「台湾高雄塩町」
「台湾高雄塩町」

母はソ連軍が押し寄せてくるときまでここにいた

 しかし、そんな私を前に、笠木さんは母への思いとは別の感情が湧き上がってきたことを話し始めた。

「母たちが見た満州。叔母さんたちが撫順の話をうれしそうにすると複雑な気持ちになったものです。考え方が違うし、みんないろいろな視点からいろいろな思いを持って眺めている。だけど、なかなか難しいものがあって、あまり大っぴらには言わない、みたいな時代がずっと続いて……」

 なんともぼんやりとしたつかみどころのない話だった。でも、話の核心部はなんとなく想像がついた。しかし、あえて確認してみる。「複雑な気持ちって、どういうことですか?」。

「やっぱり、母たちの楽しい生活は中国人を蹂躙してつくったんじゃないかという思いが戦後生まれの私にはあった。その乖離。(中国人の)骨が並んでいるやつ(撫順近郊で起こった平頂山事件※3)とかね。彼らはぜんぜんそういうのを聞かされていなかったので、楽しい街だったのでしょう。でも、事実を知ってしまうと、これは全部まわらなければ、と。そういうことも私の背中を押した。このまま埋もれてしまっていかんな、と。やりながら思ったんです。そのためにやったわけじゃなく」

 撫順のほか、笠木さんは母が13年間暮した旧満州を訪ね歩いた――ハルビン、延吉(旧間島)、石岩鎮(旧石頭。当時、関東軍の戦車隊駐屯地があった)。

<石頭に入った歩兵隊の将校と母は結婚した。母21歳、間島から埃っぽい荒野の中の官舎に嫁入りした。わずか数か月後の1945年8月9日、すぐ東の山を越えてソ連が攻めてくるとも知らずに>(同)

 そこで写した作品を私たちは喫茶店の小さなテーブルの上でじっと見つめた。「ものすごく思い出深いところです。風景もすごかったです。2時間くらい写真を撮っていましたね」。涼秋の空。画面いっぱいの大豆畑。その向こうに低い山が見える。そこに笠木さんと母の姿(44年正月撮影)がはめ込まれている。

「この山の向こう側が国境です。母はソ連軍が押し寄せてくるときまでここにいた。旦那はシベリア(抑留)に。母は逃げた」。そのころ、ほかの叔母さんたちは全員日本に帰国していた。「あの人も間の悪い人やな、と思って」。そう、ぽつりと言うと、笠木さんは明るく笑った。

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かわいい親子に見られたくない