「1936年頃、満洲国撫順市の撫順駅にて、12歳頃の母と12歳の私」
「1936年頃、満洲国撫順市の撫順駅にて、12歳頃の母と12歳の私」
巨大サイズのプリントの意外な理由

 写真展は53年に尼崎市の引揚者寮で写した作品で終わる。そこには生まれたばかりの笠木さんを抱く母の姿が写っていて、そのとなりに幼い母を抱く笠木さんの姿がはめ込み合成されている。

「まあ、親子というか、私の言い方でいうと、遺伝子の旅。そうしたら、歴史とぶつかっちゃった、みたいな感じですよ。私、実は子どもがいないんです。それはものすごく重要で、DNAの叫びのもとに私は使われている、働かされているって感じ。こんなに強い動機はないと思う。だから、こういうもので残して、私の存在意義が認められるというか。やるべきことを果たさねば、みたいな。私はどこから来て、どこへ行くのか、ということなんですよ、結局」

 また、あのミンコフスキー空間が頭に思い浮かんだ。

 会場には最大約1.5×5.5メートルもの大型プリント13点が展示される。これほど大きなサイズにした理由をたずねると、「見る人が作品の中に踏み込んでいきたいと思わせるような感じにしたいから」と言う。そして、もうひとつ、意外な理由を語った。

「かわいい親子に見られたくない、ということ。小さなサイズで女2人が立っていると、すごくかわいい写真に見えるらしいの。それがちょっとショックで。このサイズならかわいくない」

 この言葉を聞いたときは別に気にならなかったのだが、インタビューの後、写真集にこう書かれているのを見つけて、たじろいだ。

<告白すると、私はずっと母が疎ましかった。母は私に粘着してきた。(中略)少なくとも私にはそう思われた。母の粘着から逃げるために私は家から通えない大学を選んだ。(中略)。しかし、死なれてみると私は母のことを何も知らないことに気がついた。朝鮮で生まれ、台湾や満州に住んだこと、敗戦を迎えて命からがら日本に帰って来たこと。(中略)切実なリアリティを持って母の前半生を知らなければならなかった。私の知らない母と向き合うことによってやっと私は母から飛び立つことができるのだ>

                  (文・アサヒカメラ 米倉昭仁)

※1 林忠彦賞は国内有数の写真賞のひとつ。戦後を代表する写真家、林忠彦の名を冠している。

※2 笠木さんの林忠彦賞受賞記念写真展は当初、東京・六本木の富士フイルムフォトサロンと周南市美術博物館で今春開催される予定だったが、新型コロナの影響で中止、延期となった。

※3 平頂山事件は1932年、ゲリラに通じたとして住民が旧日本軍に虐殺されたとされる事件。中国側は被害者数を3千人としている。

【MEMO】笠木絵津子写真展「『私の知らない母』大型プリント展-林忠彦賞受賞を記念して-」
コミュニケーションギャラリー ふげん社(東京都目黒区下目黒5-3-12 ) 10月8日~10月25日。