年明け4日に70歳で死去した星野仙一氏。中日、阪神、楽天の監督として計4度のリーグ優勝を果たした“闘将”であったが、現役時代には投手として巨人を相手に並々ならぬライバル心を燃やし、巨人戦勝利数歴代6位タイの通算35勝(31敗)を挙げた“巨人キラー”でもあった。改めて“燃える男”の冥福を祈るとともに、星野氏と同様に球界の盟主撃破に燃えた“巨人キラー”の投手たちについて語りたい。
■平松政次(大洋)
星野氏より1学年下、同じ岡山県出身の名投手。プロ3年目の1969年に14勝を挙げると、翌70年には25勝を挙げて沢村賞投手となり、その後も長らく大洋のエースとして活躍した。そして、現役18年で通算201勝(196敗)を挙げたが、その4分の1に当たる51勝(47敗)を巨人戦でマーク。右打者の懐に食い込む“カミソリシュート”を強気に投げ込み、特に長嶋茂雄に対してはめっぽう強く、通算対戦打率.193に抑え込んだ。もともとは巨人ファンで、プロ入団時の背番号は長嶋への憧れで3番に。星野氏同様、巨人からドラフト指名されなかった悔しさを、プロ入り後に“巨人キラー”として見事に晴らした。
■小林繁(阪神)
右アンダースローからの巧みな投球術で沢村賞を2度受賞した男。鳥取・由良育英高から全大丸に入社し、1971年のドラフト6位で巨人入り。76、77年と2年連続で18勝を挙げ、77年には沢村賞を受賞したが、78年オフに球界を揺るがした「江川事件」の余波を受けて阪神へ移籍した。プライドを大きく傷つけられる悲運のトレードとなったが、そのシーズン(79年)は巨人戦での登板を監督に直訴するなど並々ならぬ闘志でマウンドに上がり、巨人戦無傷の8連勝をマーク。22勝、防御率2.89の好成績で2年ぶり2度目の沢村賞を受賞した。
■川口和久(広島)
鳥取生まれのサウスポー。鳥取城北高から社会人野球のデュプロを経てドラフト1位で広島入り。プロ3年目の1983年に先発ローテ入りを果たして15勝を挙げると、その後も威力抜群のクロスファイアーを武器に勝ち星を連ね、86年から91年までは6年連続での2ケタ勝利を達成した。家族の事情もあって巨人にFA移籍する94年までに、巨人戦で計33勝(31敗)をマーク。巨人から30勝以上を挙げた投手の中で勝ち越しているのは、星野、平松と川口の3人のみということからも、この男の価値が分かるだろう。