■今でも脳裏に焼き付く光景

 エメルソンが浦和を去ったのは、2005シーズンの途中だった。夏場のリーグ中断期間にブラジルに一時帰国すると音信不通になったが、これは毎度のことだから当初懸念はなかった。しかし、カタールリーグのアル・サッドへの移籍話が突如浮上すると周囲が騒がしくなり、数日後にはエメルソンが白装束を身にまとったアル・サッドのクラブ幹部と握手する場面の写真が出回り、移籍が正式決定した。

 その数カ月前には浦和への忠誠と、日本生活の快適さも相まって日本国籍を取得した上で日本代表入りもほのめかしていただけに、その変わり身の早さに唸るしかなく、当時浦和を指揮していたギド・ブッフバルト監督も彼の放出を受け入れざるをえなかった。

 ただ、どんなに素行が悪くても、約束を履行しなくても、彼のパーソナリティーには愛嬌が伴っていて、辛辣になれない。“相棒”の田中はエメルソンのことを彼のミドルネームである「パッソス」と呼んでいて、「(出生届の二重提出によって)本名で残ってるのはもう『パッソス』しかないでしょ」と言われて苦笑する本人の姿はなんだかほほ笑ましかった。また、コンビニに入って自身が表紙のサッカー雑誌を見つめていたらファンに声を掛けられ、その場でその雑誌を買ってサインしてプレゼントするなど、本来の彼は気遣いができる性格(のはず)である。

 カタールへ旅立ってからは2006年に本名・生年月日の異なる2つの出生証明書を使用していたことが判明し、ブラジル連邦警察に逮捕されたことも。カタール代表入り問題(国籍取得による代表入りを目指すも、ブラジルユース代表の出場歴があったことからFIFAから資格を認められず)を契機に、その地を追われるなどの受難に遭ったが、母国ブラジルに戻ってからは才能を惜しみなく発揮してフラメンゴ、フルミネンセといった名門クラブでプレーした。そして、2012年にはコリンチャンスの一員としてリベルタドーレス杯の決勝で2ゴールして優勝を果たし、出場権を得たFIFAクラブワールドカップ2012では、約7年ぶりに日本でプレーして決勝でチェルシー(イングランド)を破り、同タイトルの制覇に貢献した。

 今でも脳裏に焼き付く光景がある。エメルソンがゴールを決めた瞬間に浦和サポーターが一斉に「エーメー」と唱えてお辞儀するシーンだ。数万人の大観衆が一糸乱れず唱和する中で、エメルソンが胸のエンブレムを拳で叩いて彼らを鼓舞する--。

 日本サッカー界に衝撃を与えた希代のアタッカー。その颯爽としたプレーの数々に思いを馳せながら、それでも彼のことだから、年末に引退試合を開催して、舌の根も乾かぬうちにすぐに現役復帰を表明するんじゃないかという淡い期待も抱いている。(文・島崎英純)