かつて橋本治は女子高生だった。その後、光源氏になったり『平家物語』という名の日本上古史になったりいろいろしたけど、1970年代には桃尻娘だった。だから誰よりも的確に少女マンガをキャッチしていた。当時、オタクという言葉はまだなくて、マンガを評論するのは異例中の異例だったが、女子高生にそんな世間の事情は関係ない。好きだから読む。語る。自分が同化して「そのもの」になってしまう。本書はそのようにして書かれた画期的な少女マンガ評論の古典だ。
 取り上げられているのは倉多江美、萩尾望都、大矢ちき、山岸凉子、江口寿史+鴨川つばめ、陸奥A子、土田よしこ、吾妻ひでお、大島弓子。
 本書は社会批評としても秀逸だ。たとえば著者は、萩尾望都の『ポーの一族』を、懐かしい時間への回帰循環の物語とし、閉塞化していく戦後社会と、葬り去られた子供たちへの鎮魂歌だとする。だが挫折しても希望は消えない。少年少女は何度でも挑戦を繰り返す。だから萩尾作品の空は青く、景色は金色に輝いている。また大島弓子作品では、性別も親子関係も役割であり、時に交換可能なものとして描いていると指摘。大島は「自分」として立つ人間を描いた。彼らはまだ存在しない世界に踏み出していくのだ、と。
 少女マンガは社会の外に世界を切り開いた。なぜなら女子どもは社会に居場所を持たなかったからだ。当時、社会は男の都合で出来ており、持て囃すにせよ色眼鏡で見るにせよ、女子高生は社会的に排除されていた。橋本治は、そんな差別を軽々と乗り越える女子どもの強かさを掬い上げる。
 ギャグマンガに多くのページが割かれているのも、差別や周辺への敏感さの表れだろう。土田よしこを論じて残酷さとやさしさの関係を思い、吾妻ひでおを取り上げて全面肯定の笑いに潜む虚無性を見抜いていた。
 マンガはどこまでも自由だ。そして評論もまた自由だ。

週刊朝日 2015年10月2日号