まさかの三重殺で絶好の同点機を逃した全パ・大沢啓二監督(日本ハム)は「向こうは(同点覚悟で)ゲッツーを狙ってんのに……。オールスター戦で三重殺をやられて恥ずかしいよ」と“可愛い子分”の失態にオカンムリ。島田も「5万円(勝利チームの各選手への褒賞金)、みんなに損させちまって」とションボリしていた。

 代打に起用された投手がサヨナラ勝ちのヒーローになる珍事が起きたのが、1988年の第3戦(東京ドーム)だ。

 3対3で迎えた延長12回、全セは先頭の正田耕三(広島)が右中間を破り、無死三塁とサヨナラのチャンス。続く広澤克実(ヤクルト)は敬遠で歩かされ、次打者は投手の中山裕章(大洋)なので、当然代打のケースである。

 だが、史上最多の投手14人を選出していた全セは、総力戦ですでに野手を使い果たしていた。ベンチの中で王貞治監督(巨人)が「(投手の中から)誰を代打に送ろうか?」と相談すると、落合博満(中日)をはじめ、全員が「水野(雄仁)行け!」と叫んだ。

 池田高時代、“やまびこ打線”の4番を担い、甲子園で満塁本塁打を打ったこともある“阿波の金太郎”。まさに代打に送るならうってつけの男だった。

 それでも遠慮気味に「バントですか?」と尋ねる水野に、王監督は「思い切って行け!」と強く背中を押した。この日チャンスでことごとく凡退していたチームの先輩・原辰徳も「このバットを使えよ」と愛用の黒バットを提供した。

 「あんなに緊張したのは初めてです」と半ば夢見心地で打席に立った水野は、ロッテの守護神・牛島和彦の初球をファウルしたあと、カウント1−1から真ん中高め直球を空振り。1−2と追い込まれた。だが、投手ならではの読みで、「今の空振りで、牛島さんは(プライドの強さからフォークを封印して)もう1球ストレートを投げてくる」と確信。4球目、読みどおりの直球をフルスイングすると、快音を発した打球は、あわやサヨナラ3ランという勢いでバックスクリーンへ。惜しくもフェンスの1メートル手前で佐々木誠(南海)に捕球されたものの、殊勲のサヨナラ中犠飛となった。

 投手として出場した選手がサヨナラの打者となったのも、サヨナラ犠飛による決着も、球宴史上初の珍事だった。

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苦節15年で上った舞台で初打席初本塁打