日本人は骨を大切にする。大切な人が死んだらその骨を手厚く葬る。遺骨収容団が遠い硫黄島に出かけていき、それが自分の身内のものかもわからぬまま、埋められ打ち捨てられた骨を日本に持ち帰る。墓に納め、手を合わせる。そこまでしてやっと、次に進むことができる。
 骨の数があまりにも多く、すべてごっちゃになって、どうしようもない。70歳の女性は「どの骨がお父さんのものか分からない以上、みんなお父さんだと思って拾っているんですよ」という。もう人を犬死にさせないために、戦没者の遺骨のことを考え続けなければならない。新聞記者である著者がここで紹介している「遺骨の有り様」を読んでいるとそう思わせる。
 遺骨といっても、人は死んだらすぐ骨になるわけではない。高火力で焼かない限り腐敗という道が待っている。そんな遺体が山ほどある酸鼻を極めた場所というと、ガダルカナルかインパール作戦かと思ってしまうが、日本中に、戦争で死体だらけになった場所はあるのだ。
 この本は、快晴の下、子どもたちが遊んでいる錦糸公園の、そこにある大きな木の根本に、遺体を埋めたことを語る老人の話から始まる。「そばに大きな穴があってね。そこに黒こげの遺体を埋めたんですよ」。川には水面が見えないくらい遺体が浮いていた。川に浮かんできた女性の遺体を引き上げると、2歳くらいの子どもが、母親らしきその女性の髪の毛にしがみついていたという。東京大空襲、谷の(玉音放送が流れる8時間前の)空襲、広島、長崎の原爆。離島の遺骨も都会の遺骨も悲惨である。
 ふだん歩いている公園や地面にどろどろの遺体が埋まっていた。いたましい、というよりももっと不思議な、(誤解を招くかもしれない形容になるが)花畑の中に立ち尽くすような気持ちになる。自分の骨なんてどうなったっていいが、アスファルトやビルの下でじっとしている骨のことは、ときどき思い出すべきだろう。

週刊朝日 2015年7月3日号