今川氏真の領国であった遠江を平定した家康が、元亀元年(1570)に岡崎城から浜松城に居城を移すと、旗本先手役の本多忠勝・榊原康政らも浜松城に移った。このとき岡崎城は、家康の嫡男信康が守っており、石川家成に代わって西三河の旗頭となった甥の石川数正が、信康を補佐している。この段階で、徳川家臣団を支えていたのは、酒井忠次と石川数正であった。

 残る四天王のひとり井伊直政が家臣となるのは、実に家康が浜松城に移ってからのことだった。もともと、井伊氏は遠江の国衆で、駿河の今川氏に属していたものである。しかし、桶狭間の戦い後におきた「遠州錯乱」と呼ばれる争乱のなか、直政の父直親は、今川氏に通じたとして暗殺されてしまう。こうした経緯を知っていた家康は、遠江を平定した後、直親の遺児である直政を取り立てたのである。天正三年(1575)のことだった。そのようなわけで、直政自身は、三河譜代ではなく、徳川家臣団のなかでは、新参ということになる。

 天正七年(1579)、家康の正室築山殿と、築山殿との間に生まれた家康の嫡男信康が織田信長から武田氏への内通を疑われるという大事件がおきた。このとき、酒井忠次は、大久保忠世とともに安土城にいる信長のもとに釈明の使者として派遣されている。結局、築山殿と信康は、死に追い込まれてしまったことから、忠次が釈明できなかった、あるいは釈明しなかったといわれるが、事件の真相は、いまもって明らかではない。

 近年では、家康直属の家臣団と信康直属の家臣団との間に、対立が生じていたのではないかともいわれている。もしかしたら、忠次は、徳川家臣団の対立に信康の岳父である信長の介入を招かないよう、自らが泥をかぶる形で信康を死に追いやり、徳川家を守ろうとしたのかもしれない。

 いずれにしても、この一件は、その後も徳川家臣団のなかに遺恨を残すことになった。天正十三年(1585)、石川数正が、突如として家康のもとを出奔し、豊臣秀吉の家臣になってしまう。数正は、信康の補佐役であり、酒井忠次らとの関係が悪化していたものともみられる。

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「お前でも我が子はかわいいか」