そのころ、寝入る前に「このまま死んだら、自分は幸せな一生だったことになる」と思うのが半ば習慣になっていた。過去の受験、就職、結婚。何をとっても、希望がかなわなかったことがない。そこに今日また幸せな1日を積み重ねた。ここで終われば、幸せな一生ではないか。
だがある日、こんな反論が胸の内から聞こえてきた。
「もし本当に幸せだと感じているのなら、長く続けと考えるのが自然ではないか。それなのに『もう終わっても構わない』と思いながら生きていくのは、あまりいい人生ではないな」
もう一生が幕を閉じても構わないというのは、残りの人生でこれだけはやり遂げたい、という目標がないことの裏返しだ。確かにそれはさみしいことに思えた。
そのうちに「1日あたりの幸せを10分の8、9にする」との理屈は、つきものが落ちたように消えてしまったというわけだ。
思えば私は、その時その時の状況をよく生きるための「小道具」になる理屈をその都度、こしらえてきた。自分の鼻先にぶら下げて導く、ニンジンのようなものだ。「10分の8、9」もそうだし、がんの疑いを指摘された当初の「常に最悪の事態を想定しておく」もそうだ。おかげで、がんの中でも難しい膵臓(すいぞう)がんと言われても落ち着いて治療に向かえた。「泰然自若としている」と手術の執刀医から太鼓判を押されたほどだ。
だがこれも、「最悪の事態」を想定して準備を進めていないことに最近気づいた。小道具をしまうのが少々、早すぎた。
どれも、いつでも誰にでも通用する「絶対的な真実」などではない。過去の連載分を読んでいただくとき、当時の状況説明や、公開日が欠かせないのは、このためだ。
正直なところ、状況が変われば、それをよく生きるために、これまでとまるっきり逆の理屈を用意することもいとわない。
「最悪の事態は想定しておかないほうがいい」
「幸せは1日あたりではなく、一生の総量こそ大切だ」
なぜならば……といった具合に。