●すべてを喪亡した寛永寺

 この時戦死した幕臣たちは、そのまま見せしめのように野ざらしにされていたという。

 現在の東京国立博物館あたりが本坊で、噴水前広場あたりが根本中堂。ここからまっすぐ不忍池までが戦火にかかった。残ったのは、池に浮かぶ弁天堂と少し離れた観音堂、五重塔、そして鉄砲跡の残る黒門と本坊表門などわずかなものだった。

 明治時代になると30万坪以上あった敷地の多くを没収され、廃寺の危機に見舞われた。それでもなんとか、川越の喜多院から根本中堂としてお堂を移築し、復興は果たせたが、江戸時代の面影はもはやどこにもなくなってしまった。

●寛永寺の歴代貫主は輪王寺宮

 徳川家の菩提(ぼだい)寺という同様の境遇である増上寺が、ここまでの被害を受けなかったのは、徳川慶喜が関係してこなかったということもあるだろうが、寛永寺が政治に巻き込まれた最大の理由は、輪王寺宮という創建以来貫主を務めてきた血筋にもあった。

 これは天皇家の血筋で、幕府が有事の際に東国で「天皇」を擁立するための策だったのではないかとも言われている。実際、上野戦争の時には彰義隊に輪王寺宮は担ぎ出されている。

 考えてみたら、この時、何かが変わっていたら、日本は東西2国に分かれてしまっていたのかもしれない(いや、ないか)。

 今も根本中堂の裏側には「慶喜公蟄居の間」という部屋が残されている。皮肉なことに、焼失を免れた数少ない建築物のひとつなのである。この時代、修行をしていたお坊さまたちはどう感じていたんだろうと、寛永寺に参る度に思わずにはいられない。

 江戸に入った新政府軍の「錦の御旗」には「天照皇太神(あまてらすおおみかみ)」と描かれている。明治政府は、神道を推し進め、恭順の意を示した徳川慶喜のお墓は──たった1年だけの将軍とはいえ──15人の将軍の中で唯一神道系の姿で、谷中の墓地で常に一般に公開されている。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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