「小説?」

 一瞬私は、とがめられるのかとひるんだ。

「小説を書かれるんですか?」

 お母さんの口調には勢いがあった。

「ぜひ、いい小説を書いて下さいね。ぜひともね」

 力強い励ましだった。お母さんの瞳には小説というものを信じる力がみなぎっていた。あなたはそれを書くべきなのです、と諭されているようでもあった。こうして私は、初めて会った、名前も知らない管理人のお母さんに、小説を書くことを約束したのだった。

 ムカサリ絵馬の旅のあと、『小箱』が完成するまで6年の歳月がかかった。途中、回り道をしたような気もするが、今から振り返れば、この小説には必要な時間だったと分かる。ガラスケースが並ぶ部屋や、絵馬で埋め尽くされたお堂を目にしたからこそキャッチできた、普通なら見過ごしていたかもしれない数々の偶然に出会うことができた。そうしたすべてに手助けされ、ようやく一つの小説が生まれた。

 行き詰った時、私を励ましてくれたのはもちろん、黒鳥観音堂の管理人のお母さんだった。

※「一冊の本」2019年10月号