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感動をありがとう! 平成の日本人を“胸熱”にしたアスリート【女性編】

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平成の女子テニスをけん引した伊達公子 (c)朝日新聞社

平成の女子テニスをけん引した伊達公子 (c)朝日新聞社

■高橋尚子(マラソン)

 2000年(平成12年)に開催されたシドニー五輪で日本人女子として、初めて陸上での金メダルを獲得した。高校時代は無名だったものの、実業団で名伯楽の小出義雄監督に才能を見出され、小出監督との二人三脚でメキメキと実力をつけると、シドニーへの切符を獲得。大会ではレース途中から優勝候補の一角だったリディア・シモン(ルーマニア)との激しいデッドヒートを繰り広げた。35キロ付近で外したサングラスを投げ捨てた後に、一気にスパートをかけグイグイとシモンを突き放した走りは、とても印象深かった。

 42.195キロの道のりは、想像を絶するような厳しさのはずだが、レース後には「すごく楽しい、42キロでした」と笑顔で語ったように、高橋の走りには“爽快感”のようなものがあった。シドニー後の2001年(平成13年)9月には当時の世界記録を樹立し、五輪連覇の期待も膨らんだが、アテネ五輪の出場は逃した。しかし、国際大会で一時代を築いた日本の女子マラソンをけん引した走りと、笑顔の絶えない明るい性格の“Qちゃん”は当時の国民的ヒーローだった。


■澤穂希(サッカー)

 平成の時代はJリーグが開幕し、日本代表がワールドカップ出場の常連となるなど男子を中心にサッカー界が盛り上がったが、女子サッカーにもその注目が集まる大きな原動力となった。若くして才能を見いだされ、15歳だった中学3年生の時に日本代表入りした澤は、アメリカのチームでも活躍。常に女子サッカー界を引っ張り、徐々にその認知度を広めていった。

 2004年(平成16年)には日本女子代表の愛称が「なでしこジャパン」に決定し、その年に行われたアテネ五輪では、初めて決勝トーナメントに進出。2008年(平成20年)の北京五輪ではベスト4入りを果たすなど、澤を中心に日本女子代表は着実に成長していった。そして迎えた2011年(平成23年)のワールドカップ・ドイツ大会。日本代表は自慢のパスサッカーが機能し決勝に進出すると、決勝では女子サッカー界に君臨するアメリカをPK戦の末に撃破した。試合は延長戦で勝ち越しを許す苦しい展開となったが、終了間際にキャプテン澤が決めた起死回生の同点ゴールは、今なお脳裏に深く焼き付いている。同年にはFIFA女子年間最優秀選手賞を受賞し、世界に日本女子サッカーの躍進を印象付けた。



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