理工場が抱える『世界消滅の危険性』」と題して、六ケ所村と茨城県東海村にある再処理工場の高レベル放射性廃液の危険性を訴えている。 「二つの再処理工場には、使用済み核燃料を化学溶剤に溶かした高レベル放射性廃液が大量に貯蔵されています。冷却できなくなると水素爆発を起こすこの廃液が全量放出すれば、福島第一原発事故数十回分に匹敵する放射能が広がり、たちまち日本全土が壊滅状態になる。そういう危機にあることを認識してください」  1976年、西ドイツ(当時)のケルン原子炉安全研究所が提出した再処理工場の爆発被害予測の極秘リポートには「西ドイツ全人口の半数が死亡する可能性」が記載されていた。翌年、毎日新聞がリポートを紹介した記事を読み、広瀬さんは原発反対運動にかかわる決意を固めたという。 「何より『知る』ことが大切です。今回の本は大事故発生時の具体的な対策を行動に移すための緊急の呼びかけです。原発再稼働を推進する人、電力会社の人たちにこそ読んでもらいたい。一人ひとりの行動が危機を回避する力になるはずです」 (本誌・堀井正明) ※週刊朝日 2017年12月1日号
愛され続けて50年 リカちゃん人形の“魔法”の鍵とは
愛され続けて50年 リカちゃん人形の“魔法”の鍵とは 60年代ファッションに身を包む初代リカちゃん(右)と2015年に発売開始された、大人向けの「LiccA スタイリッシュドールコレクション」(左)。くっきりと時代が映し出されている(撮影/写真部・小原雄輝) リカちゃんと同じ1967年生まれ。25年前、今年開催予定の「50周年記念パーティー」の招待状付きリカちゃんを3人で購入した(撮影/工藤隆太郎) 25周年を記念して限定発売された「2017 プレミアムリカちゃん」。価格は2万5千円。木製のケースはオルゴールになっている(撮影/工藤隆太郎) 4代目リカちゃん。1987年に発売し、30年にわたって愛されてきた現行モデル。「ほぼ完璧」との声も リカちゃんキャッスル デザイナー 広瀬和哉さん(30)/東京・人形町にある「リカちゃんキャッスルのちいさなおみせ」は大人のためのドールショップ。手のこんだリアルな服や小物が女性たちを魅了する(撮影/工藤隆太郎)  国民的着せ替え人形「リカちゃん」が今年、誕生50周年を迎えた。世代を超えて愛されてきた理由は何か。その“魔法”を探ってみた。 「3人合わせて150歳。こんな日が本当に来るなんて──。25年前は、50歳の自分なんてまったく想像がつきませんでした」  黒須美央さん(50)、佐々木美佐子さん(49)、石井あづささん(49)の3人は口をそろえて言う。リカちゃんが誕生した1967年生まれ。今年50歳になる。新卒で入社した食品メーカーの同期で、今はそれぞれ別の道を歩んでいるが付き合いは続いてきた。彼女たちをつなげてきたもののひとつにリカちゃんがある。 「私がふたりを誘ったような気がします」  と佐々木さんは言う。92年、リカちゃん25周年を記念して「2017 プレミアムリカちゃん」が発売された。限定2500体で値段は2万5千円。決め手となったのは、25年後の「リカちゃん50周年記念パーティー招待状」がついていることだった。 「仲のいい私たち3人が25年後、どこで、どんなふうに暮らしているかはわからないけれど、25年後、3人で一緒に会えるから買ってみない?って。ふたりに声をかけました」(佐々木さん)  タイムカプセルみたいな感覚。半信半疑だったが、その案内が昨春届いた。石井さんは言う。 「感動しました。本当に実行されるんだって。覚えていてくれたんだな、と。ほかにどんな人がこの人形を買ったのか。パーティーが楽しみです」  着せ替え人形の代名詞ともいえる「リカちゃん」が、今年50周年を迎えた。3月下旬、東京・松屋銀座で開かれた記念展の初日には、開店前から列ができ、会場には親子2代、3代で訪れる人たちの姿が目についた。 ●少女マンガがモチーフ <名前は香山リカ。小学5年生の11歳。父はフランス人の音楽家。母は日本人のデザイナー>  少女マンガをモチーフに、物語の設定もつけて世に送り出された。以来、50年。これほどの長きにわたってリカちゃんが愛され続けてきたのはなぜか。そこにはどんな人を惹きつける魔法があるのだろう。  リカちゃん誕生時、小学1年生だった精神科医の香山リカさん(56)は当時の衝撃を次のように語る。 「そのころの着せ替え遊びは、雑誌の付録についてくる紙製の人形などでしていたので、プラスチック製のリカちゃんは新鮮でした」  フォークやナイフ、ダイニングテーブルなど、一歩先を行くライフスタイルもまぶしくて、次々と商品が欲しくなった。 「学校の成績が良ければ買ってあげる」と親は言い、商品欲しさにせっせと勉強したという。 「いま振り返ると高度経済成長期らしい、大量消費の先駆けだったと思います」(香山さん)  50年間累計の販売数は6千万体を超える。タカラトミーのリカちゃん企画部マーケティング課長の椎葉彰さん(40)は言う。 「リカちゃん誕生前は外国製の人形ばかりでした。『日本の女の子が身近に感じられる人形』をコンセプトに開発し、一貫して寄り添ってきました」  流行のファッションやライフスタイルを取り入れ、女の子の夢や憧れを商品に反映させてきた。応接間のひと部屋から始まったリカちゃんハウスはマンションや一戸建てへ。バブル期には億ションが登場し、最新の家はエレベーター付きだ。しかしその一方で、 「実は人形そのものはほとんど変わっていない」  とも言う。人形は3回の大きなモデルチェンジを経て現在販売されているのは4代目。4代目は87年の発売以来、既に30年を経ている。 「最初の20年の試行錯誤の時期を経て4代目で落ち着いた。すでに50年の半分以上の期間を占めていて、今後も大きく変えるつもりはありません」(椎葉さん) ●奥ゆかしい表情に魔法  4代目リカちゃんは「ほぼ完璧。変更の余地がない」。そうした声は複数の関係者や愛好家からも聞かれた。その完璧さはどこから来るのか。黄金比など「美しい形」に潜む美の要素を研究する、東京工芸大学芸術学部准教授の牟田淳さん(48)を訪ねた。美しさの印象は縦横の比率によって変わるという。4代目リカちゃんの顔を測ってみるとほぼ1対1.4。 「よく知られる白銀比です。法隆寺の五重塔やA、B判の紙やノートに見られる比率です」  さらに女性キャラクターが人気を得るには重要な要件があると牟田さんは言う。 「かわいさだけでなく、美しさも少し加わっていることが重要。小学5年生という少女から大人に向かう年齢設定は、その要件をうまく満たしています」  リカちゃん人形を製造するリカちゃんキャッスル(LC)のデザイナー広瀬和哉さん(30)は表情に着目する。 「リカちゃんの奥ゆかしい表情に魔法がある」  と指摘する。愛好家としても知られる広瀬さんが、リカちゃんと出会ったのは3歳のころ。姉と一緒に遊び、小学1年で初めて服を作った。中学生のときには専門の教室に通い、主婦たちに交じって縫製を学んだ。 「リカちゃんを通して、服や髪をスタイリングする楽しさを知りました」 ●どんな服も似合う  文化服装学院卒業後、ドール服のデザイナーになり、3年前、LCにスカウトされ現在に至る。広瀬さんは言う。 「リカちゃんの顔は表情が特定できない。その分、自分が嬉しいときは微笑んでいるように見えるし、悲しいときは一緒に憂えているように見える」  自分の気持ちにいつも寄り添っているように思えるのだという。ちなみにリカちゃんの目線は常に左を向いている。真正面から見つめられると、子どもが居心地の悪さを感じることがあるため配慮されているといわれている。  加えて、リカちゃん最大の魅力は「どんな服を着ても似合う」こと。多くの愛好家から聞かれた声だ。これも表情同様、“絶妙なニュートラルさ”が関係している。人形はリアルなタイプかアニメっぽいものに大別されるが、リカちゃんはどちらにも属さない。中間くらいの立ち位置にいるため、逆にどちらにもいけるのだと広瀬さんは言う。 「だからいまどきのリアルな服も、フリフリのドレスを着ても似合うのです」  どこにも“カテゴライズされない自由”が着せ替えの幅を広げ、「私だけのリカちゃん」と思わせる。半世紀にわたって愛されてきた、リカちゃんマジックの鍵はそこにある。(編集部・石田かおる) ※AERA 2017年5月15日号
社長の“早慶戦” 売上高、利益ともに圧勝したのは?
社長の“早慶戦” 売上高、利益ともに圧勝したのは? トヨタ自動車の豊田章男社長 (c)朝日新聞社 「慶応のおぼっちゃまに、現実を突き付けろ!」「都の西北って、つまり田舎だと思う」──。ネット上でこんな前哨戦が始まった、秋の風物詩のラグビー早慶戦。熱戦に合わせ、本誌は両校出身者がトップの企業業績を比べ、「社長の早慶戦」を企画した。勝利の女神がほほえんだのは。  東証1部上場約2千社のうち、早稲田OBが社長の企業は122社で、慶応OBの企業は約1.6倍の190社。うち3月期決算企業は、92社と144社ある。  本誌は東京商工リサーチの協力を得て、出そろった各社の9月中間決算を「オール早稲田」「オール慶応」に分けて集計した。  オール慶応の売上高は約42兆円で、約14兆円のオール早稲田の3倍近い。純利益でも約4倍。両陣営ともに円高の影響などで減収減益だったが、慶応は早大に規模の面で圧勝した。  慶応の“勝利”の立役者は、豊田章男社長(1979年慶大法)率いるトヨタ自動車。円高の影響を大きく受けたとはいえ、オール慶応の売上高の3割、純利益の5割近くを占める存在だった。  ただ、トヨタを除いても、オール慶応の売上高は約29兆円、純利益は約1兆2千億円といずれも早大を上回る。産業界での慶応陣営の層の厚みを感じる。  それでは、業種ごとに、代表的な早慶社長の企業の業績を比較していこう。  トヨタに対抗するのは、益子修社長(72年早大政経)の三菱自動車。燃費不正問題を受け、2千億円超の過去最悪の赤字を記録し、オール早稲田の足を引っ張った。自動車業界は、慶応陣営の圧勝といえそうだ。 「今年度の時計事業は、円高やインバウンド(訪日外国人)需要の落ち込みなどで、苦しい状況にある」  そう説明するのは、シチズン時計の戸倉敏夫社長(73年早大教育)。純利益が前年同期から半減した。中村吉伸社長(72年慶大工)のセイコーホールディングス(HD)は赤字に。樫尾和宏社長(91年慶大理工)のカシオ計算機も、純利益が前年同期より約6割減った。時計・精密機器業界は、両陣営ともに苦戦した。  円高で自動車など輸出型産業が苦しい際は、食品など内需型産業の元気さが目立つ。菓子業界はどうか。  新井徹社長(73年早大理工)の森永製菓は、シニア層をねらった高級チョコ「カレ・ド・ショコラ」の販売が前年比35%増と伸びた。「おっとっと」の新商品もヒットし、過去最高益を記録した。  松尾正彦社長(69年慶大経)の明治HDも、負けてはいない。健康志向の商品「チョコレート効果」シリーズが好調で、「付加価値の高い商品が強く伸びている」(松尾社長)。お菓子業界は、早慶ともに互角の勝負になっている。  食品業界では、安藤宏基社長(71年慶大商)の日清食品HDもカップ麺が売れて4期連続で最高売上高を更新し、気を吐いた。  大手ゼネコンの一角、井上和幸社長(81年早大院理工)の清水建設。都心の大型開発などが追い風となり、過去最高益に。銭高久善社長(98年慶大院政策メディア研究)の銭高組と比べると、20倍近い純利益を稼いでおり、建設業界は早大に分がある。  4月からの家庭向け電力自由化の流れに乗り、約50万件の契約を獲得した東京ガス。広瀬道明社長(74年早大政経)は、2020年度をめどとした100万件の達成目標を17年度中に前倒しする考えだ。  一方で、月岡隆社長(75年慶大法)の出光興産はガソリンの販売が約3%減った。生き残りのために決めた昭和シェル石油との経営統合は、創業家の反発で不透明となった。ガス・石油などエネルギー業界は早大陣営が輝いている。  鉄道業界をみると、早大陣営は首都圏に東京急行電鉄、京阪神に阪急阪神HD、中部圏に名古屋鉄道と各地に主要私鉄を抱える。  3社ともに業績は好調で、大学とのかかわりの面でもそれぞれ特徴的な企業が多い。  名鉄は安藤隆司社長(78年早大商)をはじめ、役員の7人が早大卒。野本弘文社長(71年早大理工)の東急は沿線に慶大がある。最寄りの日吉駅(横浜市)から電車で約20分、東京都内の二子玉川駅前のビル開発などが好調で、乗客も増えている。  慶応陣営の相鉄HD、富士急行、南海電気鉄道の業績も観光客増加などで堅調だったが、売上高や利益など規模の面では早大陣営が大きく上回る。私鉄の対決は、早大陣営に軍配があがりそうだ。  圧倒的な規模を誇るオール慶応に対し、オール早稲田にもきらりと輝く企業は数多い。  今回集計対象とした3月期決算の企業以外でも、早大陣営には、柳井正社長(71年早大政経)のファーストリテイリング、出澤剛社長(96年早大政経)のLINEなど、ユニークな企業がある。 “在野の精神”を発揮し、産業界でも早大らしさを発揮する企業は、今後も出てきそうだ。 ※週刊朝日 2016年12月2日号
新潟県知事選で脱原発系候補が当選、泉田知事が語った身の危険
新潟県知事選で脱原発系候補が当選、泉田知事が語った身の危険 東京電力柏崎刈羽原発の様子。脱原発系候補が当選した“新潟ショック“で、投開票日翌日の東電HDの株価は急落した (c)朝日新聞社 選挙戦の結果を受けてか、穏やかでホッとした表情を見せた泉田知事 (c)朝日新聞社  東京電力柏崎刈羽原発の再稼働への対応が争点となった新潟県知事選で、泉田裕彦知事の慎重路線を継承すると訴えた米山隆一氏が当選した。泉田路線は引き継がれるのか。 「米山さんの当選は、県民のみなさんの選択の結果と受け止めています」  新潟県庁3階にある知事室。退任が4日後に迫った20日、泉田裕彦知事を訪ねると、穏やかにそう口を開いた。  経済産業官僚から新潟県知事へ転身し、東京電力福島第一原発事故以降は一貫して同柏崎刈羽原発の再稼働にノーを突き付けてきた。10月の知事選を控え当初は続投に意欲を見せていたが、8月30日に急遽、不出馬を表明。そこから周囲がざわつき始めた。新潟県知事選が、全国の原発再稼働問題の今後を左右しかねない重要な地方選挙になったからだ。 ●原発利権からの圧力  不出馬の理由として泉田氏が挙げるのが、地元紙による県の日本海横断航路計画に関する契約トラブル報道。報道内容が事実と違うというのが県の主張だ。泉田氏が言う。 「随分前から新潟日報の虚偽報道には抗議してきましたが、こちらの考えが一切伝わらない。そんな状況で私が出馬しても日本海横断航路計画が争点の選挙になってしまう。新潟の未来をどうすべきかの選挙がそれでは県民にとって不幸です。選挙をやれば勝つと思っていましたが、争点が原発で勝たないとその後、国との交渉力が出てこない」  県内では約46万部を発行する新潟日報の影響力が大きい。とはいえマスコミは地元紙一社ではない。全国紙もある。知事の考えを幅広く世論に問うたら良かったのではないか。  その疑問をぶつけると、不出馬を発表する1週間前に新潟日報に訂正を要望したことを記者会見で伝えたが、他のメディアは報道しなかったのだという。 「撤退表明の時、他社の記者から『私たちがそのときの会見内容を報道していたら知事の不出馬の判断は変わったか』と聞かれました。変わった可能性があります」  現役の官僚が小説という形で原発利権の存在を告発した『原発ホワイトアウト』では、知事が困難に陥るくだりがある。泉田氏がモデルといわれるだけにリアルだが、在任中「原発利権勢力」から圧力はあったのか。 「東電を取材していた報道の人が『それ以上取材するとドラム缶に入って川に浮かぶ』と脅され、私にも気を付けてと言ってくれたことがありました。また、日本海横断航路問題を使って知事の首を取るプロジェクトがあるということも聞いています。ちょっと前には何者かに車で後をつけられました。その利権者はだれなのか。はっきりとした証拠がないのでいまはこれ以上話せませんが、いろんなことがあったのは事実です」 ●踏みとどまった脱原発  知事選に話を戻すと、自民、公明は前長岡市長の森民夫氏を推薦。一方、共産、社民、自由の野党3党は医師や弁護士として活動し、泉田路線の継承を公言する米山隆一氏を擁立した。  政権与党の支援を受けた森氏が当選すれば、柏崎刈羽原発の再稼働の動きが加速することも十分に考えられる。危機感を抱いた脱原発派は早速、米山氏支援に動いた。再稼働阻止全国ネットワークに所属する東京在住のメンバーたちが初めにやったことは、民進党へ米山氏の支援を要望することだった。 「民進党の新潟県連は米山氏を推薦せず、自主投票を決め込みました。支持母体の連合の組合員に東電関係者が多数いるためだと聞いています。そこで我々は民進党本部へ乗り込み、党として米山氏を応援するよう求めたのです。そもそも米山氏は先日まで民進党所属。それを応援しないとはけしからんと抗議しました」(再稼働阻止全国ネットワークの山田和秋氏)  そのかいもあってか、選挙戦最終盤に蓮舫代表が新潟入りし、米山氏の選挙応援演説をした。山田氏らも新潟で昼は街頭演説の応援、夜は2千件に上る電話で米山氏への投票を呼びかけた。序盤は森氏が大きくリードしていたが、米山陣営も徐々に追い上げていった。 「原発は怖い。事故が起きたら生活基盤が危うくなる。だから泉田路線を引き継ぐ米山さんを応援するという声がだんだん多く聞かれるようになったのです。それに泉田さんは圧力で辞めさせられたと考えている県民も多かった。途中から、これはいけるなと感じました」(山田氏)  ふたを開けてみれば米山氏は53万票近くを獲得。次点の森氏に6万票以上の差をつけて勝利した。米山陣営のスタッフですら、「手ごたえは感じていたが、まさかこんな大差で勝つとは」と驚くほどだった。  再稼働阻止全国ネットワークの共同代表を務めるルポライターの鎌田慧氏はこう期待する。 「鹿児島の知事選では原発停止・点検を訴えた三反園(訓)氏が勝ち、新潟では反原発を鮮明に打ち出した米山氏が当選した。市民レベルで反原発が最大課題になっている。この動きは全国に波及していくだろう」 ●泉田路線継承は未知数  各地で起こされている脱原発訴訟にも影響を及ぼすと言うのは脱原発弁護団全国連絡会共同代表の海渡雄一氏。 「関西電力大飯原発(福井県)の控訴審は旗色が悪かったのですが、名古屋高裁金沢支部で19日に開かれた控訴審では一転して裁判長が『基準地震動がもっとも重要な問題』だとして、我々の申請した専門家の証人尋問が認められる方向になったのです。裁判所も原発が危険だという民意の流れを感じ取っているのではないでしょうか」  米山氏は自民党、日本維新の会、民進党と各政党を渡り歩いてきた。泉田氏は、中越地震からの復興を祈念した山古志マラソンも一緒に走ったというが、どこまで泉田路線を継承してくれるかは未知数だと話す。 「例えば当選後に米山さんは住民投票をやると言っていますが、それを聞いたときは正直、うーん、それは泉田路線ではないと思いました。というのも住民投票は一度、県議会で否決されているのです。議会を通せない以上、条例案を出せば否決される。住民投票をやるというのは私のやってきたこととちょっと違い、自分の首を絞めることにもなる」  とはいえ、原発を争点にした知事選で当選したこともあり、期待は大きいようだ。 「あれだけ私と会うのを嫌がっていた原子力規制委員会の田中(俊一)委員長が米山さんと会うと言っている。原子力防災にどう向き合うのか。不可能を現場に押し付けている原子力防災指針を選挙戦で語った結果として米山さんは当選した。これで国としても地元の声を聞きやすい環境ができた。国に対する交渉力を増した可能性があります」  一方、東電や国の対応には依然として厳しく注文を付ける。現在、柏崎刈羽原発6、7号機は安全審査が進み、「安全が確認された原発は国の方針通り、再稼働へ動くことになる」(経産省幹部)。だが泉田氏は、それはあり得ないと話す。 「知事室に東電の広瀬(直己)社長が来て言ったのは、『東電だけでは安全確認が十分かどうか、自信がない。第三者の目を入れたいので6、7号機の安全審査を申請させてください』です。再稼働のための申請とは一言も言っていません。もし再稼働のためなら最初からウソをついていたことになる」 ●知事退任後の挑戦とは  避難計画にも不備がいたる所にあると言う。 「原発震災が起きた際、UPZ(緊急時防護措置準備区域)は屋内退避。しかし熊本のように大地震の後にさらに大きな地震があれば屋内退避はかえって被害が大きくなり、死傷者が出る可能性があるのです」  屋内退避したあとの避難方法も現実的ではない。 「放射線量毎時500マイクロシーベルトが避難の基準ですが、域内の人口44万人を年間被曝限度量の1ミリシーベルトに達するまでのわずか2時間でどうやって避難させればよいのか。また、ヨウ素剤はどうやってその人たちに配りに行くのか。実際には無理なことばかりが指針には書いてある。こうした問題点を、国と交渉して直すことが次の知事の仕事です」  突然起きる災害を考えたら24時間気が抜けない知事職を退任するのは10月24日。その後は、 「荷物の整理をしながら、とりあえずちょっとゆっくりするつもり」  土俵際で踏みとどまった知事の新たな挑戦に期待したい。(ジャーナリスト・桐島瞬) ※AERA  2016年10月31日号
連載第1回を特別公開! 太田省一「マツコの何がデラックスか? 現代タレント考」
連載第1回を特別公開! 太田省一「マツコの何がデラックスか? 現代タレント考」 芸人最強社会ニッポン (朝日新書)Amazonで購入する  9月から雑誌「一冊の本」(朝日新聞出版)で、太田省一さんによる「マツコの何が“デラックス”か?」がはじまった。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルをテーマに、独自の執筆活動を続け、著書に『中居正広という生き方』『社会は笑う-ボケとツッコミの人間関係』『紅白歌合戦と日本人』などがある、気鋭の社会学者による新連載だ。 ここではその第1回を、特別に公開する。 【連載概要】  現在、テレビタレントのトップに君臨するマツコ・デラックス。その魅力は多々あるが、私がいつも思うのは、一つひとつの言動がいつもぶれず、輪郭がクッキリ鮮やかなことだ。それを「まっとうさ」の魅力と言ってもいい。それゆえその言動は自然にある種のパワフルなメッセージとなって、私たちの心に刺さるのではあるまいか。その伝える(伝わる)力の見事さという意味において、いまマツコを凌駕するタレントはいないし、芸能史・テレビ史に一時代を画すような存在になりつつあると言っていいだろう。  だがもう一方で、これまでの時代を担ってきたようなテレビタレントとは異質な部分もある。なかでも最大の違いは、女装家、性的少数者として社会的なマイノリティに属するという点だろう。これまで時代の頂点にあったようなメジャーな人気タレントで、その意味においてマツコのような存在はおそらくいなかったはずだ。2010年代の日本において、このマイノリティとマジョリティの重なり、接近はいったい何を意味するのか?   この連載では、毎回マツコを象徴するような「動詞」をタイトルに、具体的な言動を拠り所にしながらその多面的な魅力に迫っていく。そして同時に、マツコのような存在を求める時代とはどういうものなのかについても掘り下げていきたい。  第一回目の動詞は「懐かしむ」だ。 ■はじめに  マツコ・デラックス――。いま、テレビでその姿を目にしない日はないと言っていい。  レギュラー番組が週8本(2016年8月現在)。ほとんどの民放キー局で、ほぼすべての曜日に登場している。  それだけではない。16年上半期、CMに起用した企業は12社を数え、有村架純、広瀬すずといった旬の若手女優を抑えて「CM女王」に輝いた。こうしたCMでの露出も加味すれば、テレビにはいつもマツコが映っている状況だ。  現在テレビタレントとして、いわばトップの座にあるマツコ・デラックスだが、その理由はどこにあるのだろうか?  まずは当然、マツコ本人の才能と魅力があるだろう。 『5時に夢中!』(TOKYO MX)などで見せるコメンテーターとしての「切れ味の鋭さ」、大物芸人、アイドル、そして一般人と相手が誰であっても面白くできる「トーク力」、そしてCMやドラマなどで見せる意外に達者な「演技力」など、まさにマルチタレントの名にふさわしい。  あるいは、身長178センチ、体重140キロ、スリーサイズすべて140センチというその丸々とした大きな体型が醸し出す「マスコット的な親しみやすさ」もあるかもしれない。そんな風貌のマツコが美味しそうに食べ物を頬張る姿に、どことなく可愛らしさを感じる視聴者もいるはずだ。  しかしその一方で、私たちはマツコが社会的なマイノリティのひとりであることもよく知っている。マツコは女装家であり、性的少数者としてLGBTに属する。自分を含むそうした人々に対する差別に対して反論することもあるし、例えば『さんまのホントの恋のかま騒ぎ』(TBSテレビ系)などに、いわゆる「オネエタレント」のひとりとして番組に出演することもある。  だが、そうは言いつつ私たちはマツコを、いわゆる「オネエタレント」とはとらえていないのではないか。そこにマツコ・デラックスというタレントの不思議さがある。  つまりマツコは、社会的なマイノリティに属していながら、テレビにおけるもっともメジャーでポピュラーな存在であるのだ。現在の日本で、このマイノリティとマジョリティの重なり、接近はいったい何を意味するのか?  この連載では、マツコの魅力にさまざまな角度から迫るとともに、マツコのような存在を求める「時代」とはどんなものなのか、についても考えていきたいと思っている。  では、前置きはこのくらいにして本題に入っていくことにしよう。第一回目の今回は、マツコの「時代感覚」に光を当ててみよう。 ■溶鉱炉の炎  マツコ・デラックスは博識な人だ。 『マツコの知らない世界』(TBSテレビ系)では、冷凍食品について意外な知識を披露してゲストの専門家を驚かせる。また、『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)では、首都圏の鉄道沿線ごとの街や住民の特徴を詳らかに語ってみせる。対応できない分野はないのではないかと思わせてしまうくらい、その知識は幅広い。  そしてどれも、本やネットで学んだ知識というよりは経験に裏付けられた知識であり、だからこそ面白い。  街歩き番組『夜の巷を徘徊する』(テレビ朝日系)は、そんなマツコならではの博識ぶりが堪能できる番組でもある。毎回、マツコがどこかの街や場所をぶらぶら歩きながら、路上、店舗、酒場などで出会った人々と交流する。道すがら、マツコがふと語る街や人の印象が、確かな知識と観察眼に裏付けられていて感心させられることも多い。  番組で訪問する街や場所のロケーションは、基本的にスタッフが決めているようだ。だが、時にはマツコ自身が希望した場所を訪れることもある。  2015年6月11、18日に放送された「千葉の製鉄所」は、そうした回のひとつだった。  千葉はマツコの生まれ育った場所である。普段のドレスとは違いヘルメットと作業服に身を包んだマツコは、番組冒頭、自分の人生において「最初に心象風景のなかにある夜」は、空を真っ赤に染める「川鉄(川崎製鉄[現・JFEスチール]のこと)」の溶鉱炉の炎であると語り出す。まだ空が赤くなる理由もわからなかった幼いマツコは、その赤い空を恐怖心とともに眺めていたという。  そしてその後、その理由が溶鉱炉の炎であることを知り、30年間溶鉱炉を直に見てみたいと思っていた。その念願がこの番組で叶ったのである。 「千葉が栄えたのは川鉄のお蔭なのよ」と言うマツコは、案内役の社員とともに製鉄所内を見て回る。しかし、およそ40年前には最大6基あった溶鉱炉もいまは1基になっている。ついに念願の溶鉱炉を目の当たりにして喜ぶマツコ。しかしその一方で「6基あったとき見たかったなあ」と残念がり、「すごかったんだろうなあ、その頃の日本って。夢と希望がいっぱいだったんだろうね」としみじみ語る。 ■同時代との距離  マツコが生まれたのは1972年10月26日だ。  今年で44歳、同じ芸能界で言うと、SMAPの木村拓哉と同じ年である。しかもあろうことか、二人は一時期千葉の同じ高校に在学していたらしい。そのことは木村拓哉自身がテレビ番組で話題にしていた。ただし、友人でも、顔見知りの仲でもなかったようだ。木村はマツコ本人とその話になったときに、「ごめん、オレ誰がマツコになったのかわからない」と冗談交じりに語ったそうだ。  この1970年代前半生まれは「団塊ジュニア世代」と呼ばれる。戦後まもなく生まれたベビーブーム世代を「団塊の世代」と呼ぶが、その子ども世代に当たるのでその名がついた。  ただ、マツコの両親は「団塊の世代」より年齢がかなり上だった。昭和ヒトケタ生まれで、戦中が思春期だった世代。だから、マツコ家は貧しいわけでもなかったが、高度経済成長からバブル景気の時代になっても質素な生活を心がけていた。バブルの頃になっても洗濯機はずっと二槽式、レコードが作られなくなるまでCDプレーヤーも買わなかった(マツコ・デラックス『デラックスじゃない』双葉社)。  つまり、当時多くの日本人が抱いていた「横並び意識」にもとらわれることなく、マツコ家は自分たちのライフスタイルを貫いたのだ。  任天堂のファミリーコンピュータが発売されたのが1983年。マツコが小学生の頃である。当然、友だちは夢中になった。だがマツコの家ではやはり買わなかった。当時のマツコは買ってもらえないことをつまらないとも思った。「でも、いまから思うと、これでよかったんだね」とマツコは振り返る。「ほかの家とは違う、ちょっと特殊な環境に生まれたことが、いまのアタシを作ったのよ」(同書)。  マツコは、「周りのゲームやファミコンをしている子たちのこと、子ども扱いしてた」と言う。「友達と遊んでいても、全然楽しくなかった。だからって、仲間外れにはならない。[私の]話がおもしろいからか、優等生も不良たちも、みんな集まってきた」(同書)。  ここには、いまのタレント「マツコ・デラックス」に通じるものがすでに見て取れる。同時代の空気を吸いながら、そこに完全に取り込まれることなく一定の距離を保つ。そんな同時代との絶妙な距離感が、マツコの発言にある優れた批評性のベースになっているのは間違いない。 ■ジオラマと横須賀・総武線快速  マツコの並々ならぬジオラマ(建物や風景などを立体的に再現した模型)への興味も、幼き頃のマツコの話に通じるものが感じられる。  マツコがジオラマに惹かれたのには、元々建築物や地図を見ることが趣味だということもあるのだろう。地図を広げて「自分なら渋谷の再開発はこうする」という類の妄想をしていつまでも飽きないというから、筋金入りのマニアである。タモリとの感性の近さも感じさせる。 『マツコの知らない世界』のスペシャル版で、マツコのリクエストでジオラマが特集されたことがあった(2012年4月14日放送)。番組のなかで、都市開発業で有名な「森ビル」が制作している、東京を再現した巨大かつ精巧なジオラマが紹介された。実物を前にしたマツコは目を輝かせ、「品川のビルの並びってイヤですよねー」「新宿ってよくできてるよね。美しい街だよねー」などと街ごとの都市開発の違いを語り出す。その視線はとても俯瞰的だ。  だがもう一方で、ジオラマはマツコに強烈なノスタルジーを喚起するものでもあった。  同番組内で自分が実際にジオラマを作るとなったとき、マツコが特にこだわったのが、横須賀・総武線快速車両だった。それが走る姿は、「アタシの心象風景」だとマツコは言う。ジオラマのパーツを扱う専門店でその車両を探し求めてようやく出会ったとき、「これが青春だもん、アタシの」と語ったマツコの表情はとても印象深いものだった。  再開発が繰り返される同時代の動きを俯瞰的にとらえながら、他方では個人的な記憶にまつわるノスタルジーに浸る。マツコがジオラマに向けるまなざしは、まさに複眼的なものである。  そしてマツコのノスタルジーは、単なる「昔はよかった」というような懐古趣味に終始するものではない。むしろ同時代の支配的空気に取り込まれまいとするためのものだ。言い方を換えれば、マツコ自身を形づくった「ほかの家とは違う、ちょっと特殊な環境」というルーツを折に触れて再確認するためでもあるのではなかろうか。 ■「産業」への愛着  溶鉱炉の炎と鉄道車両。この二つの心象風景は、結局何を物語っているのだろう?  それはきっと「産業」に対するマツコの愛着だろう。  先ほど触れた『夜の巷を徘徊する』でも、マツコは「鉄がすべての始まりなのよ、日本の産業の」と力説していた。鉄道もまた、言うまでもなく産業革命の時代に発明され、工業化の歴史を支えてきたものだ。  マツコは、ネットに安易に近づかない。ネットに対しマツコなりの危惧があるからだ。  そしてネットの世界について語るときにも、「産業」という言葉は登場する。 「安いこと、便利なことは、一見素晴らしいけど、ネットはそれを究極に追求するわけよね。(中略)そういう作業って、ラクだからありがたいんだけど、それだけが『正義』になると、もはやそこに『産業』というものがなくなってしまうんじゃないかしら」(同書)  例えば音楽にしても、ネット配信が中心になれば、CDと比べ薄利しか得られず次につながっていかない。だから「今後のために、消費者がある程度は無駄なお金を出すことも大事なこと」だとマツコは言う。  別にマツコは、ネットの存在を否定しているわけではない。ネット社会の隆盛は、一時の流行とは異なる、変えようのない大きな歴史の流れだとわかってもいる。ただ、それに唯々諾々と従いたくはない。「やっぱり、アタシ一人ぐらいは、最後まで抗ってみようかな」(同書)とマツコは考えるのだ。  そんなマツコにとって、「産業」とは失われてゆくものであるだけでない。ずっと残っていく大切なものの象徴でもある。 『夜の巷を徘徊する』での見学中、鉄鉱石を溶かして鉄を取り出す溶鉱炉の必要性は、いくら技術が進歩しても変わらないと知り、感嘆するマツコ。夜空を赤く染める炎は、過去の思い出のなかだけのものではなく、まさに「いま存在価値のあるもの」なのだ。  そしておそらくマツコにとってのテレビもまた、そのようなものなのではないか。  私はそう思う。 太田省一(おおた・しょういち) 1960年生まれ。社会学者、著述家。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、ネット動画などメディアと文化に関わる諸分野、諸事象について執筆活動を続けている。著書に『芸人最強社会ニッポン』(朝日新聞出版)、『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版-ボケとツッコミの人間関係』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』『アイドル進化論-南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、共編著に『テレビだョ!全員集合-自作自演の1970年代』(青弓社)がある
没後7年 今「忌野清志郎」が求められる理由
没後7年 今「忌野清志郎」が求められる理由 「狂ってきたこの世は騒がしいぜ」没後7年。キヨシローの不在を何度でも嘆く……(2004年12月9日、撮影/遠藤智宏) 左から、アサミカヨコさん、片岡たまきさん、三宅伸治さん(撮影/太田サトル)  世代もジャンルも超えて愛されたミュージシャン、忌野清志郎が亡くなって7年。今でも、テレビで、ラジオで、街で、彼の歌声が響く。いつまでも愛される理由は何か──。  ユーチューブで人気の動画がある。昨年9月4日の国会前で、脳科学者の茂木健一郎さん(53)が学生団体「SEALDs」の求めでマイクを握ったときの映像だ。茂木さんは、夜空を見上げてこう語る。 「清志郎さん、見ていますか」  拍手が沸くと、激しく体を揺らして歌い始めた。 「安保法案、腐った法律! 安保法案、ダメな法案! 何でもかんでも強行採決さー!」  1980年代末、忌野清志郎率いるザ・タイマーズが、民放の生放送で歌って物議を醸した曲「FM東京」の替え歌だった。 清志郎は51年、東京生まれ。70年にRCサクセションでデビュー。「スローバラード」「雨あがりの夜空に」などがヒットした。派手なメイクと衣装に加え、反原発の楽曲を含むアルバム「カバーズ」が発売中止になるなど、社会問題を作品に取り込むことでも知られた。2009年5月2日、がんのため58歳で亡くなった。  死後も、原発や安保などの問題をめぐり、清志郎は何度もクローズアップされる。おそらくそれは88年発表の「カバーズ」、その直後に結成したタイマーズの活動に起因しているだろう。タイマーズや忌野清志郎のソロ活動に参加した三宅伸治氏、RC元マネジャーの片岡たまき氏、RCのアルバムジャケットのデザインを手がけたアサミカヨコ氏に思い出を語ってもらった。 *  *  * ──「カバーズ」は洋楽の名曲に日本語の歌詞をつけたアルバムでした。 三宅伸治(以下三宅):87年暮れにはもう構想があったと思います。ボス(清志郎)から「こんなカバーをやりたいんだ。♪なにいってんだ~(ラヴ・ミー・テンダー)」って歌うのを聞かされましたから。 ──核や原発をテーマにした曲が収録されていたため、レコード会社の親会社から圧力がかかり、発売が中止されました。 片岡たまき(以下片岡):チェルノブイリ事故があって、広瀬隆さんの本を熱心に読んでましたよね。 三宅:「三宅、大変なことになってるぞ」と、ボスが本を貸してくれました。 アサミカヨコ(以下アサミ):当時、ワインのラベルを見て、年代や産地を気にしていましたね。 ──別のレコード会社から無事に発売されたわけですが、怒ってましたか? アサミ:そりゃあもう、あのころはステージのMCでも怒ってましたね。 三宅:ラジオ番組でも「頭にきた」的なことを言ってました。 片岡:訳詩の許諾も下り、発売日も決まっていたのに、何がダメなんだって話ですよね。普段はいたって穏やかな人、ギリギリまでためてから爆発する、そんな面もありましたね。 アサミ:そういえば、ボスの家族と一緒に山梨の温泉に行ったとき。私は助手席に乗ってたんですけど、帰り道に塩山の駅前で降ろされて、「じゃアサミ君は電車で帰りたまえ!」って置き去りにされたことがあって。 三宅:ひどい(笑)。 アサミ:後でイシイさん(奥さん)に聞いたら、私が助手席でおせんべいを食い散らかしたり、山道で酔って吐いてポルシェをちょろっと汚したりしたことに、ボスは相当ムカついてたらしく。2泊3日ニコニコしてたのに最後にズドン。それはともかく(笑)、ボスの場合、怒りが歌になることは多いですね。 ──「カバーズ」でためこんだ怒りがタイマーズでの活動につながっていくわけですね。ステージで土木作業員のような格好をし、強烈な社会風刺を歌う。 三宅:ラジオ番組の放送の合間に、僕が持ち込んだ歌本を見ながら(米国の)ザ・モンキーズの曲を歌ったりして。そこからですね。ある夜、ボスから送られてきたファクスに「タイマーズ」って書いてありました。名前は(GSの)タイガースのパロディーです。 片岡:楽屋はRCのときとは違った興奮状態でしたね。新聞を広げて、歌にできるニュースを探したり、ガラの悪い言葉遣いで話したり。 三宅:いつも叫びながらステージに向かうんです。学園祭では、実行委員の女の子がびっくりしてた。地下足袋を履くあたりからスイッチが入るんですよ。 ──ステージが終わったときは「やってやったぜ!」みたいな感じ? 三宅:まさにそれです! 片岡:興奮した様子で、「やったな!」と。 アサミ:後でビデオを見て、自分のことを「この人すごいな」「すごいだろ、俺なんだけどネ」とか、何度も絶賛して(笑)。 ──89年、テレビの生放送で、リハーサルと全く違う、しかも放送禁止用語満載の曲を歌って話題になりましたね。 三宅:タイマーズの「土木作業員ブルース」って曲や、山口冨士夫さんとボスが一緒に作った「谷間のうた」って曲がFM東京などで放送禁止になって。 片岡:怒ってましたねえ。 三宅:番組に出るときに「ボス、何かやらかしますか?」って言ったんです。 アサミ:伸ちゃんが言ったの? 三宅:そのときに作ったのが「FM東京」という曲で。ボスが作った「お◯◯◯野郎」って過激な歌詞を見てびっくりしました。 片岡:さすがに「それはダメじゃないの?」って言わなかったの? 三宅:最高でしたね(笑)。演奏しながら、テレビカメラの向こうに、いろんな人が走り回ってるのが見えた。あんな光景は見たことなかったです。そのときも、やっぱり「やったぜ!」でしたね。 片岡:態度悪そうにガムかんでたりもしてたね。 三宅:そのガムを買ってきたのも俺です。 片岡:日ごろ静かな人が、ここぞとばかりに無理やり不良になったみたいで、ちょっとかわいいんですけどね。 三宅:俺がRCのスタッフをやめるときに悩んでいたんですが、「俺は友達になりたいんだ、三宅」と言ってくれたんです。 アサミ:私も、もめごとがあったとき、ファクスで「ちっぽけな人間より」って謝ったことがあって。そしたら、そこを消して、「いやいや大きな友だよ」と返信してくれたことがあって。 片岡:対等でいてくれる。あったかい人ですね。 ──タイマーズは94~95年にも活動しました。 三宅:阪神大震災やオウム真理教事件をはじめ、毎日いろんなことが起きた時期で。その日の出来事をその場で曲にして、その日のステージで歌ってました。 アサミ:ラブソングが得意だからか、「恋バナ」もメチャメチャ好きで。ちょっと離れたところで寝てると思って、ヒソヒソ恋バナしてると、「何なに?恋の話? ン? ン?」ってガバッと起きて参加してきたり。 片岡:「得意なんだよ俺は」ってね。得意そうには見えないけれど(笑)。 ──今でも何か起きると、ファンの間では「キヨシローならどう歌ってくれるだろう」と話題になります。 アサミ:でも、ボスはもういないわけだから、ボスからもらった種を育てて、おのおのが歌えよ、考えろよって思いますね。 片岡:想像しても、答えがないことですからね。 (文・構成・太田サトル) ※週刊朝日2016年5月6-13日号
9300億円の訴訟を起こされた三菱重工!日米原発報道での一番の違いとは?――広瀬隆×堀潤対談
9300億円の訴訟を起こされた三菱重工!日米原発報道での一番の違いとは?――広瀬隆×堀潤対談 広瀬隆(Takashi Hirose)(左)1943年生まれ。早稲田大学理工学部卒。公刊された数々の資料、図書館データをもとに、世界中の地下人脈を紡ぎ、系図的で衝撃な事実を提供し続ける。メーカーの技術者、医学書の翻訳者を経てノンフィクション作家に。『東京に原発を!』『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』『クラウゼヴィッツの暗号文』『億万長者はハリウッドを殺す』『危険な話』『赤い楯――ロスチャイルドの謎』『私物国家』『アメリカの経済支配者たち』『アメリカの巨大軍需産業』『世界石油戦争』『世界金融戦争』『アメリカの保守本流』『資本主義崩壊の首謀者たち』『原子炉時限爆弾』『福島原発メルトダウン』などベストセラー多数堀潤(Jun Hori)元NHKアナウンサー、1977年生まれ。 2001年NHK入局。「ニュースウォッチ9」リポーターとして、おもに事件・事故・災害現場を取材し独自取材で他局を圧倒。2010年、経済ニュース番組「Bizスポ」キャスター。2012年、米国ロサンゼルスのUCLAで客員研究員、日米の原発メルトダウン事故を追ったドキュメンタリー映画「変身 Metamorphosis」を制作。2013年、NHKを退局しNPO法人「8bitNews」代表に。現在、TOKYO MX「モーニングCROSS」キャスター、J-WAVE「JAM THE WORLD」ナビゲーター、毎日新聞、「anan」などで連載中。2014年4月より淑徳大学客員教授 『原子炉時限爆弾』で、福島第一原発事故を半年前に予言した、ノンフィクション作家の広瀬隆氏。  壮大な史実とデータで暴かれる戦後70年の不都合な真実を描いた『東京が壊滅する日――フクシマと日本の運命』が第4刷となった。本連載シリーズ記事も累計145万ページビューを突破し、大きな話題となっている。  このたび、新著で「タイムリミットはあと1年しかない」とおそるべき予言をした著者が、「8bitNews」主宰者で元NHKアナウンサーの堀潤氏と初対談。  放射能漏れ事故を起こし、9300億円の訴訟を起こされた三菱重工事件を米国現地で見た堀潤氏は、どう感じ、どんな行動に出たのか?アメリカと比較し、日本の原発報道はなにが問題なのか。  川内原発再稼働で揺れる日本人の有益なモデルケースとなるかもしれない。 (構成:橋本淳司) ●放射能漏れを起こした三菱重工製の蒸気発生器 堀:私が2012年にアメリカに留学していた当時、米カリフォルニア州の電力会社サザン・カリフォルニア・エジソン(SCE)が運営しているサンオノフレ原発が再稼働問題に揺れていました。 広瀬:2012年1月に運転中だった3号機で、交換したばかりの蒸気発生器の配管に異常な摩耗が起きて、放射性物質を含む水が漏れた。その後、定期点検中だった2号機でも同様の摩耗が見つかった。サンオノフレ原発の蒸気発生器は三菱重工製でした。  川内原発の再稼働で、私が最もこわいと思っているプラントで、川内原発も同じ三菱重工製ですからね。川内原発は再稼働した途端に、復水器で細管が破損しましたが、蒸気発生器の細管破損は、もっとこわいことです。くわしく聞かせてください。 堀:ぼくがカリフォルニアに行った2012年6月頃、夏場の電力需給を考えると再稼働が必要ということになりましたが、地元住民を中心に反対の声が上がりました。「津波対策も不十分、情報公開もされていない」と。 広瀬:アメリカでは、西部が地震と津波地帯ですからね。 堀:アメリカの底力を感じたのは、パブリック・ミーティングを見てからです。さまざまなステークホルダー(利害関係者)、市民、原発の労働者、電力会社、米原子力規制委員会(NRC)、地元自治体、有識者、メディアなどが集まって、「サンオノフレ原発をどうするか」という話し合いが、いろいろなところで開かれていました。  ディスカッションは意見ベースではなく、事実ベースで進みます。電力会社やメーカーはもちろん、環境団体や市民も、自分の感情や意見を排除して、事実と事実を突き合わせて、落としどころを探っていました。しかもそれがインターネットですべて公開されています。日本にはパブリック・ミーティングのような話し合いの場はなく、一方的な官製の説明会でごまかすので、市民側は裁判にいかざるを得ない。ここが大きく違います。 広瀬:昔からアメリカのパブリック・ミーティングは制限時間がないので、いつも感心して見ていました。 堀:たしかにヒアリングが長いです。 広瀬:アメリカ人のよさはそこにある。怒鳴り合いもするけど、とにかく時間制限なしで徹底的に言い合う。これはアメリカだけではなくドイツもそうです。 堀:そう、それぞれが持っている情報を出し合いながら、合意点を探す作業を丁寧に行います。これが本当のディスカッションだと思います。成熟した民主主義社会は、丁寧な議論ができる市民社会であるべきだし、情報を持っている機関は、公開することに心血を注いでいただきたい。 広瀬:日本にはパブリック・ミーティングのような話し合いの場がないし、事実は隠蔽されたままです。成熟した民主主義社会には程遠いのが現状です。 ●報道されなかった三菱重工への「抜き打ち調査」 堀:2012年の事故発生後、エジソン社(電力会社SCE)と三菱重工は蒸気発生器の設計変更を発表しました。設計変更し、安全検査をクリアして、NRCが承認したら再稼働という流れでしたから、設計変更が完了した時点で、反対側の住民もいよいよ再稼働なのかと注視していました。  そんなときNRC(米原子力規制委員会)が突然、神戸にある三菱重工の製造工場に抜き打ちで調査に入ったのです。その結果、定められた手順で安全検査を行っていないことを突き止めました。 広瀬:日本でNRCの動きはまったく報道されていません。本当ですか? 堀:三菱重工は、「確かに手順を飛ばした部分はあるが、安全管理上はまったく問題はない」と主張しました。それでもNRCはこれを問題視して、三菱重工の担当者とのすべてのやりとりをネットで公開しました。これによってサンオノフレ原発の廃炉が決定的になりました。SCEの親会社であるエジソン・インターナショナルは三菱重工に対し、検査や補修費用としてそれまでに1億ドル(当時のレートで約97億円)以上を請求していましたが、さらに廃炉に伴う損害賠償(約9300億円)を三菱重工に求めました。 広瀬:最終的に、廃炉という決断を誰が下したのですか? 堀:SCE(電力会社)です。修理して運転するより廃炉にしたほうが安いという判断でした。そういう判断を自分でできる電力会社はすごいと思います。 広瀬:日本で報道されたのは事故が起きたことと、廃炉になったことだけです。でも、いちばん重要な部分は、NRCが三菱重工に査察に入ったことですね。そんな経緯があったなんて全然知らなかった。 堀:これはビッグニュースですよね。しかし、日本では報道されていません。米国ではNRCが会見を開き、三菱重工とのやりとりをほとんどの局が報道していました。それなのに、日本では報道されない。でも今の私は、こうして事実を伝えられる自由な立場にいます。 ●世界中から不信感を持たれる日本の原子力業界 堀:最近、日本の電力会社の取材をしています。電力会社のある幹部は「社内や資源エネルギー庁から、堀さんの取材を受けて大丈夫なのか、と言われましたが、情報公開するにはどうすればいいか迷っている部分もあるし、こうやって話をするところから始めたい」という人もいました。他の電力会社の幹部も「どうやったら市民社会と接続できるのかを考えたい」と言っていました。 広瀬:それはいつ頃の話ですか? 堀:今年の7月終わりくらいです。その理由は、諸外国の原子力業界から声があがっている、日本の原子力業界への不信感です。日本の原子力業界は、事故後の対応や情報公開のやり方を世界中から批判されています。  今年4月、第48回原産(日本原子力産業協会)年次大会が東京で開催されました。ブラジル、中国、フランス、インドなどの原子力部門の代表から「日本は情報公開ができていない」「あらゆるステークホルダー(利害関係者)を集めた場をつくるべき」という声があがりました。中国の代表からは「内陸部に原発をつくりたいけれど黄河を汚してしまったらとんでもないことになる。住民の声を受けて沿岸部にしかつくっていない。住民の声を聞くのが大事なんだ」と。OECD(経済協力開発機構)の原子力部門のトップからは「福島の事故は人的な側面が大きい。いくらテクノロジーを向上させても人間がエラーを起こしたらうまくいかない。そこで“心理学的側面から安全を担保する専門部署”を新たに立ち上げた」などの発表がありました。日本は事故から4年経っても業界の体質は大きく変わっていないのが現状です。 広瀬:変わっていないどころか、原子力規制委員会は大事故が起こることを前提に川内原発を再稼動させたんですよ。地元民は「100%事故は起こらない」というから原発を誘致し運転を認めてきたのに、いまや「事故は起こる」といって動かしているのです。それが8月11日の川内原発再稼働という出来事です。だからトンデモナイことが始まったのです。 ●なぜ、『東京が壊滅する日』を緊急出版したのか――広瀬隆からのメッセージ  このたび、『東京が壊滅する日――フクシマと日本の運命』を緊急出版した。  現在、福島県内の子どもの甲状腺ガン発生率は平常時の70倍超。  2011年3~6月の放射性セシウムの月間降下物総量は「新宿が盛岡の6倍」、甲状腺癌を起こす放射性ヨウ素の月間降下物総量は「新宿が盛岡の100倍超」(文部科学省2011年11月25日公表値)という驚くべき数値になっている。  東京を含む東日本地域住民の内部被曝は極めて深刻だ。  映画俳優ジョン・ウェインの死を招いたアメリカのネバダ核実験(1951~57年で計97回)や、チェルノブイリ事故でも「事故後5年」から癌患者が急増。フクシマ原発事故から4年余りが経過した今、『東京が壊滅する日――フクシマと日本の運命』で描いたおそるべき史実とデータに向き合っておかねばならない。  1951~57年に計97回行われたアメリカのネバダ大気中核実験では、核実験場から220キロ離れたセント・ジョージで大規模な癌発生事件が続出した。220キロといえば、福島第一原発~東京駅、福島第一原発~釜石と同じ距離だ。  核実験と原発事故は違うのでは?と思われがちだが、中身は同じ200種以上の放射性物質。福島第一原発の場合、3号機から猛毒物プルトニウムを含む放射性ガスが放出されている。これがセシウムよりはるかに危険度が高い。 ?3.11で地上に降った放射能総量は、ネバダ核実験場で大気中に放出されたそれより「2割」多いからだ。  不気味な火山活動&地震発生の今、「残された時間」が本当にない。  子どもたちを見殺しにしたまま、大人たちはこの事態を静観していいはずがない。  最大の汚染となった阿武隈川の河口は宮城県にあり、大量の汚染物が流れこんできた河川の終点の1つが、東京オリンピックで「トライアスロン」を予定する東京湾。世界人口の2割を占める中国も、東京を含む10都県の全食品を輸入停止し、数々の身体異常と白血病を含む癌の大量発生が日本人の体内で進んでいる今、オリンピックは本当に開けるのか?  同時に、日本の原発から出るプルトニウムで核兵器がつくられている現実をイラン、イラク、トルコ、イスラエル、パキスタン、印中台韓、北朝鮮の最新事情にはじめて触れた。  51の【系図・図表と写真のリスト】をはじめとする壮大な史実とデータをぜひご覧いただきたい。 「世界中の地下人脈」「驚くべき史実と科学的データ」がおしみないタッチで迫ってくる戦後70年の不都合な真実!  よろしければご一読いただけると幸いです。

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