私が福島総局で働いていた2015年9月。街頭で反対の声が盛り上がるなか、国会では集団的自衛権行使の限定容認を含む安全保障法が成立した。

 当時の国会やメディアの状況を、安保法制に賛成する細谷雄一・慶大教授は著書『安保論争』(ちくま新書)でこう指摘している。

「もっぱら憲法解釈上の技術論(略)に終始するなど、日本を取り巻く安全保障環境の変化(略)について、深みのある議論が聞かれることは稀(まれ)だった」

 確かに当時の印象では、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル問題をどうみるかや、それまでの外交・安保政策の是非などは深掘りされなかった。このうち、民主党政権時代も含めた日本の対北圧力路線には最近、米朝首脳会談に向けて米国、韓国が対話に傾くなか、「蚊帳の外」といった批判も出ている。そのころ議論しておく手はあったと今にして思う。

 当時の朝日新聞の報道に対する私自身のイメージも、指摘と重なる。

 しかし、と考える。仮に私がその場にいたとして、日本を取り巻く情勢という議論の出発点によりスペースを割くよう、社内で提案できただろうか。

「法案の必要性を認め、成立を後押しすることになる」「憲法を重視する読者の期待を裏切る」。そう非難されて居づらくなるのではと、あるかどうかも分からない事態を勝手におそれ、口をつぐんでいたのではないか。

 とはいえ、「共謀罪」法の成立によってますます窮屈な世の中になるおそれがある。「正しいこと」はむろん大切だが、同時に「言いにくいこと」を言う訓練を積んでおかなければ、相手が身内から時の政権に代わった時に「言論の自由」をめぐり対峙できないのではないか。

 学校で子どもたちは、いじめを見過ごさずに声を上げろ、と教わる。新聞記者などの大人も、勤め先が自社の「正論」一色に染まりそうになったら、異論を唱えて混ぜっ返すことだ。社論が賛否どちらでも、多様性を取り戻し、分断の「向こう側」に声を届ける。ある政策を是とするか、非とするか。最後に決めるのは新聞社ではない。国民、読者だ。

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