4Kとは民主党の政権公約で、野党が「バラマキだ」と批判した子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、(農家)戸別所得補償の頭文字からきた通称だ。
あえて私が働きかけるまでもなかった、と思った。「2人に任せておけば大丈夫だ」。夜空の下、清々しい気持ちで別れた。
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いま思えば、私の見通しは甘かった。とっくに政治には絶望したつもりだったが、まだどこかで期待している部分があったのだろう。私が勇み足をしてまで実現しようとした政治休戦は一夜の夢に終わった。
災害特が主戦場にならなかったのは、法案を迅速に処理するために別の特別委員会が設けられた結果だから仕方がない。
しかし、非難合戦の再開の早さは予想をはるかに越えていた。自民党の谷垣禎一総裁は翌4月、「(震災への)対応の遅さは、日本の国際的な信用な失墜を招いている」と、首相に退陣を迫った。菅政権は6月に提出された内閣不信任案こそ否決したものの、その秋には退場。続く野田政権が民主党最後の政権となった。
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震災から7年が経過した。この間に私は福島で原発事故の傷跡を目の当たりにした。与野党のかみ合った議論が見られない国会の姿に、往時を思い出す。どちらにも理屈はあるだろう。しかし、その姿は震災や2年前の熊本地震で被災した人たちに「ほったらかしにされている」と思わせてはいないか――。
この回を閉じるにあたり、時計の針をあの赤坂の夜まで巻き戻したい。
グツグツと煮えたぎる鍋を前に、古川さんは私たち2人に知り合いのエピソードを聞かせてくれた。
その社長は被災地でボランティアをしようと、車に資材を積んで宮城県石巻市に向かった。「ありがたいが、あっちにもっと困っている人がいる」と言われて山奥に車を走らせたると、また「あっちにもっと困っている人がいる」と言われる。資材を届けるまで3回も移動しなければならなかった、という話だった。
「まだ日本人は捨てたもんじゃない」。なかば自らに問いただすように古川さんが絞り出した一言が今も胸に刺さる。
「けど、そういう人たちの思いに応えることを政治はやっているのか?」
(肩書きや党名はいずれも当時)