天正十八年(1590)の小田原平定後、豊臣秀吉の命により家康は関東へ転封となるが、このとき、井伊直政が家臣団のなかでは最高の十二万石を与えられて上野高崎城主となる。本多忠勝は十万石で上総大多喜城主、榊原康政も十万石で上野館林城主となった。この3名が城主となったのは、この時が初めてである。

 残る四天王の一人酒井忠次は、すでに隠居しており、嫡男の家次が下総臼井城を与えられた。しかし、石高はわずか三万七千石だったため、忠次が嫡男家次への加増を願い出ると、家康は「お前でも我が子はかわいいか」とつぶやいたという。信康の死を止められなかった忠次を家康が冷遇したという見方もあるが、おそらく創作された話であろう。能力に応じた論功行賞であったと思われる。

週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から抜粋