元広島カープの衣笠祥雄氏が4月23日に亡くなった。享年71歳。鉄人と呼ばれ、2215試合連続出場の記録を達成した衣笠氏を偲び、本サイトで「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズを執筆するライターの久保田龍雄氏に、衣笠氏の”もうひとつの記録”を振り返ってもらった。
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京都・平安高校時代に強肩強打の捕手として2度の甲子園出場をはたした衣笠氏は1965年、当時の広島としては破格の契約金1000万円で入団した。早速外車・フォードを買って猛スピードで乗り回したが、民家の塀に激突した挙句、球団に免許を取り上げられてしまった。以来、心を入れ替えて野球に専念し、1年目の1965年5月16日の中日戦(中日)で早くも1軍デビューを果たす。
そして、「将来の正捕手」と期待された衣笠氏が、内野手にコンバートされるきっかけとなる運命的な事件が起きたのは、同年9月5日、巨人戦のダブルヘッダー第1試合(広島)だった。
この日、衣笠氏は正捕手・田中尊の代打として途中出場し、マスクをかぶっていた。
巨人が3点をリードして迎えた4回2死一塁、投手の城之内邦雄が空振り三振に倒れた。だが、ショートバウンドで捕球した衣笠氏は、打者にタッチしなければいけないところを、スリーアウトチェンジと勘違い。ボールをそのまま城之内にトスすると、さっさとベンチに引き揚げてしまった。
城之内は当然のようにボールをヒョイと避けると、一塁に向かってスタコラサッサ。振り逃げセーフとなった。ベンチの指示で衣笠氏が気づいたときには、後の祭り……。失点につながらなかったのが、不幸中の幸いだったが、試合は2対7で敗れた。
その後、衣笠氏は10月のシーズン終了まで4試合マスクをかぶったが、翌年から内野手にコンバートされた。