「おや?」と思って立ち止まる。そしてはじまる旅の迷路――。バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界を歩き、食べ、見て、乗って悩む謎解き連載「旅をせんとや生まれけむ」。今回は、タイ在住の日本人で初の新型コロナウイルスによる死亡例ついて。
【実際の写真】先頭はずっと先…タイのワクチン接種会場はこんな感じ
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7月6日、バンコクでIさん(79)が新型コロナウイルスに感染して死亡した。タイ在住日本人では、日本大使館が把握する初の犠牲者だった。
彼の死はタイの日本人社会を動揺させている。感染者が急増するなか、医療崩壊に近い現実を知らされてしまったからだ。駐在員の家族の帰国を決めた会社もある。
「助けろよ。俺を助けろよ」
入院までのIさんの世話をしたAさん(51)は、いまでも彼が発したその言葉がふっと蘇ってくる。
Aさんはサービスアパートに勤務している。Iさんはそこに10年以上暮らしていた。ロングステイビザをとり、物価の安いタイで年金暮らしを選んだひとりだった。この制度は20年ほど前にはじまった。当初は60歳代をタイで暮らし、70歳以降の本格老後は日本というスタイルが推奨されたが、実際は70歳をすぎてもタイで暮らす老人は少なくなかった。Iさんは毎朝、ロビーに置かれた新聞を読み、喫煙所での一服が日課だった。
6月下旬、Iさんが姿を見せなくなった。心配になったAさんらスタッフが、部屋のドア越しに声をかける。
「大丈夫。2、3日寝れば治る」
Iさんの声が返ってきた。彼の要望でコーラ5缶と氷をドアノブに吊りさげた。翌日はお粥、サンドイッチ……それにコーラ。食欲はないようで、コーラだけでしのいでいる感じだった。コロナに感染? スタッフはドア越しや電話で入院をすすめる。
「タイの病院は金ばかりとる。俺は嫌だ」
頑なに入院を拒んだ。やがてドア越しに声をかけても反応がなくなり、電話にもでなくなった。Aさんらは防護服に身を包んで部屋に入った。Iさんはベッド脇に突っ伏していた。周囲の床が塗れている。トイレに行こうとして倒れたのかもしれない。まだ意識はしっかりとしていた。そのとき、彼が叫んだ言葉が、「助けろよ」だった。