ガラスケースはその一個一個が言葉のない物語だ。切実に死者を求める者にとって、その物語は単なる絵空事ではない。生と死を平等に含む宇宙である。

 窓のカーテンが閉まっていたのか、窓などなかったのか、今ではよく思い出せないのだが、ケースが並ぶその部屋は光と影が柔らかく混じり合い、明るいとも暗いとも思わせない心地よさがあった。どこまでも静かだった。あたりを圧倒するような無音ではなく、こちらに寄り添ってくれる自然な静寂だった。

 ふと私は、こんなにも死者たちのそばにいるのに、自分が平穏な気持でいるのを感じた。幸福、と言ってしまうと誤解されるだろうか。けれどその時私の胸を満たしていたのは、子どもを亡くした人々の慟哭ではなく、魂の成長を見守る者の優しい視線だった。死者だけが運ぶことのできる静かな幸福が、そこにはあった。

 その後、遠野から山形に入り、最後に最上三十三観音の第十九番札所、黒鳥観音堂を訪れた。お堂は壁から天井まで、隙間なくびっしりと絵馬に覆われていた。すべてのスペースを埋めてもまだ足りず、せり出し、重なり合いしながら、なおも終わりは見えない様子だった。お堂がどうやってこの中身の重みに耐え、外観を保っているのか、不思議でさえあった。

 どれも絵画としての技術とは無縁の絵だった。その筆の純朴さゆえ、登場人物たちはみな善き人々に見えた。座敷にはご馳走が並び、屏風や掛け軸は豪華で、新郎新婦は初々しい表情を浮かべている。また別の絵馬では、正装した一家がお参りに向かう途中だ。お父さんは頼もしく、お母さんは美しく、赤い晴れ着の女の子は可愛らしい。彼らは人生で最良の時を過ごしていた。小さなお堂そのものが、何ものにも損なわれない幸福を守るための、一つの箱だった。

 帰り際、近くの管理人室にいた高齢の女性に挨拶をした。本当の管理人は息子で、自分はちょっと留守番をしているだけなんです、と女性は申し訳なさそうに言った。とんでもない、自由に見学させていただきありがとうございました、おかげさまで小説を書くための貴重な出会いになりました、と私はお礼を言った。その途端、管理人のお母さんはきりっとした視線で、真っすぐにこちらを見つめてきた。

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名も知らぬ管理人のお母さんと交わした約束…