●お相手小姓ゆかりの地
一方、お相手の小姓が、お七亡き後出家し、西運となりお七の菩提を弔うため念仏堂を建てたとも伝わっている。念仏堂を建立したお寺は明王院といったが、明治時代に廃寺となり、現在は隣接していた松林山・大圓寺(前述の大圓寺とは別寺)にお七地蔵ともども西運が祭られている。
現在、廃寺となった明王院の跡地には目黒雅叙園が建っているが、入り口付近には「お七の井戸」が残されている。西運がお七のために目黒不動尊と浅草観音の間の往復10里(約40キロ)を、1万日(約27.4年)日参するという悲願を立て成就するのだが、出発前に水垢離(ごり)をとっていたのがこの井戸だと伝わっている。西運の道すがら得た浄財で、雅叙園横にかかる太鼓橋が作られたとも。この橋、今は普通のコンクリートの橋だが、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれている名勝として知られている。
●お七の伝説が未だに日本に影響を与える
お七最大のフィクションは「ひのえうま」伝説である。午(うま)年生まれの中でも特に「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める」という迷信のため、1906年生まれは前年より4%、1966年は前年より25%も出生率が下がっている。実はこの迷信、お七が丙午年生まれだ──ということからきているようなのだが、お七の生まれは丙午ではない。これは、炎の中で半鐘を鳴らす姿を一層強烈にするために、人形浄瑠璃の脚色の中から生まれた設定であることがわかっている。前述の迷信は、この設定のために生まれたまったくの俗信なのだ。根本的に、お七が丙午生まれならば、すでに大人として刑は処理され、西鶴の目をひくこともなかったにちがいない。
お七は天和3年3月28日(新暦1683年4月24日)に処刑された。のちに創作されたような奉行の温情やご近所の嘆願などもなかっただろうと言われる。そんな情けなどかける余裕もないほどに、江戸時代に頻発した火事は市井の生活を困窮させていたのである。そして、亡骸は身内に引き取らせてはもらえず、そのまま刑場で朽ち果てていった。にもかかわらず、彼女の亡霊は現代の出生率に影響を与えるほどの力を持っているのだ。やはり一番コワイのは、戸を立てることもできない人の口なのかもしれない。