[連載]アサヒカメラの90年 第24回 (1/2) 〈アサヒカメラ〉|AERA dot. (アエラドット)

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[連載]アサヒカメラの90年 第24回

総写真家時代の「アサヒカメラ」

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鳥原 学アサヒカメラ

2015年11月号。表紙の写真は森山大道の作品

2015年11月号。表紙の写真は森山大道の作品

1935年1月号表紙 安井仲治「寫眞家は無くなる」掲載

1935年1月号表紙 安井仲治「寫眞家は無くなる」掲載

2009年1月号「デジタル一眼レフに動画撮影機能は必要か?」から

2009年1月号「デジタル一眼レフに動画撮影機能は必要か?」から

2009年1月号「デジタル一眼レフに動画撮影機能は必要か?」から

2009年1月号「デジタル一眼レフに動画撮影機能は必要か?」から

タカザワケンジ「写真家の仕事2013」から

タカザワケンジ「写真家の仕事2013」から

伊東豊子「写真市場の最前線」から(ともに2013年1月号)

伊東豊子「写真市場の最前線」から(ともに2013年1月号)

2014年12月号 尾仲浩二「写真家が写真を売ること 海外の写真イベントでの出会い」

2014年12月号 尾仲浩二「写真家が写真を売ること 海外の写真イベントでの出会い」

2014年7月号「ホンマタカシの今日の写真 2014」から

2014年7月号「ホンマタカシの今日の写真 2014」から

2014年8月号 松江泰治「JP-01 SPK」から

2014年8月号 松江泰治「JP-01 SPK」から

2014年8月号表紙 「都市を撮る」掲載

2014年8月号表紙 「都市を撮る」掲載

安井仲治の予想

「アサヒカメラ」の歩みをたどってきた本稿も最終回。毎月バックナンバーを繰りながら写真作品や記事に目を通してきたが、そのなかに、どうにも忘れがたい小文がある。

 1935(昭和10)年1月号で、未来を占う「百年後の写真」という特集が組まれたとき、浪華写真倶楽部の安井仲治が寄せたものだ。ほとんど正確に、2010年代のことを言い当てているように思われるそれは、「寫眞家は無くなる」と題されていた。

「技術の進歩は、科学者の努力によって著しく、たとへばゼラチンや銀の代りに何かが使用され、非常な高感光でレンズは口径が小さくてもよくなり、焦点の問題は解決され、現像は気体を使用されるかも知れません。カメラは無論小さくなりませう。そして其機構は徹底的に単純に、技法は簡易になり『寫眞家』と云ふ特殊な称呼はなくなり、全く普遍化します」

 幸いにもまだ「写真家という特殊な称呼」はなくなってはいない。だが世界中の人々がSNSの写真でコミュニケーションし、ときにそれが報道や広告として活用されているように、写真家という特権的な立場が「全く普遍化」したことは疑いようもない。

 もちろん、慧眼(けいがん)の安井にしても予測できなかったことがある。それは静止画と動画の融合だ。もともと動画機能はコンパクトデジタルカメラに早くから備えられていたが、フルハイビジョンでの本格的な撮影は、08(平成20)年発売のキヤノンEOS 5DmarkIIによって可能となっている。同年10月号に同機が初紹介されたさいは、あくまで静止画メインだとされているが、すぐ実用として使われたようだ。翌09年1月号特集「是か?非か? デジタル一眼レフに動画撮影機能は必要か?」では、「1000万円クラスの映画用ビデオカメラにも匹敵」するカメラが30万円弱で購入できる、という動画関係者の声が紹介されたのだ。

 さらに14年発売のパナソニックLUMIXGH4からは、より高精細な4K動画から静止画を切り出せる機種が相次いで登場する。以降、動画と写真との境界は低くなり、シャッターチャンスという言葉の意味を変えつつある。

 こうしてデジタルカメラの性能が進化し続けるのに反比例して、カメラ市場自体は急速な縮小に見舞われている。一般社団法人カメラ映像機器工業会の統計によればデジタルカメラは出荷数量(10年)、金額(08年)をピークにして減少に転じ、16年のそれは前者で約20%、後者では約33%にまで落ち込んでいる。「普遍化」の主役、iPhoneに象徴されるスマートフォンに、普及型のコンパクトカメラは駆逐されたのだ。またフィルムカメラは出荷台数が少なすぎるとして、08年から公表は取りやめになった。カメラメーカーは、高性能の一眼レフや伸長著しいミラーレス一眼で事業を維持しつつ、蓄積した技術で産業用や監視用カメラ、あるいは医療分野への進出を加速させている。

 安井はまた表現についても予想しているが、それは冷静というより悲観的でさえある。「しかし其芸術としての立場は恐らく余り進歩しますまい。時代を経ることによってだんだん高くなるとは云えません。人間のすることの芸術性は、千年前と今日と比較して横には広がるけれ共、深くはなっていない事に誰でも気付きます。百年の歳月はあまり長いとは云えませんから、実際あまり期待出来ないと思いますが、一人の天才の仕事で、吾々凡人の想像力は完全に覆され得る事をせめてもの慰めとして居ります」

 考えてみれば、これが書かれた1930年代半ばは、戦前における写真界のピークである。ライカやコンタックスなど、精細な描写力を持った小型カメラが広まり、アマチュアの写真人口が増え、写真雑誌の部数が大幅な伸長をみせていた。なにより安井を筆頭とする才能豊かな芸術写真家たちが、日本写真史上の精華と呼びうる作品を多数発表していた。そのような状況をふまえてなお、彼は美術史をふまえ時代の先を冷徹に見ていたことに驚く。

 確かに2010年代になって、写真の表現ジャンルもその裾野も横に大きく広がっている。ただ皮肉だと思えるのは、そのような状況が、あの写真産業の変容を背景にしていることだ。

写真文化の変容

 写真産業の宣伝や支援は、日本の写真文化を支えてきた大きな柱だ。アマチュアのクラブを主宰し、ギャラリーなどの発表の場を設け、ときに機材や資金面で写真家の活動をサポートしてきた。もちろん本誌をふくめた写真雑誌も、その広告出稿に大きく頼っている。カメラ市場の縮小はこの構造に変化を迫り、それとは別の写真文化のありようを模索させる要因のひとつだといえよう。

 たとえば13年1月号のタカザワケンジによるリポート「写真家の仕事2013」はそのことをよく伝えている。ここではインターネット上での活発な写真コミュニケーションから生まれた作品、ユニークな写真イベントやトークショーの増加、さらに写真集制作のための資金をクラウドファンディングを利用して集める動きなどが紹介された。

 同号には前年のパリフォトに関する伊東豊子のリポート「日本の写真家は世界へどう向かうのか 写真市場の最前線」が掲載されている。すでにイベントの熱気をリポートする時期は過ぎ、国際市場にアクセスすることのシビアさが中心となっている。写真マーケットは拡大しつつも、「(作家一人当たりの)マーケットはすごく小さい」という日本のギャラリー主宰者の率直な声の一方で、マーティン・パーのそれでもなお「世界に出たければ来るのは当然。そういう投資も必要」という写真家としてのアドバイスが語られる。

 尾仲浩二はその投資を行ってきたひとりである。伊東がリポートした12年のパリフォトでベルギーのキュレーターと知り合い、16年にブリュッセルの美術館で個展を開催している。そんな海外での体験は14年12月号の情報欄「イメージステーション」で語られている。

 尾仲が初めてパリフォトに参加したのは08年で「僕の日本の旅写真なんてヨーロッパの人たちに理解されるとも思えず」不安だったが、持参した写真集はすべて売れてしまった。そこで帰国すると英会話レッスンに通い始め、さらにほかの写真イベントにも積極的に顔を出すようになった。その結果、海外のネットワークは広がり、写真作品の販売が好調になった。その体験から尾仲はこう語る。「作家がみずから作品を売ったり、お金の話をすることは下品なことだとする風潮が、いまだに日本にはあるように思う。(中略)写真家が写真を売るのは真っ当なことだと思う」


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