滝田栄 (c)朝日新聞社
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“戦国三英傑”のひとり徳川家康は世界でも例を見ない260年余の争いなき時代の基を築いた武将だが、大衆的な人気の点では他のふたりの英傑織田信長と豊臣秀吉に及ばない。

 考古学者の山岸良二氏は、「日本人は〈目的のためには手段を選ばず結果として目的を達成した〉家康に対して〈嫉妬心〉や〈単純に好きになれない複雑な気持ち〉にかられてしまうからだ」と分析する。

 山岡荘八は26巻に及ぶ長編時代劇「徳川家康」で、“陰湿、策謀、吝嗇、老獪”というイメージが強い家康を“戦のない世をつくろうと真摯に努力した平和主義者”に書き換えようと奮闘した。その熱意から原稿用紙17,400枚の大作(講談社刊『山岡荘八歴史文庫』)が生まれ、同著はジュール・ロマン著「善意の人々」(全27巻)と並ぶ「世界最長小説」としてギネスブックにその名がきざまれた。

 1983(昭和58)年の大河ドラマ第21作目の「徳川家康」は、その山岡が創作した“家康像”を踏まえて制作されたのだが、誕生から21年を経ようとしていた大河ドラマは、ある重大な局面に面していた。時代劇としての大河ドラマにピリオドを打ち、「徳川家康」を最後に明治以降の近・現代への移行しようとしていたのだ。チーフ・ディレクターの大原誠は当時の模様を次のように記している。

「(企画決定機関より)昭和五十九年度から大河ドラマを大きく転換させ、近代路線へ移行させる案が示され、我々の担当する『徳川家康』が時代劇としての最後の大河ドラマになるかもしれないとの趣旨説明を受けました。(中略)『草燃える』の時点で検討された近代路線がいよいよ実行に段階に入る決定がなされたのです」(『NHK大河ドラマの歳月』)

 その決定に従って「徳川家康」の翌1984年には、二・二六事件から東京裁判までを描いた「山河燃ゆ」、翌々1985年には日本の女優第一号といわれる川上貞奴の生涯を描いた「春の波涛」、その翌年1986年にはひとりの女医の40年を描いた「いのち」が作られた(1987年の『独眼竜政宗』で再び時代劇路線に回帰)。

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