広島のエースとして通算213勝を挙げた北別府学が右ひじの悪化を理由に1994年シーズン限りでの引退を発表。地元最終戦となる9月20日の巨人戦(広島)で現役最後の登板をすることになった。

 ところが、一時期首位・巨人に15.5ゲーム差も離されていた広島が、シーズン終盤の猛チャージで2.5ゲーム差まで肉薄。同日の試合結果いかんによっては、逆転Vの目も出てきたため、三村敏之監督は北別府の起用法に頭を悩ませることになった。

 そして迎えた当日、広島は2回に金本知憲の二塁打などで一挙5点を先制。大量リードで先輩の花道登板をお膳立てしたかに見えた。

 しかし、4年ぶりVがかかる巨人も負けてはいない。4回に原辰徳の2ランなどで3点を返し、5回には松井秀喜の一発で同点。さらに6回にも村田真一のタイムリーなどで7対5と試合をひっくり返した。

 これに対し、広島も7回から佐々岡真司を投入し、前田智徳の右前タイムリーで8対7と逆転した9回には守護神・大野豊が登場するなど、両チーム死力を尽くしての総力戦となった。

 この間、ブルペンで投球練習をしながら、試合を見守っていた北別府は「気持ちの切れた自分が登板すべきではない」と考え、一緒に投げていた大野に「オレは行かんぞ!」と登板辞退を告げた。

 この瞬間、現役最後の登板は消えてしまったが、最終回のマウンドに上がった大野は「ペー(北別府)の分と合わせて2倍の力が出た」と力投し、見事1点差を守り切った。試合終了後、引退セレモニーが行われ、北別府はチームメートたちに胴上げされて有終の美。マウンドに上がることはできなかったものの、“最高の引退試合”になった。

 投手にとってプロ初勝利を挙げた試合は一生忘れられないメモリアルゲームだが、そのプロ初勝利が2日後に取り消されてしまった不運な投手がいる。

 投手の名は原田賢治。あけぼの通商からドラフト外で阪急に入団し、1年目の1986年は17試合に登板した。

 同年10月3日の西武戦(西武)、4対3とリードした6回から4番手としてマウンドに上がった原田は、9回2死まで3回2/3を4安打2四球無失点に抑え、うれしいプロ初勝利を挙げた。

次のページ
まさかのどんでん返し