便利な世の中だ。検査後、待合室でスマートフォンを取り出して「しゅすいかん」「たいぶ」と検索画面に打ち込んだ。「主膵管」「体部」と出てきた。「もしかしたら」に続く言葉を飲み込んでも「膵臓がんの疑いあり」と言っているのと変わらなかった。
その時、またしても頭に浮かんだのは「さすが記者」だった。前回よりもさらに膵臓がんの疑いが強まったのに、「嫌だ」「参った」は薄れていたように記憶している。
頭がおかしい、と思われても仕方がない。なぜなのか、自分なりに推測してみた。
人間ドックの結果が届いた後、最悪の事態を想定してきたことは書いた。いざという時に動揺して対処が遅れないよう、むしろ「まず間違いなく膵臓だ」と自分にすり込むことを心がけた。
嫌な病名を頭から追い出して「無菌状態」にすると体が弱くなる。むしろ積極的に取り込み、「予防接種」を重ねることで免疫、抵抗力を育てる。そんなイメージだ。病気が嫌じゃないのかと聞かれたら、嫌だと答える。だがそれを言ってどうなるのか――。
宙ぶらりんを脱して、さっさと白黒をつけたい。病院内で持ち歩くカルテを見ることを禁じられていないことに気づいてからは、写真に撮るようにした。
あわせて、病気という異物に強引になじむために、配偶者との会話で「膵臓」という言葉を意識的に口にすることにした。
たとえば、まだ精密検査が続いていた2月6日に配偶者と都内を散歩した後、道端の地図で確かめた足取り。
一連の検査を終え、都内の病院で手術するために福島市を離れる直前の14日に市内の公園で見上げた雲。
どちらも「膵臓のかたちみたいだ」と私が言ったと、配偶者は振り返る。
おかげで、26日に手術を受けた時には、病気や命をめぐる感覚がだいぶ鈍くなっていた。
手術後に麻酔から目覚めた時は、暗闇の中で医師と交わした無言のやりとりから、根治に欠かせない切除がかなわなかったのを悟った。こんな時まで「取材」している記者とは因果なものだ、と思った。