翌01年はアレックス・カブレラとスコット・マクレーンの長距離砲2人が入団。カブレラは49本塁打、124打点、マクレーンは39本塁打、87打点と“ツイン・バズーカ”を形成したことから、ポールはまったく1軍で出番がなく、2軍で飼い殺しのままシーズンを終えた。

 その2軍で、打率3割5分2厘、イースタンタイの27本塁打、イースタン新の95打点と無双し、ファーム史上初の2年連続三冠王を獲得したが、シーズンが終わると、ツイン・バズーカのとばっちりを食う形であっさりクビに。他球団からも声がかからず、寂しく帰国した。

 翌02年は韓国の現代でプレーしたが、打率2割8分、18本塁打、64打点と4番の期待に応えるほど活躍できず、たった1年で退団となった。

 ちなみに西武は、88年に38本塁打、90打点の好成績でリーグ優勝と日本一に貢献したタイラー・リー・バークレオも、翌89年は、途中入団のオレステス・デストラーデに押し出される形で2軍降格。イースタンで2年連続16本塁打を放ち、90年に本塁打王を獲得した。

 また、ポールを2軍に追いやったマクレーンも04年4月末、故障のカブレラの代役として再入団をはたしたが、まったく活躍できず、カブレラ復帰後は2軍へ。しかし、イースタンでは、チームメートの中村剛也の20本塁打を上回る23本塁打を記録し、本塁打王を獲得。バークレオ、ポール、マクレーンの助っ人トリオで、計4度のイースタン本塁打王というのも、西武ならではの珍記録だ。

 88年に“呂(ルー)旋風”を巻き起こし、オールスターにも出場した呂明賜(巨人)も外国人枠に泣いた一人。翌89年からの3年間はほとんど2軍暮らしだったが、89年にイースタンで打率3割3分3厘、15本塁打、57打点という宝の持ち腐れのような成績を残している。

中田翔日本ハム)の三冠王を阻んだ男”としてコアなファンの記憶に残っているのが、09年に育成選手としてロッテに入団したファン・カルロス・ムニスだ。

 同年、イースタンで打率3割4分2厘、15本塁打、57打点の好成績。この結果、打率3割2分6厘、イースタン新の30本塁打、同タイの95打点と大暴れしたプロ2年目の中田が三冠王を逃す羽目に。

 だが、入団時に33歳と年齢的にピークを過ぎていたこともあり、翌10年、1軍で14試合出場したのを最後に戦力外通告。「もっと若いときに来日していれば」と惜しまれる。

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