■破壊力抜群だった田中達也との2トップ

 オフト監督は、エメルソンと福田との間に良好な関係を築かせることで、エメルソンにはJリーグと浦和への順応を、そして福田には世代交代の必要性を暗に説き、それをチーム改革の柱に据えたのだった。また、当時のオフト監督は堅守速攻を旨とし、カウンターアタックの能力にたけるエメルソンと田中達也(現・新潟)を2トップに据えて彼らが生きるチーム戦術を取り入れた。

 個人的に、Jリーグ時代のエメルソンのベストゲームに挙げたいのはオフト監督体制2年目の2003年8月16日、Jリーグ2ndステージ第1節のジュビロ磐田戦だ。前年に、両ステージ制覇でリーグ完全優勝を達成し(当時のJリーグは2ステージ制)、この年もリーグ2位、そして、天皇杯優勝を果たした磐田を相手にエメルソンの2ゴールと田中のゴールで浦和が3-1と大勝。ゴールは、いずれも二人の連係からで、すでに田中から2度アシストされていたエメルソンは、試合終了間際にドリブルで相手陣内へ進撃した際に躊躇なく、田中へスルーパスを通して相棒のゴールをお膳立てした。このように、オフト監督の下でプレーしたエメルソンは、唯我独尊的なプレースタイルからの脱皮を果たし、チーム戦術を重んじ、勝利に邁進するチームプレーヤーへと変貌を遂げていた。

 2003年11月、エメルソンの活躍などでクラブ史上初タイトルとなるヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)を制した直後に、オフト監督がクラブフロントとの意見の相違で退任を表明した。その際、エメルソンはチームメイトと共に泣きながら指揮官の慰留を懇願した。それは孤独な青年が聡明な指揮官と出会って心身共に成長を遂げた、何よりの証だったのかもしれない。

 エメルソンのピッチ上での所作は、浦和サポーターの琴線に触れた。日常生活では相変わらず遅刻ばかりで、オフ明けのチーム合流日に日本へ帰国せずに罰金を課せられるなど、破天荒な振る舞いを続けた。だが、それでもサポーターはエメルソンのハイレベルなプレーの数々に驚嘆の声を漏らして神のように崇めた。

 ただ、浦和のサポーターが彼を信任したのはプレー面の要素だけではなかったように思える。先述の2003年ナビスコカップ決勝・鹿島アントラーズ戦では味方DFの坪井慶介(現・山口)と激突して互いに頭から流血しながら包帯を巻き付けてゴールを決めた。また、2002年のJリーグ2ndステージ第2節・ベガルタ仙台戦では試合中に腕を骨折してもプレーを続行し、あまりの痛みに涙を流しながら永井雄一郎(元浦和、清水など)の決勝ゴールをアシストしている。浦和のサポーターは、一心不乱にゴールを求めて全力でチームに尽くす、彼の根源的なファイティングスピリットに魅力を感じていたのだと思う。 

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