同じく東映時代の72年、張本は史上7人目のしたが、これまた紆余曲折の末の到達だった。

 思わぬアクシデントに見舞われたのは、2000本まであと「3」に迫った8月16日の近鉄戦(日生)だった。

 1回裏、佐野勝稔の左中間への打球を追った張本は、ナイター照明のライトが目に入り、視界を遮られた直後、なんと、グラブではじいた打球が鼻を直撃。痛みが引かないため、3回の守備から退き、記録達成は足踏みとなった。

 病院で検査を受けた結果、幸い骨には異状がなく、打撲傷で全治3日と診断された。

 翌17日の近鉄戦は大事をとり、5回2死一塁で小形利文の代打として出場したが、今度はマウンドの板東里視と些細なことで口論となった直後、初球カーブが左足首を直撃。チームメートの大杉勝男が捕手・岩木康郎に食ってかかるなど、小競り合いとなり、試合再開後、張本には代走が送られ、またしても足踏み……。

 そんななか、同18日の西鉄戦(平和台)と翌19日の西鉄戦ダブルヘッダー第1試合で1安打ずつ記録し、いよいよリーチ。第2試合の4回、東尾修から左前安打を放ち、ついに2000本の大台に到達した。

 ところが、翌日のスポーツ紙は、巨人vs阪神の首位決戦で王貞治が江夏豊から2本塁打を放ったニュースがトップで、張本の快挙は、西鉄戦の戦評の末尾に「なお、東映の張本選手は4回左前打し、2000本安打を記録した」(日刊スポーツ)と付け足し的に紹介されるという寂しいもの。当時のパリーグの注目度がいかに低かったかが窺える一事であり、経営不振の東映、西鉄は同年限りで球団身売りとなった。

 巨人移籍1年目の76年、張本は9月25日の中日戦(ナゴヤ)の時点で打率3割6分をマーク。江藤慎一以来、史上2人目の両リーグ首位打者もほぼ確実視された。

 ところが、好事魔多し。自著「闘魂のバット」(ベースボールマガジン社)によれば、そのころ、左手の中指と薬指の付け根に原因不明のゼリー状の塊ができ、打撃に微妙な影響を与えていた。

 それでもチームの優勝がかかっている大事な時期とあって、休まず出場。最終的に3割5分4厘7毛で全日程を終えた。

 あとはライバル・谷沢健一(中日)の結果を待つだけ。この時点で3厘差をつけており、逆転される可能性は低いと思われた。

 張本自身も「谷沢君が3の3打ってひっくり返したりして」と冗談半分に口にする余裕があったが、あろうことか、その谷沢が10月19日の広島戦(ナゴヤ)で4打数3安打を記録した。

 この結果、谷沢の最終打率は3割5分4厘8毛となり、たった1毛差で逆転を許した。張本はヒット0.1本分足りなかったわけで、プロ野球史上最も1位と2位の差が小さいレアな記録である。

 しかも、悩まされたゼリー状の塊は、その後、治療法がわかったことから、たった1日で治り、「悔やんでも悔やみきれない」結果に。

 張本は翌77年も3割4分8厘の高打率をマークしたが、若松勉(ヤクルト)の3割5分8厘に及ばず、2年続けて次点。両リーグ首位打者の夢はついに叶わなかった。

●プロフィール
久保田龍雄
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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