チューリヒでも日本の大学病院と同じように回診があります。教授はじめ多くの医者が患者さんのもとをまわり、診察とディスカッションを行います。私は彼について悪性黒色腫の患者さんの診察にいきました。

 多くの患者さんを診て回る日本の回診では、手際よく回ることが求められます。とくに忙しい医師にとって、時間を有効に使うことは大事なことです。チューリヒでも彼はテンポよく診察をしてベッドを回っていました。

 年配女性の悪性黒色腫の患者さんは新薬の治験中でした。チューリヒではドイツ語が公用語ですが、若い人はみな英語も話せます。しかし、その患者さんはドイツ語しか話せず、また、私はドイツ語がわからないため、彼女が何を話しているのか全く理解できませんでした。それでも、彼女はつらそうに、そして不安を抱えているのが私にもはっきり伝わってきました。

 チューリヒのボスは彼女の表情を見るなり、近くの部屋から椅子を引っ張り出してきました。そして、その患者さんと30分近くベッドの隣で話をしていました。次第に患者さんの表情は柔らかくなり、日本人の私にも「ダンケ フィールマールス(ありがとうございました)」と声をかけて診察が終わりました。

 彼のその姿に当時、大きな感銘を受けました。世界で活躍する超一流の人間のすごさを目の当たりにしました。そして、一緒に仕事をして勉強したいと強く思い、留学先をチューリッヒに決めました。

 チューリヒでの2年間、彼の患者さんに接する態度や仕事の姿勢を間近で見られたことは、大きな財産です。もしかしたら、自分の研究結果を残すことより大事なことだったかもしれません。

 日本に帰ってきて5年以上が経ちますが、今でも彼の仕事の姿を思い出します。不安そうな患者さんに腰を据えて話をしていたボスの姿が頭に浮かびます。

 世界中を飛び回って多忙を極めていたチューリヒのボスが大事にしていたことは、地位や名声でもなく、目の前の患者さんをケアすることだったんだと、改めて感じます。

 若いお医者さんには、日本という枠を超えて、超一流の人間と一緒に仕事をしてきてほしいと思います。世の中には尊敬すべき立派な人が大勢います。世界的に活躍する超一流の人間が大切にしていることを垣間見るだけでも、留学の価値はあります。自分の成長のために、そして、今後日本の医療がガラパゴス化しないためにも留学はおすすめだと思っています。

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大塚篤司

大塚篤司

大塚篤司(おおつか・あつし)/1976年生まれ。千葉県出身。医師・医学博士。2003年信州大学医学部卒業。2012年チューリッヒ大学病院客員研究員、2017年京都大学医学部特定准教授を経て2021年より近畿大学医学部皮膚科学教室主任教授。皮膚科専門医。アレルギー専門医。がん治療認定医。がん・アレルギーのわかりやすい解説をモットーとし、コラムニストとして医師・患者間の橋渡し活動を行っている。Twitterは@otsukaman

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