忠臣蔵で有名となった江戸城・松の廊下での刃傷沙汰。城内では抜刀だけでも厳しい処罰が待っていた時代だけに前代未聞の事件かと思いきや、実は江戸時代に殿中での刃傷沙汰がなんと9件も記録に残っている。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の乱心は、歴史上初めてでも最後でもない。家臣による仇討ちという前代未聞の騒動がなければ数十年に1回起きた事件のひとつにすぎない。浅野内匠頭の騒動は歴史的なできごとというより、四十七士の義士たちのほうが注目された出来事といえよう。
●江戸城内で起こった刃傷沙汰
ところが、江戸後期となる天明4年3月24日(1784年5月13日)に起きた8件目の事件、佐野政言(まさこと)による田沼意知(おきとも)襲撃は、この刃傷沙汰そのものがのちに歴史の教科書にも記された歴史の転換点を招いた事件といえるのではないかと思う。
田沼意知とは、第10代将軍・徳川家治の老中を務めた田沼意次(おきつぐ)の嫡男で、事件当時はすでに若年寄に出世していた。
一方、佐野政言とは、旗本の一人息子で、家系的には藤原秀郷(ひでさと)の子孫である藤原姓足利氏の一族と伝わる由緒正しき武士である。藤原秀郷とは平安時代の武士で、現在東京大手町に首塚のある平将門を討った人物だが、彼の子孫は以後の武士の世界において大いに出世をとげる家系となっている。
●田沼意次は悪い老中?
逆に田沼意次の家系はといえば、足軽の父を持つ軽輩ながら徳川吉宗に見出され、ついには老中にまで上り詰めた立身出世の象徴ともいうべき人物である。意次が老中に就任した折には、幕府の財政は逼迫を極め、財政立て直しのために多くの改革に取り組んだ。中でも、商業の発展に力を入れ、株仲間の結成や海外貿易の拡大、新田の開拓や鉱山の開発などにより、今でいうインフレ経済を推し進め財政を改善させた。
米中心の経済から貨幣経済へと移行することで経済は安定したが、各分野で贈収賄が横行し、収益のあがらない農民たちが田畑を放棄するなどの弊害も出たのだが、幕府の備蓄金は、5代将軍・綱吉以来の最高金額を記録したようだ。