●生類憐みの令が誕生したわけ
やがて、綱吉に嫡男が生まれるも5歳で夭逝。以後、子宝に恵まれないのは「世に対する功徳が足りないせい」と考えるようになった綱吉と桂昌院は、功徳となる改革が何かないかと考え始めた。時代はまだ、町中での辻斬り、子殺しなど戦国の風潮が残る荒れた世の中、綱吉が発布したのが「生類憐みの令」だったのである。
「犬を殺してはならない」という側面ばかりが取り上げられている法律だが、困窮者には米を支給、病人に対する無料での治療、全国で没落した100以上にものぼる小さな寺社の復興資金の提供など、今でいう福祉的・公共事業的な側面を持つ法律でもあったと近年の研究では指摘され始めている。この時幕府が負担した費用は70万両(現在の700億~1000億円くらい)で、全資産の1/3をつぎ込んだと記録されている。
●吉宗が師と仰いだ綱吉
結局、綱吉に世嗣ぎは生まれず、富士山が爆発したり、赤穂浪士が仇討ちを果たしたりと、綱吉にとっては不運にも見舞われ、後世の悪評にもつながってしまう。加えて以後の六代・七代目は、長い徳川幕府の中で最大のピンチとなる綱渡りの世代交代時代となるのだが、続く八代・吉宗は、テレビドラマとしてもおなじみの名君として知られる将軍となった。この吉宗は綱吉をとても尊敬し、自らの改革にも綱吉の考えを取り入れ、自分の墓も寛永寺の綱吉のそばに作らせているほどである。
また、桂昌院が詠んだ句に「法の師のをしえたまうにならいそてわが後の世もたのみこそすれ」(もう何年も仏さまの教えに触れています。ですから、どうか私の後の世も人々が幸福でありますようお守りください)というものがある。この2人がいなければ、神社仏閣が今のような形で存在していたかどうかは怪しいものだ。
桂昌院の生まれた西陣近くにある「今宮神社」では、彼女にちなんだ“玉の輿守り”が授与されている。また、江戸城で桂昌院が毎日拝んでいたと伝わる「福壽神」が鎮座する東京秋葉原の柳森神社には、玉の輿に乗りたい人たちの参拝が多いと聞く。
玉の輿に乗った桂昌院は、ほんとうに幸せだったのかは今ではまったくわからないが、乗ったら乗ったで、悩みも深く、責任も重くなるものかもしれないと、桂昌院の一生を見ているとしみじみと感じてしまうのである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)