危機に人は心のよりどころを求める。とくに仕事熱心だったとは思えない自分が「記者だ」という一点にすがるとは、予想していなかった。
直面する危機がそれほど大きくなければ、防衛本能が働くこともなく、かえってショックを受けていたのかもしれない。刺激に一喜一憂するセンサーを「予防接種」ですりつぶしたのは、それだけ危機感が強かったからではないか。
もちろん、これは私にとっては「成功談」だ。ただ、詳しく書き込むほど読む方の常識からかけ離れ、参考にしてもらえなくなるとしたら虚しい。
それというのも、前回のコラムが公開された後、3人の知り合いとこんなやりとりをしたからだ。大切な人のために検査は尽くすものだ、との思いは、よく読んでくれている相手には伝わっていると思い込んでいた。だが3人は、それぞれニュアンスや事情は違うものの「人間ドックの受診」「腫瘍マーカーの追加」「ドック後の精密検査」などを「やる」と即断していなかった。幹も枝もごちゃまぜで提案したせいか、みんな家族がいるのに、せいぜい「やろうかな」どまりだった。
正直に言えば、こうした時にまず心配するのは知り合いのことだ。だが、読んでくださっている中には、知り合いになっていれば、顔をひっぱたき、どやしつけてでも「受けろ」と勧めた相手もいるだろう。
だからあえて言う。最悪の事態を想定して云々というのはしょせん私の「好み」に過ぎません、と。
知らされた人間ドックの結果に泣き叫び、対応が遅れたからといって、治療を見送る人はまずいない。逆に検査を尽くさなければ、泣き叫ぶことだってできやしないのだ。
あなたが病気になった時に悲しむ人を思い浮かべましょう。浮かばなければ、生きて、そうした相手と出会う日を思いましょう。放っておいたほうがいいものか、と考える。できれば、検査を尽くしたのに早期発見できなかった人の無念さも知ってほしい。
それでもなお、ということならば、検査を尽くさない自由を人は与えられている。あなたはその1人だろうか。