現代では「炎上」は毎日どこかでおこっている日常の風景となったが、江戸時代に火の手が上がることは、歴史的な悲劇につながっていた。このため「火つけ(放火)」という犯罪には、成功・未遂にかかわらず「火あぶり」という極刑が待ち受けていた。見せしめとして行われる刑罰なのだから、生きながらにして焼き殺されるさまは凄惨を極め、簡単に死なせない残酷な処刑方法として一二を争う方法に違いない。
●恋しい人に会うために火つけをした少女
江戸時代、この火刑を受けた有名な女性がいる。刑に処された年齢が、まだ15とも16ともいわれる八百屋お七だ。江戸の大火で焼け出された折、避難した先の寺小姓と恋仲となり、建て直されたわが家へ戻ったあとも小姓のことが忘れられず、「もう一度火事になれば一緒にいられる!」と思ったお七は、自宅へ放火するのである。
●実は話のほとんどはフィクション
お七の話は、実話をもとに書かれた井原西鶴の「好色五人女」で紹介され、以後現代に至るまで、さまざまな場所で演じられてきた。歌舞伎、人形浄瑠璃、落語、ドラマ、映画とお七を演じた役者は数知れず、江戸時代に描かれたお七の錦絵も飛ぶように売れたという。
ところが実話をベースにしたとはいえ、西鶴以後もさまざまな脚色がほどこされ、すでに実話がどこにあるのかまったく定かではなくなってしまった。
事実ではないかと言われているのは、お七の実家が本郷で、避難したお寺は正仙院、鈴ケ森刑場で火あぶりに処された、ということくらいである。お相手の名も、吉三郎、生田庄之介、山田左兵衛、吉三などはっきりせず、その身分も寺小姓や武士、浪人などさまざまで、処刑されたお七の年もはっきりとはわかっていない。
●それでも各地に残るお七由縁の地
とはいえ、お七は江戸で大人気のキャラクターとして成長したため、各地に由縁の地ができた。お七の墓はもちろん、お相手の寺小姓由縁の地など江戸を中心に各地に残っている。
たとえばお七の墓は、鈴ケ森刑場に近い真言宗智山派の密厳院、お七の実家にほど近い場所にある天台宗の圓乗寺のほか、千葉県や岡山県にも存在する。また、圓乗寺近くの大圓寺にはお七を哀れんだ商人が奉納したと伝わるほうろく地蔵なども作られている。