●意次の息子も大出世
意次の息子である意知は、19歳で国司になったのを皮切りに、大名の身分でさえないままに、天明3年には若年寄に就任するという異例の出世を遂げていた。
事件は、若年寄就任の翌年に起きた。佐野政言は、江戸城内で「覚えがあろう!」と3度叫びながら、意次に切りかかったという。
政言は意次親子を襲撃すること狙っていたようで「七箇条の口上書(果状)」を懐中に持っていたとか。中には「佐野家の家系図を見たいと云ったので貸したが返さなかった」「わが領内にある佐野大明神という社を家来を使って田沼大明神と改め横領した」「佐野家にあった七曜の旗を見たいと云うので見せたらこれは田沼の定紋だと云って取り上げた」「何度も嘘をつかれ、その都度金を差し出し合計620両を騙し取られた」「狩りの折に射止めた雁を将軍に披露してもらえなかった」などが書かれていた。最終的には乱心として処理、意知が事後死亡したことから、政言も切腹の沙汰となった。
●「世直し大明神」のご乱心
田沼意次・意知の改革は、保守的な幕閣たちからの反感を買い、またこの頃、飢饉や大火、火山の噴火などの大災害も続いたことから、世間には次第に不満が広がってきていた。そんな折起きた意知襲撃事件は、人々の間で快哉があがり、政言のことを「世直し大明神」とさえ呼んでもてはやした。切腹させられた政言の墓所には参拝者が絶えなかったという。
意知は即死ではなく、事後の治療が悪く1週間ほどして亡くなったとあるが、政言は切りつけた刀に疵が治らないよう獣の血を付けたり、トリカブトの根を塗ったりしていたというから、その怨念たるやすさまじい。
●暗殺に黒幕はいたのか
この襲撃以降、片腕を亡くしたも同然となった父・意次は、次第に力をなくし、ついには後ろ盾であった将軍・家治の死去とともに失脚。このころ市中は田沼親子を揶揄する歌であふれかえったという。一方で、オランダ商館長は「井の中の蛙揃いの幕閣の中、田沼だけが日本の将来を考えていたのに残念だ。背後に佐野を操ったものがいる」と外信している。