いずれにしても、それら絵馬や額やケースの中で、死者たちは現世と強く結びついている。愛する者がいるあの世は、手の届かない遠いどこかではなく、現実と地続きの、すぐそこなのだ、と信じる思いがあふれんばかりに詰まっている。

 青森県つがる市の弘法寺は、岩木山を望む広大な田園地帯の中にあった。案内して下さったご住職は、まだ小さなお子さんを2人育てているお父さんだった。奉納されたガラスケースは、本堂の奥にある部屋にびっしりと並べられていた。一つとして素通りできず、すべてのケースの前で立ち止まり、じっと中を見つめないではいられなかった。一個一個のケースが亡くなった人の魂なのだから、それは当然のことだった。

 写真に写る故人は幼い男の子。その前にはお菓子と缶ビール。花嫁人形は角隠し姿。2人の間に生まれた子どもはキューピー人形……。こんな具合に、一つのケースは死んだ子どもをそのまま永遠に閉じ込めておくための箱ではない。そこには時間が流れている。幼い我が子と成人した我が子が、何の矛盾もなく一つの空間を分け合っている。時間の流れこそが、こちらとあちらをつないでいる。

 見よう見まねで素人が作った素朴な人形もあれば、特注品と思われる立派な人形もある。それらのいくつかには名前がついている。故人の名から一字取ったり、職業に由来していたり、好きな歌手の名前を借りたりと、そこにもまたさまざまな願いが渦巻いている。架空の嫁や孫に名前をつければ、彼らはもはや架空ではなくなる。

 ご住職のお話によれば、折にふれ、ご家族がお参りに来てケースの中身を整えるそうだ。お菓子や衣装は古くなるし、何より成長に合わせて必要な品は変化してくる。ガラスケースは両腕で抱えられるほどの大きさしかない。しかし成長する魂を見守る者にとっては、十分な広さなのだろう。人の心を映す箱庭、自然の摂理を凝縮した盆栽、無限を表現する棋譜。その広大さについて、似たものを思い浮かべてみようとしても、上手くいかない。ムカサリという言葉が果てしない海に浮かぶ孤島であるのと同じように、ガラスケースたちも、他の何かと手を結んだりグループを作ったりすることなく、青森の田園の中にただ一つの小さな世界を保っている。

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ガラスケースは言葉のない物語