時代はすぐに松平定信の治世へと移った。あれほど悪評を被った意次だったが、先祖返りした定信の改革に「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」(白河〈定信〉の治世はクリーンすぎて息苦しい。きままだった前の濁った水の時代が恋しい)といった風刺歌が歌われはじめた。
●ともに格式あるお寺に眠る
田沼意次・意知の墓は駒込・勝林寺、佐野政言は浅草・徳本寺と、ともに今も都内に存在する。
勝林寺は江戸の開府とほぼ同じ頃、神田明神近くに創建された臨済宗のお寺である。意次の父・意行の葬地として選ばれて以降、田沼家が勝林寺の大きな後ろ盾となり繁栄してきた。本尊の釈迦如来は関東で一番古いともいわれる平安前期時代のものと伝わっている。
一方の徳本寺は、三河国で創建されたものが家康入府の頃に神田に移転、のちに関東における東本願寺の元となった浄土真宗のお寺である。現在は東本願寺とは別寺として隣接しているが、東本願寺と分離する際、京都の東本願寺から移った快慶作の阿弥陀如来像を本尊としている。その後2寺とも移転を余儀なくされ、現在はかなり離れた場所となっているのだが、江戸草創期にはともに神田に鎮座していたという事実もなにやら因縁めいている。
歴史の中で田沼親子に被せられた悪評の多くは、意次によって将軍への道を閉ざされた松平定信の復讐だったとも言われている。意知襲撃事件が“もし”なければ、海外の江戸研究者が言うように日本の近代化は早まっただろうか。意次の死後、彼の資産を没収しようとした定信はほとんど財産を持たない田沼家の内情に驚嘆したという。賄賂政治家だと教えられてきた意次・意知のお墓の前で、「知らないこととはいえ、今まで悪口言っててすみません」と思わず謝らずにはいられなかった。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)