うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は「忘れ物」と「言論の自由」について。
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結婚記念日なのに「浮気」しようとしたのがよくなかったのかもしれない。今月6日、それまで食べたことがないそばで記念日を祝おうと、それがメニューにある店に電話したら「今晩はやっていません」と断られた。
私と配偶者にはがんに立ち向かった「同志」だと思っている夫婦がいる。昨年がんでなくなり、コラムで紹介した中国の人権活動家、劉暁波(リウシアオポー)さんと妻の劉霞(リウシア)さん夫妻だ。
北京を思わせるその店ならではの「巣ごもりそば」を食べながら、記念日2日前の日付「六四」に起きた天安門事件と、29年前に参加した劉暁波さんを思う。そんな趣向だったが果たせなかった。
なぜ「巣ごもりそば」かといえば、答えは形にある。数日前に病院内で買った山本おさむの漫画『そばもん』(小学館)に「鳥の巣のようにお椀(わん)型に揚げるには、修練が必要」とあり、ピンときた。鳥の巣は2008年にあった北京五輪のメイン会場だ。
その年、劉暁波さんは中国政府に民主化や立憲政治を求める「08憲章」を起草し、後にノーベル平和賞を贈られる。このそばを起点にするとすべてがつながるのだ。
あてが外れた私たちは、味に外れがない行きつけのそば屋に向かうことにした。結婚指輪を定位置のキーボックスに置いたまま家を出た。内側には「2007年6月6日」の日付がかすかに読める。私の35歳の誕生日、他人同士だった2人が家族になったのだ。
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昔は外出するときに左薬指にないと落ち着かなかった結婚指輪。それをしなくなってもう2年2カ月が経つ。がんで脂肪がそげ落ち、細くなった指から一度落として以来、つけて表に出るのが怖くなったのだ。